命の灯火
凄まじい反動を受け、小川は宙を浮くように移動していた。
足は地面とはかけ離れ、背後の壁にぶつかり、強い衝撃をうける。
想像以上の反動に小川は予測しつつも対応できなかった。銃を離してしまい、銃は虚空の彼方に飛んでいく。
銃は小川と同じ壁にぶつかるが、それにより反射し、小川とは離れた位置に落下する。
「あ……うああぁ!」
小川は思わず鳴姻を漏らす。
反動がとてつもない衝撃だったのだろう。小川の両腕は痙攣し、思うように動かないといった様子だ。壁にぶつかった為背中にも激痛が走り、身体を丸めている。
これは……思った以上に……ヤバイ!!
小川は脳内で絶句していた。銃を放った両腕は次第に痛みを失くし、麻痺していく。腕の関節自体は正常な方向になっているので、曲がった事による骨折ではないと判断できるが、ひびが割れている可能性も否定できない。最悪粉砕骨折の可能性だってありうる。
小川は現状を把握するため、視界を視線の映る範囲すべてに泳がせた。
小川の直線状に大きな壁があった。壁は粉砕され、瓦礫となった鉄片が所狭しと散らばっていた。
瓦礫に埋もれた中に、女性の姿があった。倒れている。
女性の着ている制服はボロボロになっており、無残な姿をしている。着用しているブレザーはすでに原型をとどめておらず、中のカッターシャツが剥き出しになっている。下半身と呼べるスカートも見て入られないほど凄惨な状態となっている。
やった……のか?
小川は、動かない手を気にしながら、足のみで立ち上がった。小刻みに足が震えているのが伺える。
足もすでにガクガクだ……。こういう時こそ、手が自由に動くありがたみがわかるってもんだな……。
小川は震える足を必死に抑え、女性に一歩ずつ前進していく。少しずつ、少しずつ恐怖を噛み殺して歩んでいた。
その時だった。
小川をとりまく空間の大気が震え、言い知れぬ嫌悪感が小川を襲う。
うぅ……この感じ!? やはり、彼女は……!!
壁に崩れた瓦礫の山が蠢いていた。最初は微震ほどしか動いていなかったが、少し凝視をしたその刹那――。
ヤバイ!!
倒れていた女性が目を醒ました。空間中の大気が恐れをなしたのか、微震ではすまない振動を起こす。わずかにのこっていた壁も完全に崩壊し、雨粒も彼女を遠ざけるように降り注いでいる。
小川はこの時、最後まで足掻き、思考を巡らせていた。
両手はもう動かない。足もしばらくは言うことをきかない。走るのは困難……。今襲われたら抵抗なく殺されてしまう……!! くそっ!! 死んだふり? …………いや、相手は少なからず人間の思考能力をもっている! 今は人間のような何かではあるが、そんな事が通用するとは思えない……!! 考えろ!! 思考を止めたらあきらめるのと一緒だ! あがけ!
一心不乱とはまさにこの事だった。今までの小川の刑事人生、否……生きてきた中でもっとも速く頭を回転させていたことだろう。
しかし、懸命な試行錯誤も虚しく、女性は立ち上がった。
そして――。
「あはは。今のはさすがにねぇ……さすがに痛かったよぉ~」
朗らかな笑顔だった。まるで子供の小さな悪戯を許す母親のように、寛大な微笑みだった。
女性の右肩には大きな風穴が空いている。
いや、『空いていた』といったほうが正しいだろう。
小川の撃った銃弾は確かに女性に当たっていた。大きな風穴を残して。
だが、その風穴は小川のみている目の前で、塞がりつつあるのだ。
女性の身体の皮膚が無造作に蠢き、伸びていく。伸縮自在かと思わせる皮膚は、そのまま拡大を続け風穴を包み込む。
そして数瞬後、空いていた大きな風穴は、完全に塞がった。
溢れ出る血液すら速やかに止血を開始し、皮膚についた血は、雨に流されていく。
小川は、頭の中が半狂乱状態にあった。
なんだよあれ!? 今のは一体なんなんだよ!! 俺は夢でもみてるのか? ここは魔法の世界? 超能力が当たり前の世界? 身体を自由に再生できる宇宙人が襲来した未来か何かか? もしかして俺は、非現実の世界の中にでも迷い込んだのか!? 誰か……教えてくれよ!! 夢なら……覚めてくれ!!
