湯気
天崎 杏璃の声を、俺は聞いた事がない。
登校してから下校までの間、彼女の声を聞いたことがない。それどころか入学から今日に至るまで聞いたことがない。
朝のHRも授業中も十分休みも昼休みも下校の時も、あいうえおの「あ」の字も聞いたことがない。
彼女はまさに絵に描いたような陰気少女だ。周りに近づくだけで自分周辺の湿度が少し高くなったような気がする。
周りが髪をくるくると巻いたり香水をつけている中で、彼女は目元まで隠れる前髪と腰まで届きそうな黒髪だけで日々を過ごす。
そんな彼女を勝手に評価する俺、日暮 黎治だって陰気な人間の一人だろう。
スクールカーストでいうのであれば俺は真ん中くらいだろう。いてもいなくても変わらない人間だ。
単に彼女の声が気になったのも、ふと気づいただけでこれといった理由はない。
いつか忘れるだろう、そんな風に思っていた矢先だった。
放課後、日直の仕事である加湿器の水を入れなおす為に水道に向かう最中、水道近くの女子トイレから怒号と呼べる声が廊下に響き渡り、驚いた衝撃で水が容器の縁に当たり、弾けた水が水色の制服に黒い斑点を作った。
水道の蛇口を閉め、その声に耳を傾けると聞いたことのある声が怒号として耳に入った。
「…してんじゃねえよコラッ!」
ドゴンという個室便所の扉に人を叩き付けた鈍い音の後に、これまた聞いたことのある連中の声が聞こえるが、野次るような声なので細かい内容はわからない。
だがイジメの加害者の面々はおおよその予想がついた。
1年4組 大原 恵子、彼女だろう。
同じ1年4組でスクールカーストでは最上位に位置するだろう。毛先を巻いたカールや近づくとツンと鼻を刺す香水。聞こえてくる会話の語彙力の低さには思わず耳を塞ぎたくなる。
野次の連中はカースト最上位の恩恵を貰おうとする取り巻きだろう。
それにしても一体誰がターゲットにされているんだ?
少なくとも4組内で彼女に逆らおうとする者は誰一人いないだろう。もし噛みつこうものなら来年のクラス替えまで地獄に身を投じることになる。
4組外だとしても、5月の現段階で他のクラスに手を出すなんてことが有り得るのだろうか。
少なくとも、このイジメを止めに入った所でどうもなるとは思えないし、最悪の場合は俺がタ―ゲットに変わるのだ。
(そんなのは御免だね)
俺は女子トイレに向かっていた体を翻して行きとは比べ物にならない重さの容器を持って歩き出す。
タプタプと音をたてる容器は、俺の心を表すように右へ左へ揺れ動く。
(関係あるか、知らない子を助けたところで―)
「なんか言ったらどうよ杏璃ィ!」
足が止まった。
そして振り返ってもう一度、女子トイレに視線を向ける。
あぁそうか天崎がイジメられてんのか。自分でも気味が悪くなるくらい冷静な思考でそんなことを思う。
だけど関係ない。そう言い聞かせて再び歩き出す―
コンコン
木製の扉から響くその音は中にいる奴らにどれほどの衝撃を与えたんだろう。
とりあえず扉付近にいた奴の姿がビクンと跳ねたことと、予想外の事態に中で焦ったような声がヒソヒソと聞こえる。
もう一度ノックしようかと思って腕をあげた時、ぼかし窓の一番奥の人影が扉に近づいて来たので慌ててその手を引っ込める。
と、同時に女子トイレの扉がグイッと開けられた。
「何か?」
大原恵子がとってつけたような笑顔で応待してきた。ツンと鼻を刺す臭いが鼻腔を刺激し、思わず咳き込みたくなる衝動を抑え、彼女の後ろに視線を走らせる。
いたのはやはり彼女の取り巻きの鹿倉 那奈と江南 瑠偉の二人だった。
二人の表情は大原と違い、怯えたように、しかしそれを悟られない様に取り繕っていた。
「いや…廊下まで聞こえてたから…」
「だから?」
「その…先生とかに見つかるってことを…」
「へぇ」
大原は表面上はニコニコと笑ってはいるが、その奥は今にも爆発しそうな怒りで溢れかえっているのだろう。
