「一つくらい我儘を言え」と旦那様に言われたので、一晩考えて「温かいうちにご飯が食べたい」とお願いしました
「一つくらい我儘を言え」
朝食の席で、旦那様がそう言った。
銀のナイフを置く音が、広い食堂に小さく響いた。
「……我儘、ですか」
「そうだ。嫁いで一月になる。君は、まだ一度も何かを欲しがったことがない」
旦那様――レオンハルト・グレイヴス辺境伯は、表情の少ない人だ。
灰色の目でじっと見つめられると、叱られているような気がしてしまう。
けれど、声は少しも怒っていなかった。
「ドレスは」
「足りております」
「宝石は」
「持っていても、つけていく場所がございません」
「部屋は」
「広すぎるくらいです」
旦那様は、短く息を吐いた。
「では、考えておけ。明日の朝、聞く」
それだけ言って、旦那様は席を立った。
私は、まだ半分も残っているスープの皿を見下ろした。
湯気は、とうに消えていた。
◇
私、クラリス・グレイヴスは、ハートウェル伯爵家の長女として生まれた。
下には妹が一人と、弟が一人いる。
母はいつも言った。
「クラリスはお姉さんなのだから、後でいいわね」
食事も、そうだった。
家族が食堂で食べている間、私は給仕を手伝った。妹のスープをよそい、弟の肉を切り分け、父の杯に葡萄酒を注いだ。
皆が食べ終えてから、私は厨房の隅で残りものを食べた。
スープの表面には、いつも薄い膜が張っていた。
パンは硬くなり、肉の脂は白く固まっていた。
それが、私にとっての「ご飯」だった。
冷たいのが当たり前すぎて、おかしいと思ったこともなかった。
その夜、私は寝台の上で、ずっと考えていた。
我儘。
欲しいもの。
ドレスは、いつも妹のお下がりだった。でも、それで困ったことはない。
本は、借りれば読める。
花は、庭に咲いている。
いくら考えても、何も浮かばなかった。
欲しいものを考えるのは、生まれて初めてだったのだ。
子どもの頃、一度だけ、母に言ったことがある。
誕生日の夕食のときだった。
「お母様。今日は、私も一緒に食堂で食べてはいけませんか」
母は、少しだけ困った顔をした。
「クラリス、お姉さんでしょう。セレナがまだ小さいのに、あなたまで座ったら、誰が取り分けるの」
それきり、私は何かを頼むのをやめた。
頼めば、誰かが困る。
困らせないのが、いい子なのだと思った。
窓の外が白み始めた頃、私はふと、昨日のスープを思い出した。
旦那様の話を聞いているうちに、冷めてしまったスープ。
――温かいうちに、食べたかったな。
そう思った瞬間、喉の奥が、きゅっと詰まった。
◇
「決まったか」
翌朝、旦那様は食堂に入ってくるなり、そう訊いた。
私は椅子の上で、背筋を伸ばした。
「あの……本当に、何でもよろしいのですか」
「何でもいい」
「とても、くだらないことでも」
「構わない」
私は、膝の上で両手を握りしめた。
声が震えないように、一度だけ息を吸う。
「温かいうちに、ご飯が食べたいです」
食堂が、しんと静まり返った。
給仕をしていた侍女の手が止まった。
壁際の執事が、わずかに目を見開いた。
旦那様は、黙って私を見ていた。
やはり、くだらなかったのだ。
私は慌てて、言葉を足した。
「も、申し訳ございません。忘れてください。今のは」
「……それだけか」
「はい。それだけ、です」
旦那様は、長いこと何も言わなかった。
それから、低い声で訊いた。
「実家では、冷めたものを食べていたのか」
「家族が食べ終わってから、厨房でいただいていましたので。でも、慣れておりますから、本当に」
「毎日か」
「……毎日、です」
旦那様が、ゆっくりと立ち上がった。
「料理長を呼べ」
◇
それからの騒ぎを、私は一生忘れないと思う。
呼ばれてきた料理長のガストンは、熊のように大きな人だった。
旦那様から話を聞くと、白い帽子を握りしめて、天井を仰いだ。
「なんてこった。奥様、なぜ早くおっしゃらねえんですか」
「え……?」
「奥様はいつも、旦那様のお話が終わるまで手をつけねえ。だから皿が冷める。俺はてっきり、熱いのがお嫌いなのかと」
料理長は、太い指で自分の額を叩いた。
「明日から段取りを変えます。奥様の皿は、奥様が席についてから火から下ろす。一番に」
「一番に、ですか。でも、旦那様より先に私が」
「我が家では妻の皿が先だ」
旦那様が、当然のように言った。
「それと、私は食事中に仕事の話をやめる。君が手を止めるからな」
