↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「一つくらい我儘を言え」と旦那様に言われたので、一晩考えて「温かいうちにご飯が食べたい」とお願いしました

掲載日:2026/10/28

「一つくらい我儘を言え」


朝食の席で、旦那様がそう言った。

銀のナイフを置く音が、広い食堂に小さく響いた。


「……我儘、ですか」

「そうだ。嫁いで一月になる。君は、まだ一度も何かを欲しがったことがない」


旦那様――レオンハルト・グレイヴス辺境伯は、表情の少ない人だ。

灰色の目でじっと見つめられると、叱られているような気がしてしまう。

けれど、声は少しも怒っていなかった。


「ドレスは」

「足りております」

「宝石は」

「持っていても、つけていく場所がございません」

「部屋は」

「広すぎるくらいです」


旦那様は、短く息を吐いた。


「では、考えておけ。明日の朝、聞く」


それだけ言って、旦那様は席を立った。

私は、まだ半分も残っているスープの皿を見下ろした。


湯気は、とうに消えていた。


◇


私、クラリス・グレイヴスは、ハートウェル伯爵家の長女として生まれた。


下には妹が一人と、弟が一人いる。

母はいつも言った。


「クラリスはお姉さんなのだから、後でいいわね」


食事も、そうだった。

家族が食堂で食べている間、私は給仕を手伝った。妹のスープをよそい、弟の肉を切り分け、父の杯に葡萄酒を注いだ。

皆が食べ終えてから、私は厨房の隅で残りものを食べた。


スープの表面には、いつも薄い膜が張っていた。

パンは硬くなり、肉の脂は白く固まっていた。


それが、私にとっての「ご飯」だった。

冷たいのが当たり前すぎて、おかしいと思ったこともなかった。


その夜、私は寝台の上で、ずっと考えていた。


我儘。

欲しいもの。


ドレスは、いつも妹のお下がりだった。でも、それで困ったことはない。

本は、借りれば読める。

花は、庭に咲いている。


いくら考えても、何も浮かばなかった。

欲しいものを考えるのは、生まれて初めてだったのだ。


子どもの頃、一度だけ、母に言ったことがある。

誕生日の夕食のときだった。


「お母様。今日は、私も一緒に食堂で食べてはいけませんか」


母は、少しだけ困った顔をした。


「クラリス、お姉さんでしょう。セレナがまだ小さいのに、あなたまで座ったら、誰が取り分けるの」


それきり、私は何かを頼むのをやめた。

頼めば、誰かが困る。

困らせないのが、いい子なのだと思った。


窓の外が白み始めた頃、私はふと、昨日のスープを思い出した。

旦那様の話を聞いているうちに、冷めてしまったスープ。


――温かいうちに、食べたかったな。


そう思った瞬間、喉の奥が、きゅっと詰まった。


◇


「決まったか」


翌朝、旦那様は食堂に入ってくるなり、そう訊いた。

私は椅子の上で、背筋を伸ばした。


「あの……本当に、何でもよろしいのですか」

「何でもいい」

「とても、くだらないことでも」

「構わない」


私は、膝の上で両手を握りしめた。

声が震えないように、一度だけ息を吸う。


「温かいうちに、ご飯が食べたいです」


食堂が、しんと静まり返った。


給仕をしていた侍女の手が止まった。

壁際の執事が、わずかに目を見開いた。

旦那様は、黙って私を見ていた。


やはり、くだらなかったのだ。

私は慌てて、言葉を足した。


「も、申し訳ございません。忘れてください。今のは」

「……それだけか」

「はい。それだけ、です」


旦那様は、長いこと何も言わなかった。

それから、低い声で訊いた。


「実家では、冷めたものを食べていたのか」

「家族が食べ終わってから、厨房でいただいていましたので。でも、慣れておりますから、本当に」

「毎日か」

「……毎日、です」


旦那様が、ゆっくりと立ち上がった。


「料理長を呼べ」


◇


それからの騒ぎを、私は一生忘れないと思う。


呼ばれてきた料理長のガストンは、熊のように大きな人だった。

旦那様から話を聞くと、白い帽子を握りしめて、天井を仰いだ。


「なんてこった。奥様、なぜ早くおっしゃらねえんですか」

「え……?」

「奥様はいつも、旦那様のお話が終わるまで手をつけねえ。だから皿が冷める。俺はてっきり、熱いのがお嫌いなのかと」


料理長は、太い指で自分の額を叩いた。


「明日から段取りを変えます。奥様の皿は、奥様が席についてから火から下ろす。一番に」

