闇の訪れ
小川達が遺体の現場に着く数刻前。とある場所にて――――
表通りとも裏通りとも異なる、閑静な住宅街。雨もまだ本降りではなく、疎らに降る程度で、水溜りもまだ姿を見せていない。
そこに――一人の女性が歩いている。とても静かな足音だ。まるで歩いている気配を、感じさせない。無音に限りなく近い歩法で進んでいる。
「…………そろそろ、本格的に降り出すな……」
太陽が姿を消した黒い空を、女性は眺めた。
女性の風貌は、髪色が銀髪というのが特徴的で、微かな光にも反射し、輝いているように見える。 髪の長さは肩まで垂れる程度だ。前髪は非常に長く、目がよく見えない。しかし、鼻や口元、骨格のラインは整っており、容易にその美貌が伺えた。
服装は、白いカッターシャツに黒い短めのスカート、そして、第一ポタンが外れたカッターシャツに、少し緩めの黒いネクタイを装着している。
この区は『国家指定学園密集区』だ。同じような制服の学園はいくらでもある。
この地に特別に敷設されている『国家指定学園密集区』は、学園を集中的に配置することにより、勉強用教材の適切な搬入、塾や各種教育機関を同時に多数設置、さらに電車や交通機関を意図的に拡大させて、経済の円滑化、効率化を図る事を、目的に開発された区だ。今も近隣の区と合併を続けており、絶賛拡大中だ。
女性は空を眺めながら、立ち止まった。そして――――
「なぁ、そこにいるんだろ?」
そこには、何もなかった。
だが――その時、微弱ではあるが確かに、空気が――震えた。
そして、まるで霧が立ち込めていた場所から突如出てきたかのように、一人の女性が姿を現した。
「おやおや、バレずに近づいたつもりだったんですけどねぇ……今回もダメでしたか」
「何度やっても同じだ。一生たっても俺の後ろはとれない」
「これは手厳しい」
二人はとりとめのないやりとりを繰り返している。
今姿を現した女性は、とても淑女的だ。全身黒衣に包み、頭にはハット帽子を着用している。ロングヘアーで腰にも近い長さをしており、髪色も無論、黒だ。アクセサリーとして、髪のハットに隠れていない部分から、黒いバラのような花が見える。日傘ともいえる黒い傘を右手に持ち、漆黒のその容姿は、この天候も相まって、さらに視認が難しくなっていた。
しかし、言葉遣いだけは、淑女的と言えないようだ。少し、くだけた雰囲気を醸し出している。
「本当に嫌ですよねぇ……この雨。私、湿っぽいのダメなんですよ。大の苦手でしてね、服が蒸れるしそれに――」
黒衣の女性は、さも世間話のように一人で、永遠と会話を続けている。
しかし、銀髪の女性は、突如その空気を断ち切った。
「黙れ」
低く、重音程な声が響いた。とても、女性が発する声には聞こえなかった。
黒衣の女性は、ハット帽子の上に、空いている左手を乗せて、小さいため息をついた。
「――やれやれ、あなたにこの手の話をするのも、いささか無駄でしたか。まぁ……今に始まった事ではないですが」
「場所はどこだ。今回の『奴』は、どこにいる」
またも女性とは思えない声と共に、難解な詰問をしてきた。
「おっとっと。飛躍しすぎですよ。そう焦らないでください」
「だから……どこにいる」
あきれたように視線と顔を落として地面に焦点を向ける、黒衣の女性の姿があった。
「ほんと……人の話を聞かない娘だねぇ。まったく……」
黒衣の女性は大きく息を呑んだ。そして、目の前にいる今にも怒りが爆発しそうな、銀髪の女性に向かってゆっくりと告げた。
「まだ、『発生』はしていない。この『瘴気』の量だとおそらく……あと一時間くらいですかね」
「そうか」