「そんな、旦那様のお話を邪魔するなんて」
「邪魔しているのは私の話のほうだ」
侍女頭が、そっとハンカチで目元を押さえていた。
私は、何が起きているのか分からなかった。
◇
その日の夕食は、いつもと違った。
私が席につくと、まず厨房の扉が開いた。
料理長が自ら、小さな鍋を抱えて出てくる。
「奥様、熱いのでお気をつけて」
目の前で、深皿にスープが注がれた。
黄金色の、玉ねぎのスープ。
とろりとした表面から、白い湯気がまっすぐに立ちのぼる。
湯気が、頬に触れた。
温かかった。
旦那様も、執事も、侍女たちも、料理長も、誰も動かなかった。
皆が、私を見ていた。
「……いただきます」
匙を入れる。
すくい上げると、湯気がふわりと揺れた。
口に運ぶ。
熱い。
舌が、ひりりとした。
思わず肩が跳ねて、私は慌てて口元を押さえた。
「熱かったか」
旦那様が、少しだけ身を乗り出した。
「……はい。熱い、です」
熱い。
スープは、こんなに熱いものだったのか。
玉ねぎの甘さが、舌の上でほどけていく。
喉を通って、胸の真ん中に落ちていく。
そこから、じわじわと温かさが広がっていく。
二口目をすくった。
また熱かった。
三口目で、視界がにじんだ。
「奥様……?」
侍女の声がした。
私は、匙を握ったまま、うつむいた。
ぽたり、と。
スープの上に、一粒落ちた。
泣くつもりなんて、なかった。
ただ、温かかっただけなのに。
冷めたスープの膜を、匙の先で破った夜のこと。
硬くなったパンを、ぬるい水でふやかした朝のこと。
厨房の窓から、食堂の笑い声を聞いていた日のこと。
全部が、熱いスープと一緒に、喉の奥からせり上がってきた。
「……すみません。熱くて、舌が」
言い訳は、誰にも通じなかった。
旦那様が、黙って立ち上がった。
私の椅子の隣に来て、膝をつく。
大きな手で、私の手から匙を取った。
「ゆっくりでいい」
旦那様は、スープをすくい、ふう、と一度だけ息を吹きかけた。
それから、私の口元に匙を差し出した。
「冷めるのを待つ必要はない。熱ければ、こうすればいい」
私は、目を丸くした。
旦那様の顔は、いつもと同じで、表情が少なかった。
でも、耳の先が、ほんのり赤かった。
私は、差し出された匙を口に含んだ。
ちょうどいい温かさだった。
壁際で、料理長が鼻をすする音がした。
◇
それからの毎日は、驚くことばかりだった。
翌朝、食堂に入ると、旦那様がもう席についていた。
私が座るのを待って、厨房の扉が開く。
朝食のパンは、焼き上がりを籠ごと運んでくる。
割ると、白い湯気が立った。
私は、パンを手に持ったまま、旦那様のほうを見た。
旦那様の皿は、まだ空だった。
「旦那様のお皿が、まだですわ」
「私は後でいい」
「でも」
「先に食べろ。君が食べないと、誰も動けない」
見回すと、本当にそうだった。
給仕の侍女も、執事も、私の手元をじっと見ている。
私が一口目を食べるまで、この家の朝は始まらないらしい。
私は、おそるおそるパンをちぎって口に入れた。
外は香ばしく、中はふっくらと柔らかい。
噛むと、小麦の甘い匂いが鼻に抜けた。
「……おいしい」
小さく呟くと、侍女が「よし」と拳を握った。
執事が咳払いをして、それを見なかったことにした。
その日の昼、私はつい、癖で厨房に入ってしまった。
皿洗いでも手伝おうと思ったのだ。
「奥様! 何をなさってるんですか!」
見習いの少年が、悲鳴を上げた。
料理長が、すっ飛んできた。
「奥様の仕事は、座って、熱いうちに食べることです。皿洗いは俺らの仕事です」
「でも、何もしないでいるのは落ち着かなくて」
「じゃあ、味見をしてください。それなら立派な仕事です」
料理長はそう言って、小さな匙で、煮込みの鍋から一口すくってくれた。
熱かった。
私は、ふうふうと息を吹きかけてから、それを口に入れた。
「塩が、少し強い……かもしれません」
「ほう。奥様、舌がいいですな」
料理長は真面目な顔で鍋に水を足した。
厨房の皆が、なぜか嬉しそうに笑っていた。
昼のお茶は、私がカップに口をつけるまで、侍女がポットを温め直す。
夕食の肉は、切り分けた瞬間に、じゅっと音がする。
「奥様、今日は焼き栗です。皮が熱いので、俺が剥きます」
「自分で剥けますわ」
「火傷されたら、俺が旦那様に殺されます」
料理長が真顔で言うので、私は思わず笑ってしまった。
旦那様は、食事中に一度も仕事の話をしなくなった。