「一番に、ですか。でも、旦那様より先に私が」

「我が家では妻の皿が先だ」


旦那様が、当然のように言った。


「それと、私は食事中に仕事の話をやめる。君が手を止めるからな」

「そんな、旦那様のお話を邪魔するなんて」

「邪魔しているのは私の話のほうだ」


侍女頭が、そっとハンカチで目元を押さえていた。

私は、何が起きているのか分からなかった。


◇


その日の夕食は、いつもと違った。


私が席につくと、まず厨房の扉が開いた。

料理長が自ら、小さな鍋を抱えて出てくる。


「奥様、熱いのでお気をつけて」


目の前で、深皿にスープが注がれた。

黄金色の、玉ねぎのスープ。

とろりとした表面から、白い湯気がまっすぐに立ちのぼる。


湯気が、頬に触れた。

温かかった。


旦那様も、執事も、侍女たちも、料理長も、誰も動かなかった。

皆が、私を見ていた。


「……いただきます」


匙を入れる。

すくい上げると、湯気がふわりと揺れた。


口に運ぶ。


熱い。


舌が、ひりりとした。

思わず肩が跳ねて、私は慌てて口元を押さえた。


「熱かったか」


旦那様が、少しだけ身を乗り出した。


「……はい。熱い、です」


熱い。

スープは、こんなに熱いものだったのか。


玉ねぎの甘さが、舌の上でほどけていく。

喉を通って、胸の真ん中に落ちていく。

そこから、じわじわと温かさが広がっていく。


二口目をすくった。

また熱かった。

三口目で、視界がにじんだ。


「奥様……?」


侍女の声がした。

私は、匙を握ったまま、うつむいた。


ぽたり、と。

スープの上に、一粒落ちた。


泣くつもりなんて、なかった。

ただ、温かかっただけなのに。


冷めたスープの膜を、匙の先で破った夜のこと。

硬くなったパンを、ぬるい水でふやかした朝のこと。

厨房の窓から、食堂の笑い声を聞いていた日のこと。


全部が、熱いスープと一緒に、喉の奥からせり上がってきた。


「……すみません。熱くて、舌が」


言い訳は、誰にも通じなかった。


旦那様が、黙って立ち上がった。

私の椅子の隣に来て、膝をつく。

大きな手で、私の手から匙を取った。


「ゆっくりでいい」


旦那様は、スープをすくい、ふう、と一度だけ息を吹きかけた。

それから、私の口元に匙を差し出した。


「冷めるのを待つ必要はない。熱ければ、こうすればいい」


私は、目を丸くした。

旦那様の顔は、いつもと同じで、表情が少なかった。

でも、耳の先が、ほんのり赤かった。


私は、差し出された匙を口に含んだ。


ちょうどいい温かさだった。


壁際で、料理長が鼻をすする音がした。


◇


それからの毎日は、驚くことばかりだった。


翌朝、食堂に入ると、旦那様がもう席についていた。

私が座るのを待って、厨房の扉が開く。


朝食のパンは、焼き上がりを籠ごと運んでくる。

割ると、白い湯気が立った。


私は、パンを手に持ったまま、旦那様のほうを見た。

旦那様の皿は、まだ空だった。


「旦那様のお皿が、まだですわ」

「私は後でいい」

「でも」

「先に食べろ。君が食べないと、誰も動けない」


見回すと、本当にそうだった。

給仕の侍女も、執事も、私の手元をじっと見ている。

私が一口目を食べるまで、この家の朝は始まらないらしい。


私は、おそるおそるパンをちぎって口に入れた。

外は香ばしく、中はふっくらと柔らかい。

噛むと、小麦の甘い匂いが鼻に抜けた。


「……おいしい」


小さく呟くと、侍女が「よし」と拳を握った。

執事が咳払いをして、それを見なかったことにした。


その日の昼、私はつい、癖で厨房に入ってしまった。

皿洗いでも手伝おうと思ったのだ。


「奥様! 何をなさってるんですか!」


見習いの少年が、悲鳴を上げた。

料理長が、すっ飛んできた。


「奥様の仕事は、座って、熱いうちに食べることです。皿洗いは俺らの仕事です」

「でも、何もしないでいるのは落ち着かなくて」

「じゃあ、味見をしてください。それなら立派な仕事です」


料理長はそう言って、小さな匙で、煮込みの鍋から一口すくってくれた。

熱かった。

私は、ふうふうと息を吹きかけてから、それを口に入れた。


「塩が、少し強い……かもしれません」

「ほう。奥様、舌がいいですな」


料理長は真面目な顔で鍋に水を足した。

厨房の皆が、なぜか嬉しそうに笑っていた。


昼のお茶は、私がカップに口をつけるまで、侍女がポットを温め直す。

夕食の肉は、切り分けた瞬間に、じゅっと音がする。


