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 開発予定の水上機、十五試水上戦闘機は当初三菱製の出力1500psの「火星」を搭載する予定だった。しかし火星は直径が戦闘機用にしては大きかった。これまで基本的なスタイルであった機種部分を最も太くする戦闘機のスタイルでは1340mmの直径幅は、空気抵抗の増大に繋がってしまう。さらに、主力戦闘機並みともいえる速度を水上機で実現する事は、無謀とも言われた。さらに運動性や航続距離。海軍は自国の工業技術を理解していないのではないかとすら思った。

 そこで、開発陣は新機軸を多く盛り込み出来るだけ要求性能に応えることとなる。

 その結果が紡錘形の機体形状の採用や自動空戦フラップ、二重反転プロペラの採用、そして、過給機の搭載だった。



 過給機の存在自体は、自分も良く知っていた。そもそも過給機自体海面高度での出力増加を目的としていた物だった。出場さえできずに終わった29年のシュナイダー・トロフィー・レースに、次回の構想として過給機の搭載が提案されていたが、レースからの撤退によって夢に終わっていた。

 さらにそれを実際に搭載するとなると、かなりの困難を伴うと考えられた。希少資源を使うことによるコストの増大や、整備性の悪化、さらに過給機自体の消耗等、実際に開発したとしても運用できるのだろうかとさえ考えられた。

 しかしだ。どんな状況であっても最善を尽くすのが自分の仕事と重々承知していた。それに今の自分は過給機の開発などを任されていて、出来ないとは言えなかった。

 自分が助けを求めたのは、古くから交流の深かったドイツの技術者だった。

 丁度その頃日本にいた彼には、以前から世話になっていた。入社したての自分に航空機設計のノウハウや欧州の航空機の設計などを教えてくれたのも彼だった。優秀だった彼は、祖国からの誘いがあったのに関わらず家族ごと日本に移り住んだ。その時借りを返すという理由で自分が彼の家を工面したが、彼が移り住んだ理由を聞いた事が無かった。


 会社に断りを入れて、彼の住む各務ヶ原に列車に乗る。国鉄と私鉄を乗り継いで、数時間をかけて彼の住む家に行く。


 家には、丁度彼と彼の家族がいた。すっかり日本に慣れた彼の妻にお茶を出された。

 自分が事情を説明すると、彼は困った顔をする。


 「自分は余り知らない」と。その上で、ある事を教えてくれた。

 近々、シベリア鉄道経由でドイツの技術者が日本へ来るという話だった。


 年が明けて少し経った頃、彼の紹介で会ったドイツの技術者は、過給機の図面と情報を持っていた。鳴尾の方の自社工場に訪れた技術者は、開発陣の前でこう力説した。


 要約すると、「日本では無理だ」と。

 どうやら彼の本国の方でも開発はそれほど進んでいないらしく、実用化はいつになるか分からないという状態だった。

 負けず嫌いの自分に火をつけたのはこの言葉だったが、この言葉に感化された面々は少なく無かった。


 そして過給機の開発が終わったのは、1941年の7月の終わりだった。丁度アメリカから石油の禁輸や、財産の凍結がされた頃で、戦争の機運が高まっていた。

 その中でも開発は続けられ、基本設計の殆どを9月までに終了し、試作機の組み立てに移る事となった。


 そして1941年11月26日。択捉島単冠湾から空母8隻を中核とする南雲機動部隊が出港。同日アメリカハル国務長官から手交されたハル・ノートによって日本は対米戦回避が最早不可能である事を悟る。

 そして12月2日、大本営から機動部隊へ送信された電文は「ニイタカヤマノボレ一二○八」。

 かくして12月8日、真珠湾は炎に包まれた。


 真珠湾攻撃の結果、戦艦5、空母1、巡洋艦1、駆逐艦2を撃沈、こちらの損傷艦は無し。そう新聞は揃って報道し、一気に国民は戦勝気分に浮かれた。しかし自分に浮かんだのは、まず不安だった。


 本来日本が採用していた漸減邀撃作戦。決戦海域をマーシャル沖とし、機動部隊、潜水部隊で部隊を漸減し、主力艦隊で決着をつけるという作戦。しかし日本はそれをかなぐり捨てて周囲に攻め込み、陸軍と共に悪夢の三正面作戦を採ると言うのだ。日本海軍は漸減邀撃のために出来ているのにというのにだ。ついに正気を失った、いや狂気に陥ったか。そんな心境だった。


 そんな中でも十五試水上戦闘機の試作機は完成を向かえ、いよいよ初飛行に移る事となる。41年の12月24日の事だった。つまりの所、クリスマスプレゼントと言う訳だ。


 水上より飛び立った水上機は順調に加速する。そして自動空戦フラップを用いた高い旋回能力、数々の技術的な工夫によって達成されたそれなりの速力。速力こそ500kmをギリギリ超えなかったが、十分な物として採用される事となる。その背景には丁度攻勢に入っていた日本の戦況が関係していた。


 1942年4月29日、丁度天長節だったこの日に、十五試水上戦闘機こと「強風」は制式採用される事となる。

 空母が増えてるのは金剛さんが沈んだせい。米帝様なら二隻ぐらいどうってことない。

 強風は技術のフィードバックのお陰で少しだけ速度が向上しています。過給機出したのはちょっと無理やりかもしれません。当然この後の布石になるかも。

 ただ、まだ続きがあります。まだ末期戦になってません。榊君のご活躍、もとい足掻きにご期待を。

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