彼女が打つ相槌がいつも喋っているペースよりも少し早いということが怒りを抑えきれていない。
「別にうちら、変なことしてるわけじゃないんだけど? てかむしろボランティア? 発声練習に付き合ってるだけなんだけど」
同意を求める様に後ろの二人に体を向けた時だった。
大原の後ろの壁にもたれ掛る様に、へたり込んでいる天崎がいた。
まだ余裕があるのか、彼女は驚いたような視線で前髪にかかる黒髪の間から俺を見ていた。その視線が俺と重なった瞬間、彼女はサッと視線を下に逸らした。
「―ってなわけだからさ、帰ってくんない?」
再び体を元に戻して大原が笑いかけてくる。
よくもそんな顔を…。手が出てしまいそうなくらい煮えくり返った怒りを抑えてポケットから教室の鍵を取り出して見せる。
「お前らが帰らないと閉められないんだよ」
大原はまるで初めて鍵を見たかのような表情でそれを見つめる。
やがて鼻で笑うように俺の手から鍵を奪うと
「じゃあ、アタシらが閉めっから。アンタ帰っちゃっていいよ」
勝ち誇ったように鍵をつまんで俺の目前でチャラチャラと揺らす。
”とっとと帰れ、目障りだ”と言いたげ視線に気圧されそうになるが、平静を装って
「わかった、じゃあ残りの仕事、全部引き継いでくれよ」
「はぁ?」
大原の顔から笑みが一切消え、代わり、というよりも本心が顔にしっかり表れた。
「ゴミ捨て、黒板清掃。それに窓の開閉チェックに鍵を返すまで。他にもまだまだ結構な量残ってるがいいんだよな?」
「はぁ? 意味不明なんですけど? なんでアタシらがそれを―」
「代わってくれんだろ?」
語気を強めて吐き捨てる様に大原にぶつける。
繕うことをやめた大原は感情剥き出しの表情で俺を睨みつける。
永遠とも思えるくらい永く感じていた時間は大原が俺に鍵を押し返し、無言でトイレから出て行ったことで終わりを迎えた。
後を追うように鹿倉と江南がトイレから出て行き、角を曲がって姿が見えなくなった所で大きく息を吐いた。
「あーあ…楯突いちゃった…」
小さく泣き言を呟いて、一人ポツンと残された天崎に近づいた。
「あの、大丈夫すか?」
何を馬鹿なことを、と自分のあまりの気の利かなさに呆れる。
天崎は視線を合わせようとせず、小さく会釈をする。
まぁ初対面の人と話す時はこんなもんだろ、と勝手に納得すると同時に、声を聴くことが出来なかった悔しさが心の隅っこで起こった。
手を伸ばすと、彼女は驚いたように出された手を見つめ、そしておずおずとした様子で手をとってくれた。
立ったものの、彼女は文字通り一言も発さずに下を向いてもじもじしている。
(…喋りたくないのか?)
一度そう考えてしまうと、そんな風にしか見えなくなってしまい、一人で勝手に気を落としてしまう。
というよりも、なんだかんだ言ってもここは女子トイレだ。長居するわけにもいかず、ましてやほかの女子生徒が入ってきたら上手い言い訳が見当たらない。
「えっと、じゃあ気を付けて」
そう言って彼女に背を向けて扉に手をかけた時だった。
袖に小さな違和感を覚え、振り向くとそれは天崎が俺の袖をキュッとつまんでいたことだとわかる。
前髪の隙間から見える瞳からは何かを訴えるような目でじっと俺を見つめている。
「えっと…」
どうしたらいいかわからないでいると、彼女は俺を引き止めていた手を離して洗面台の排水溝にフタをし、お湯が出る蛇口を捻る。
ダババババと勢いよく出るお湯は湯気を立てて取り付けてある鏡を曇らせていく。やがて一枚の鏡が真っ白に変わると、彼女はお湯を止めて自身の華奢な指を白い鏡面に滑らせる。
そして書き終えると彼女は人差し指で自分の喉を指し、次に両指で同じ位置でバツを作る。
『ありがとう』と書かれた鏡に、窓から差し込む夕日が反射して隠れている彼女の顔を照らす。
黒い髪の向こう側の顔は遠くで見ていた時より紅く見えた。
ありがとうございました
不定期ながら無事ハッピーエンドに辿りつけるよう頑張ります