「奥様、今日は焼き栗です。皮が熱いので、俺が剥きます」

「自分で剥けますわ」

「火傷されたら、俺が旦那様に殺されます」


料理長が真顔で言うので、私は思わず笑ってしまった。


旦那様は、食事中に一度も仕事の話をしなくなった。

代わりに、ぽつぽつと、どうでもいい話をするようになった。


「今朝、厩で仔馬が生まれた」

「まあ。見に行ってもよろしいですか」

「食べ終わってからだ。冷める」


私が手を止めかけると、旦那様は必ず言う。

「冷める」と。

それがおかしくて、私は毎回、笑いながら匙を動かした。


ある夜、旦那様がふと訊いた。


「好きな料理は何だ」


私は、答えられなかった。

温かい料理を食べたことがほとんどないので、何が好きなのか分からなかったのだ。


正直にそう言うと、旦那様は少し考えてから、料理長を呼んだ。


「明日から、一日に一品、知らない料理を出せ。クラリスが好きなものを見つけるまで」

「承知しました。腕が鳴りますね」


料理長は、太い腕をぐるりと回した。


それから毎晩、私の前には、見たことのない料理が並んだ。

鶏の香草焼き。

牛乳で煮た白い魚。

蜂蜜をかけた、焼きたての林檎。


「どれが一番だった」

「……全部、です」

「それでは決まらない」

「だって、全部温かかったんですもの」


旦那様は、困ったように眉を寄せた。

それから、ほんの少しだけ、口の端を上げた。


◇


嫁いで二月が過ぎた頃、実家から手紙が来た。


母と妹が、辺境伯家に挨拶に来るという。

妹のセレナの社交界デビューが近いので、ドレスの仕立てについて相談したい、と書いてあった。


相談、と書いてあるけれど、本当は違う。

辺境伯家の財布を当てにしているのだ。


それでも、断る理由は見つからなかった。


母と妹は、夕食の時刻にやってきた。


「まあ、立派なお屋敷ねえ」


母は食堂を見回して、満足そうに頷いた。

妹は、銀の燭台を指でつついている。


「お姉様ったら、こんなところに住んでいたの。ずるいわ」


席につくなり、妹は当たり前のように、私に皿を差し出した。


「お姉様、取り分けて。いつもみたいに」


私の手が、勝手に動いた。

立ち上がり、取り分け用の匙に手を伸ばす。

長年の癖だった。体が先に覚えているのだ。


その手を、大きな手が止めた。


「座っていろ」


旦那様だった。


「今は食事の時間だ。君の仕事ではない」


旦那様が軽く手を上げると、侍女たちが一斉に動いた。

母と妹の皿に、手早く料理が盛られていく。


そして、厨房の扉が開いた。


「奥様、お待たせしました」


料理長が、湯気の立つ鍋を抱えて現れた。

真っ先に、私の皿へ。

黄金色の玉ねぎのスープが、なみなみと注がれた。


母の眉が、ぴくりと動いた。


「あら。どうしてクラリスが一番なの? お客は私たちでしょう」

「我が家では、妻の皿が最初です」


旦那様の声は、低く、静かだった。


「それが、この家の決まりです」


母は鼻白んだ顔をして、それから、取り繕うように笑った。


「まあ、そんな。気を遣っていただかなくてもよろしいのに。この子は昔から、冷めたものが好きな子でしたから」


食堂の空気が、凍りついた。


侍女の手が止まった。

執事が、静かに目を伏せた。

料理長が、鍋の柄をぎしりと握りしめた。


旦那様は、ゆっくりと母を見た。


「冷めたものが好きだったのではない」


一言ずつ、区切るように言う。


「冷めたものしか、残されなかっただけでしょう」


母の笑顔が、固まった。


「な、何をおっしゃるの。私は、この子が食べたいときに食べられるようにと」

「一年に一度でも、この人に温かい皿を先に出したことがありますか」


母は、口を開けたまま、何も言えなかった。

妹が、きょとんとして母を見ている。


「お母様、お姉様っていつも後で食べてたんじゃないの? それって普通でしょ?」


妹の無邪気な一言で、母の顔から血の気が引いた。


旦那様は、それ以上何も言わなかった。

ただ、私のほうを向いた。


「クラリス。冷める」


私は、はっとして匙を取った。

スープは、熱かった。

今日も、ちゃんと熱かった。


しばらく、誰も口をきかなかった。

食器の触れ合う音だけが、食堂に響いていた。


やがて母が、ナプキンで口元を拭いながら、わざとらしく明るい声を出した。


「それで、閣下。セレナのデビューのドレスのことなのですけれど。辺境伯家ほどのお家でしたら、王都の一流の仕立て屋をご存じでしょう? 姉妹なのですもの、少しくらいお力添えを」