銀髪の女性は小さく頷き、長い前髪をさらに垂れていった。
「この雨だと、今日は厄介ですねぇ。『発生』後の発見が遅れてしまう」
「なぜだ」
頭を銀髪の女性は小さく傾げる
「雨だと『瘴気』が散漫するんですよ。なので、場所を特定するのは極端に難しくなるんですよ」
「今回は……今までのようにはいかない……か」
銀髪の女性から発する声のトーンが、僅かに落ちていく。
「そうですねぇ。今回は――――先手を取られる可能性大です」
「面倒だな」
「まぁ、そう焦らないでください。彼ら《・》はどうせ、何もできないですから」
不敵な笑みを黒衣の女性は浮かべた。まるで小悪魔のような、クスッとした小さな微笑み。どこか抽象的なものを銀髪の女性は感じていた。
「知っていながら立ち向かうか……。本当に……無意味な事をする……」
「それが、彼らの仕事であり、責務ですからね。世間的にも、道徳的にも、私達は忌み嫌われていますから。仕方がないですよ」
「仕方がない……か」
銀髪の女性は再び空を見上げた。上空は光ひとつ見えない、闇だった。暗雲がたち込めており、時折闇を一瞬の間、光が照らし、雷鳴が轟いた。
黒衣の女性も光に気付いたのか空を見上げながら、話を続けた。
「しかし、彼ら《・》が立ち向かって、犠牲になってくれているからこそ、今の市民の安全が曲りなりにも確保できている訳です」
「曲りなりにも……か。あいつらも、とことん無能な訳ではないらしいな」
「そうですねぇ。しかし、自己犠牲の精神は如何せん賛成できない所がありますよ。私が同じ立場だったら――――」
まぁ貴様なら迷わず逃げるだろう――と、銀髪の女性は心の中で頷いていた。
「言葉に出てますよ。隠すつもりないですよね?」
頭の中で思っていた事がいつのまにか口にでていたらしい。だが、そんな事はどうでもよかった。
「あぁ」
銀髪の女性は、臆することなく答えた。
「ほんっと……馬鹿正直ですねぇ。まぁ、そこがあなたの憎めない所でもありますが」
「勝手にしろ」
二人で時間をつぶしている中、雨が本格的に降りだしてきた。黒衣の女性は傘を広げているが、銀髪の女性に雨を凌ぐ傘がみあたらない。水溜りもとうとう姿を見せ、近くを通る車が盛大に水飛沫をあげている。
その時――今まで緩んだ顔つきだった黒衣の女性の顔が、突如に変化した。同時に雷鳴が轟音となり、二人の耳を劈いた。
「…………!? この気配……」
黒衣の女性は、確かに感じていた。気配……否、気配という感覚ではない。『発生』するに十分に事足りる『瘴気』だった。
「ようやくおでましか」
「そのようですねぇ」
二人の間に静寂の時間が訪れる。黒衣の女性は、無言のまま、そっと踵をかえした。
「方角は……どうやらあちらのようですねぇ。この状態だと……いつ『発生』してもおかしくないです」
「そうか。ことは迅速に……だな」
銀髪の女性は、その一言と同時に、『発生』したと思われる方向に向かって、歩を進めた。
「私は、あなたに位置把握をしつつ、後ろでサポートしますから、後はいつもどおり、よろしく頼みますねぇ。では――」
突如、黒衣の女性は姿を消した。まるで、その身体そのものが闇であったかのように、黒く、静かに、背景に溶けこむように、姿を消した。
「愚問だ」
銀髪の女性は、立ち止まった。何かを待っているかのように。そして、口元が三日月を描くように、ニヤリと微笑んだ。
「――そろそろいくか」
声を発した瞬間、銀髪の女性は姿を消した。その美麗たる銀髪をたなびかせ、忍者のように、速く、俊敏に、華麗に消えていった。
今宵もまた、長い夜が始める。目覚めることのできない、永久の闇が、すぐそこまで迫ってきていた――――