そこには、当初の冷静沈着な小川の姿はどこにもなかった。
顔は醜く歪み、目は虚ろになっている。現実逃避に近い状態だろうか。最初の頃のような覇気は微塵も感じられない。
現実離れした光景を何度もみせられ、放心していた小川に、女性の声がかかる。
「ほんっと……やってくれたねぇ。楽に殺してあげないよ? おじさん♪」
「……まだおじさんって年じゃないよ。弟もいるけど、そいつはお前と同じ年くらいだ」
「おじさんの子育てが大変で、弟さんとの間が長かったんじゃないの? 実は十五歳くらい年が離れてるとか!!」
女性は冗談混じりに話す。小川は半分諦めた感じではあったが、少しでも時間を稼ぐために、そして伝えたい最後の思いを伝えるために、語り始めた。
「そんなに離れてないよ。その半分だ。それにな、実は……本当の弟じゃない」
女性は大げさに首を傾げた。
「それでも十分離れてるじゃん!! それにさ……おじさん何いってるの?」
どうやら本当の弟ではないという事に疑問を感じたらしい。まぁ普通なら当然の反応といえるか……。
小川はひたすらに会話の時間を稼いでいた。しかし女性がひとつの答えを導き出した。
「もしかして義理の弟ってやつですか!! 義理かぁ……いいねぇ……」
「……え?」
なぜいいのか小川には理解できない。今後も理解することはないだろう。
さらに女性は何かひらめいたように大きく、短い声を上げる。
「その反応……ハッ!! おじさんもしかして……義理の妹じゃなくて残念とか思ってたり思ってなかったり!?」
女性はなぜか目を輝かせている。姿だけみれば可愛らしい女の子だ。惨い事やこんな悲惨な事をする化け物には到底みえない。
「んな邪な考えしてないよ。義理でも、俺の大切な弟だ。この世でたった一人の……『繋がりのある兄弟』……かな」
「へぇ~、ふむふむ……。あれかな? ブラコンってやつですか? 私は一人っ子だからそういう事はわからないよぉ。ゆうくん一筋だもんね!!」
女性は腕を組み、誇らしく語っている。
先程から何度もでてきているワード<ゆうくん>とはなんだろうか。小川の頭の中で、この単語が引っかかっていた。
小川は、その単語がブラックワードだとして、殺されたとしても後悔はしない。最後にそれが、何か確かめたかった。
「ブラコンで何が悪いんだ。別に兄弟以上のものは何もない。はぁ…………最後に聞きたい事があるんだけど……。何度も出てくる<ゆうくん>ってのは恋人? 聞くだけで君がその子に溺愛ってのがわかるよ」
聞いてしまった。俺は、殺されるかもしれない。だけど知りたい。彼女がもし、その彼の事を想うなら、とどまってくれるかもしれない。自首してくれるかもしれない。例え化け物だとしても、愛の力ってやつで……この殺しを、犯行を……。
小川はすでに論理的思考を失っていた。
これは感情論。心理学もへったくれもあったもんじゃない。これで少しでも時間を稼げれば……本望。それに……こういった若い犯罪者の心情が知りたい。小川はそう思っていた。
小川は犯罪心理学についても多少かじっていたが、これは説得というレベルではない。ただの質問だ。返答なく殺されてもおかしくない。
しかし、思いもよらぬ返答が返ってきた。
「よくぞ聞いてくれました!! ふふふ……そうだよ! 私とゆうくんは恋人同士なのですだよ! あはは。興奮しすぎて日本語がおかしくなっちゃった♪ 私達は永遠の愛を誓いあったも同然なのだ! そもそも私とゆうくんが初めて出会ったのは――」
女性は待ってましたといわんばかり語りだした。質問した<ゆうくん>との馴れ初め話しを永遠としている。
小川は半分の脳細胞を女性の耳に傾け、もう半分をショート寸前までフル回転させていた。
これは、もしかしたら……チャンスだ! 最初はただの化け物かと思っていたが、人の話を聞いてくれる……! これなら説得して――。
こうして小川の、命を賭けた弁論が始まる。失敗は許されない。一瞬のミス、軽率な発言の一つで、この命が絶たれてしまうかもしれない。
しかし、小川は生き延びなければならないのだ。まだ何も終わっていない。成し遂げていない。それに――。
世界でたった一人の――大切な弟を残して、死ぬわけにはいかないのだから。