「お断りします」


旦那様は、肉を切る手を止めずに言った。


「えっ……」

「妻の実家に援助するかどうかは、妻が決めることです」


旦那様は、そこで初めて手を止め、私を見た。

母も、妹も、私を見た。


食堂中の視線が、私に集まった。

昔の私なら、きっと頷いていた。お姉さんなのだから、と。


私は、匙を置いた。


「お母様。セレナのドレスは、伯爵家で仕立ててあげてください」


母が、信じられないものを見るような目をした。


「クラリス、あなた、妹が困っているのに」

「困らせないのがいい子だと、お母様に教わりました」


自分でも驚くほど、静かな声が出た。


「だから私は、これからは、旦那様を困らせないようにします」


母は、何か言おうとして、口を閉じた。

旦那様が、ほんのわずかに目を細めた。

テーブルの下で、大きな手が、私の手をそっと包んだ。


◇


食事のあと、母はドレスの話を切り出さないまま帰っていった。

妹は最後まで、何が起きたのか分かっていない顔をしていた。


後で聞いた話では、あの夜、母の付き添いで来ていた伯爵家の侍女が、使用人仲間に一部始終を話したらしい。

話はすぐに、王都の茶会に広まった。


「長女に冷めた残りものしか食べさせなかった伯爵夫人」。


妹のデビューの夜会では、母のまわりに人が集まらなかったという。

誰も母を責めはしなかった。ただ、近寄らなかった。


私は、何もしなかった。

する必要もなかった。


ただ、ひとつだけ、旦那様にお願いをした。


「実家の厨房に、マーサという古い料理番がいるのです」


旦那様が、手紙から顔を上げた。


「子どもの頃、たった一人だけ、私に焼きたてのパンの端を取っておいてくれた人です。母に見つかって、何度も叱られていました」


だから、私は知っていたのだ。

焼きたてのパンが、温かいことを。

ほんの一欠片だけ、知っていた。


「……あの人も、温かいうちに食べてほしいのです」


旦那様は、すぐに執事を呼んだ。


ひと月後、マーサは辺境伯家の厨房で働き始めた。

料理長のガストンとは、初日から大喧嘩をして、二日目には肩を並べてパンを焼いていた。


「お嬢様……いいえ、奥様」


厨房の入り口で、マーサは私の手を握って泣いた。


「よかった。本当に、よかった。ここでは、一番に召し上がっていらっしゃるのですね」


その日の夕食に、マーサは小さな丸パンを焼いてくれた。

昔と同じ、皮の硬い、素朴なパンだった。


焼きたての端をちぎると、湯気と一緒に、懐かしい匂いが立ちのぼった。

厨房の隅で、こっそり手渡されたときと、同じ匂い。


口に入れた瞬間、私は分かった。


「旦那様」

「何だ」

「見つかりました。私の、好きな料理」


旦那様が、手を止めた。


「焼きたてのパンの、端っこです」


旦那様は、私の手の中のパンを見て、それからマーサを見た。

マーサは、厨房の入り口で、エプロンで顔を覆っていた。


「……ガストン」

「へい」

「明日から毎朝、マーサのパンを焼かせろ。端は全部、クラリスの皿だ」

「全部ですか。旦那様の分は」

「私は真ん中でいい」


料理長が吹き出した。

私も、笑いながら、二つ目の端をちぎった。


◇


冬が来た。


辺境の冬は厳しい。

旦那様は国境の砦の見回りで、夜遅くまで戻らない日が増えた。


私は一人で、温かい夕食を食べた。

料理長は相変わらず、私が席についてから皿を火から下ろしてくれる。

スープは熱く、パンは湯気を立てている。


それなのに、何かが足りなかった。


向かいの席が、空いている。

「冷める」と言う声が、ない。


ある夜、旦那様が戻ったのは、真夜中近くだった。

外套に雪をつけたまま、食堂をのぞき込む。


「まだ起きていたのか」

「はい」


私の前には、手をつけていない皿があった。

スープは、すっかり冷めていた。


旦那様が、眉を寄せた。