代わりに、ぽつぽつと、どうでもいい話をするようになった。
「今朝、厩で仔馬が生まれた」
「まあ。見に行ってもよろしいですか」
「食べ終わってからだ。冷める」
私が手を止めかけると、旦那様は必ず言う。
「冷める」と。
それがおかしくて、私は毎回、笑いながら匙を動かした。
ある夜、旦那様がふと訊いた。
「好きな料理は何だ」
私は、答えられなかった。
温かい料理を食べたことがほとんどないので、何が好きなのか分からなかったのだ。
正直にそう言うと、旦那様は少し考えてから、料理長を呼んだ。
「明日から、一日に一品、知らない料理を出せ。クラリスが好きなものを見つけるまで」
「承知しました。腕が鳴りますね」
料理長は、太い腕をぐるりと回した。
それから毎晩、私の前には、見たことのない料理が並んだ。
鶏の香草焼き。
牛乳で煮た白い魚。
蜂蜜をかけた、焼きたての林檎。
「どれが一番だった」
「……全部、です」
「それでは決まらない」
「だって、全部温かかったんですもの」
旦那様は、困ったように眉を寄せた。
それから、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
◇
嫁いで二月が過ぎた頃、実家から手紙が来た。
母と妹が、辺境伯家に挨拶に来るという。
妹のセレナの社交界デビューが近いので、ドレスの仕立てについて相談したい、と書いてあった。
相談、と書いてあるけれど、本当は違う。
辺境伯家の財布を当てにしているのだ。
それでも、断る理由は見つからなかった。
母と妹は、夕食の時刻にやってきた。
「まあ、立派なお屋敷ねえ」
母は食堂を見回して、満足そうに頷いた。
妹は、銀の燭台を指でつついている。
「お姉様ったら、こんなところに住んでいたの。ずるいわ」
席につくなり、妹は当たり前のように、私に皿を差し出した。
「お姉様、取り分けて。いつもみたいに」
私の手が、勝手に動いた。
立ち上がり、取り分け用の匙に手を伸ばす。
長年の癖だった。体が先に覚えているのだ。
その手を、大きな手が止めた。
「座っていろ」
旦那様だった。
「今は食事の時間だ。君の仕事ではない」
旦那様が軽く手を上げると、侍女たちが一斉に動いた。
母と妹の皿に、手早く料理が盛られていく。
そして、厨房の扉が開いた。
「奥様、お待たせしました」
料理長が、湯気の立つ鍋を抱えて現れた。
真っ先に、私の皿へ。
黄金色の玉ねぎのスープが、なみなみと注がれた。
母の眉が、ぴくりと動いた。
「あら。どうしてクラリスが一番なの? お客は私たちでしょう」
「我が家では、妻の皿が最初です」
旦那様の声は、低く、静かだった。
「それが、この家の決まりです」
母は鼻白んだ顔をして、それから、取り繕うように笑った。
「まあ、そんな。気を遣っていただかなくてもよろしいのに。この子は昔から、冷めたものが好きな子でしたから」
食堂の空気が、凍りついた。
侍女の手が止まった。
執事が、静かに目を伏せた。
料理長が、鍋の柄をぎしりと握りしめた。
旦那様は、ゆっくりと母を見た。
「冷めたものが好きだったのではない」
一言ずつ、区切るように言う。
「冷めたものしか、残されなかっただけでしょう」
母の笑顔が、固まった。
「な、何をおっしゃるの。私は、この子が食べたいときに食べられるようにと」
「一年に一度でも、この人に温かい皿を先に出したことがありますか」
母は、口を開けたまま、何も言えなかった。
妹が、きょとんとして母を見ている。
「お母様、お姉様っていつも後で食べてたんじゃないの? それって普通でしょ?」
妹の無邪気な一言で、母の顔から血の気が引いた。
旦那様は、それ以上何も言わなかった。
ただ、私のほうを向いた。
「クラリス。冷める」
私は、はっとして匙を取った。
スープは、熱かった。
今日も、ちゃんと熱かった。
しばらく、誰も口をきかなかった。
食器の触れ合う音だけが、食堂に響いていた。
やがて母が、ナプキンで口元を拭いながら、わざとらしく明るい声を出した。
「それで、閣下。セレナのデビューのドレスのことなのですけれど。辺境伯家ほどのお家でしたら、王都の一流の仕立て屋をご存じでしょう? 姉妹なのですもの、少しくらいお力添えを」
「お断りします」
旦那様は、肉を切る手を止めずに言った。
「えっ……」
「妻の実家に援助するかどうかは、妻が決めることです」
旦那様は、そこで初めて手を止め、私を見た。
