私の視る夢、霧の約束。
夢の中で目が覚めたとき、私は、家から少し離れた山沿いの道で犬の散歩をしていた。
早朝で車通りが少ない車道を左手に、霧のかかった山を右手に見ながら、もうすぐ雨が降りそうな空を気にして早歩きで散歩を続ける。
けれど、大きなトラックが車道を通った途端、トラックが大嫌いな犬は驚いて走り出してしまった。突然のことに、私は犬を抑え切れずにリードが外れる。
「待って!」
犬を追えば逃げられる、そんな鉄則も忘れて私は必死に追いかけた。追われる犬は当然速度を上げて逃げ回り、どんどん山道へ入っていく。
「待って!」
もう一度声を上げ、見失わない様に追い縋る。犬が、トタン板で作られたボロボロの小屋に入るのが見えた。
犬の名前を呼びながら小屋に入ると、犬は小屋の奥で、小さな人影に撫でられて心地良さそうに目を細めていた。
「……誰?」
そう問いかければ、小さな人影はくるりとこちらを振り向いた。
外見は七歳か八歳程度の男の子だったが、何故かその子の瞳を見ていると、ずっと年上の様に感じられた。すべてを見透かされている様な、長い年月を生きた者特有の不思議な目だった。
「この子、お姉ちゃんの犬?」
「え、ああ……うん。ありがとう、落ち着かせてくれて」
不意に話しかけられ、私ははっと我に返る。彼は「どういたしまして」と答えて、ふわりと笑った。
「一緒に遊ぼうよ」
彼に誘われるままついて行くと、どんどん山道の奥へ入っていく。そのうち私と彼は、山の中の開けた空間に出た。周りを木々と霧に囲まれたこの小さな原っぱの中心には、何かがびっしりと刻まれた石碑の様な物があった。
「犬は先に帰っててくれるから心配しないで」
言われて持っていた筈のリードを見ればもう手の中には無く、犬の姿も見えない。それでも彼の言う通り心配にはならなかった。
「何して遊ぼっか。鬼ごっこ?隠れんぼ?」
「うーん……何でもいいよ。好きな事して遊ぼう」
「じゃあ、鬼ごっこがしたい」
短いやりとりをして、十数分程二人で鬼ごっこをしたあと……私は、ある事に気がついた。
「……笑い声?」
原っぱの奥の奥、霧に囲まれた木々の中から、きっと大人であろう数人の話し声と笑い声が聞こえる。他にも誰かいるのかと思いつつ、不思議とそちらに近づく気が起きなかった私は、誰なのと問いかけるふうに彼を見た。
すると彼も霧に遮られた向こうを見ながら、しかし問いには答えず、「こっちに来て」と手を差し出す。
言われるがまま手を繋ぐと、先程少し見た、何かがびっしりと刻まれた石碑のもとに案内された。
「ここに名前を書くと、また逢えるよ」
名前、と聞いて改めて石碑を見れば、そこに刻まれているのはすべて名前だった。何十人、いや、もしかすると百人以上の苗字と名前が、どちらもしっかりと残っている。
田中陽介、久保田春子、佐藤恵……たくさんたくさん刻まれたその名前を、霧の中の笑い声を聞きながら読んだ私は……彼に向き直って、はっきりと告げた。
「ここには名前を刻めない」
何故そう言ったのかは、自分でも解らない。ここに名前を残すだけで彼とまた遊べるなら、良い話だろうに。
だが私の疑問には構わず、名前を刻めないと言った途端周囲の霧が濃くなっていく。狭まっていく可視領域はもう私と石碑と彼の姿しか残さず、真っ白な世界で少年は寂しそうに笑った。
「……もう、お姉ちゃんは帰らなきゃ」
不意に告げられた別れの時に私は戸惑うが、霧はどんどん濃くなって、私を包み込む様に広がって、彼の姿すら隠していく。
「ばいばい、お姉ちゃん」
霧の中から辛うじて聞こえた声に、私は首を横に振る。
ばいばいじゃない。ここで別れてもう逢えないなんて。
君にそんな寂しそうな顔をさせたまま、一生逢えないなんて……!
「またね!」
だから、ばいばいじゃなくて、またね。
「またね!!」
また君と逢える様に、またこうして遊べる様に、またね。
結局その声に少年は答えてくれなかったけれど……なんとなく、笑っている様な気がした。
そこで夢は覚めた。
あの場所と少年が何だったのか、霧の中の笑い声は誰だったのか、石碑に名前を刻んでいたらどうなっていたのか……解らない事だらけだ。
でも、一つだけ確かな事がある。
これ以来、この夢は視ていない。