「なぜ食べていない。温かいうちに食べたいと言ったのは君だろう」

「……はい」

「では、なぜ」


私は、膝の上で両手を握りしめた。

二度目の我儘は、一度目より、ずっと言いにくかった。


「旦那様」

「何だ」

「もう一つだけ、我儘を言ってもよろしいですか」


旦那様の灰色の目が、わずかに見開かれた。


「言え」


私は、一度だけ息を吸った。


「一緒に、温かいうちに食べてください」


食堂に、暖炉の薪がはぜる音だけが響いた。


「一人で食べる温かいご飯より、二人で食べる冷めたご飯のほうが、温かい気がしたのです。……くだらないですね」


旦那様は、何も言わなかった。


外套の肩で、雪がゆっくりと溶けていく。

しずくが一粒、床に落ちた。


旦那様は、外套を脱ぎ、椅子の背にかけた。

冷えきった指で、私の頬に触れる。

氷のように冷たいのに、触れられたところだけが熱かった。


「……君は、いつも私を待っていたのか」

「旦那様がいらっしゃらないと、なぜか、食べる気になれなくて」

「スープが冷めるまで」

「はい」


旦那様は、目を閉じて、長く息を吐いた。


「我儘を言えと言ったのは、私だったな」

「はい」

「では、断る理由はない」


旦那様は、私の冷めた皿を持ち上げて、厨房の扉を叩いた。


「ガストン。起きているか」


扉の向こうで、大きなあくびの音がした。


「……旦那様。こんな夜中に、何です」

「スープを温め直してくれ。二人分だ」


一拍おいて、扉の向こうから、料理長の笑い声が聞こえた。


「へいへい。そうおっしゃると思って、火は落としてませんよ」


◇


真夜中の食堂で、私たちは向かい合って座った。


湯気の立つスープが、二皿。

焼き直したパンが、一籠。


「明日から、夕食の時刻には戻る」


旦那様が、匙を取りながら言った。


「砦の見回りは」

「副官に任せる。あれは私より優秀だ」

「そんな、私のために」

「君のためではない」


旦那様は、スープをひと口飲んで、少し顔をしかめた。


「私も、一人で食べるのは味気なかった」


私は、思わず笑ってしまった。

笑いながら、スープをすくった。


熱い。

今日も、ちゃんと熱い。


向かいで、旦那様が同じようにスープをすくう。

口に運ぼうとして、ぴたりと止まった。


「……熱いな」

「熱いので、お気をつけて」


料理長の口癖を真似ると、旦那様は目を丸くした。

それから、小さく、声を立てて笑った。


この人が声を立てて笑うのを、私は初めて見た。


「次の我儘は、何にする」

「まだ考えておりません」

「早く考えろ。三つ目からは、もっと大きいものを言え」

「大きいもの、ですか」

「屋敷でも、馬でも、何でもいい」


私は少し考えて、首を振った。


「では、三つ目は――」


旦那様の匙が止まった。


「明日の朝ご飯も、一緒に食べてください」


旦那様は、長いこと私を見ていた。

それから、呆れたように息を吐いて、少しだけ目を細めた。


「それは我儘ではない。約束だ」


暖炉の火が、ぱちりと鳴った。

二つの皿から立ちのぼる湯気が、テーブルの上で、ひとつに混ざった。


(了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
他の方もコメントされていますが、 「母の付き添いで来ていた伯爵家の侍女が、使用人仲間に一部始終を話したらしい。」は違和感が有ります。この文脈だとこの侍女は長女がいつも厨房で冷や飯を食べていたことを初め…
妹のドレスのお下がりを姉がいつも着ている?何だろう妹はとんでもなくデブとかなのかな? 後伯爵家に使用人いないの?食事の準備は使用人がするだろうよ
自分もメロンパンの端っこが好きです。短編だと思えば細かい設定は気にしないかな、それよりもテンポや勢いを気にする。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。