母も、妹も、私を見た。
食堂中の視線が、私に集まった。
昔の私なら、きっと頷いていた。お姉さんなのだから、と。
私は、匙を置いた。
「お母様。セレナのドレスは、伯爵家で仕立ててあげてください」
母が、信じられないものを見るような目をした。
「クラリス、あなた、妹が困っているのに」
「困らせないのがいい子だと、お母様に教わりました」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「だから私は、これからは、旦那様を困らせないようにします」
母は、何か言おうとして、口を閉じた。
旦那様が、ほんのわずかに目を細めた。
テーブルの下で、大きな手が、私の手をそっと包んだ。
◇
食事のあと、母はドレスの話を切り出さないまま帰っていった。
妹は最後まで、何が起きたのか分かっていない顔をしていた。
後で聞いた話では、あの夜、母の付き添いで来ていた伯爵家の侍女が、使用人仲間に一部始終を話したらしい。
話はすぐに、王都の茶会に広まった。
「長女に冷めた残りものしか食べさせなかった伯爵夫人」。
妹のデビューの夜会では、母のまわりに人が集まらなかったという。
誰も母を責めはしなかった。ただ、近寄らなかった。
私は、何もしなかった。
する必要もなかった。
ただ、ひとつだけ、旦那様にお願いをした。
「実家の厨房に、マーサという古い料理番がいるのです」
旦那様が、手紙から顔を上げた。
「子どもの頃、たった一人だけ、私に焼きたてのパンの端を取っておいてくれた人です。母に見つかって、何度も叱られていました」
だから、私は知っていたのだ。
焼きたてのパンが、温かいことを。
ほんの一欠片だけ、知っていた。
「……あの人も、温かいうちに食べてほしいのです」
旦那様は、すぐに執事を呼んだ。
ひと月後、マーサは辺境伯家の厨房で働き始めた。
料理長のガストンとは、初日から大喧嘩をして、二日目には肩を並べてパンを焼いていた。
「お嬢様……いいえ、奥様」
厨房の入り口で、マーサは私の手を握って泣いた。
「よかった。本当に、よかった。ここでは、一番に召し上がっていらっしゃるのですね」
その日の夕食に、マーサは小さな丸パンを焼いてくれた。
昔と同じ、皮の硬い、素朴なパンだった。
焼きたての端をちぎると、湯気と一緒に、懐かしい匂いが立ちのぼった。
厨房の隅で、こっそり手渡されたときと、同じ匂い。
口に入れた瞬間、私は分かった。
「旦那様」
「何だ」
「見つかりました。私の、好きな料理」
旦那様が、手を止めた。
「焼きたてのパンの、端っこです」
旦那様は、私の手の中のパンを見て、それからマーサを見た。
マーサは、厨房の入り口で、エプロンで顔を覆っていた。
「……ガストン」
「へい」
「明日から毎朝、マーサのパンを焼かせろ。端は全部、クラリスの皿だ」
「全部ですか。旦那様の分は」
「私は真ん中でいい」
料理長が吹き出した。
私も、笑いながら、二つ目の端をちぎった。
◇
冬が来た。
辺境の冬は厳しい。
旦那様は国境の砦の見回りで、夜遅くまで戻らない日が増えた。
私は一人で、温かい夕食を食べた。
料理長は相変わらず、私が席についてから皿を火から下ろしてくれる。
スープは熱く、パンは湯気を立てている。
それなのに、何かが足りなかった。
向かいの席が、空いている。
「冷める」と言う声が、ない。
ある夜、旦那様が戻ったのは、真夜中近くだった。
外套に雪をつけたまま、食堂をのぞき込む。
「まだ起きていたのか」
「はい」
私の前には、手をつけていない皿があった。
スープは、すっかり冷めていた。
旦那様が、眉を寄せた。
「なぜ食べていない。温かいうちに食べたいと言ったのは君だろう」
「……はい」
「では、なぜ」
私は、膝の上で両手を握りしめた。
二度目の我儘は、一度目より、ずっと言いにくかった。
「旦那様」
「何だ」
「もう一つだけ、我儘を言ってもよろしいですか」
旦那様の灰色の目が、わずかに見開かれた。
「言え」
私は、一度だけ息を吸った。
「一緒に、温かいうちに食べてください」
食堂に、暖炉の薪がはぜる音だけが響いた。
「一人で食べる温かいご飯より、二人で食べる冷めたご飯のほうが、温かい気がしたのです。……くだらないですね」
旦那様は、何も言わなかった。
外套の肩で、雪がゆっくりと溶けていく。
しずくが一粒、床に落ちた。
旦那様は、外套を脱ぎ、椅子の背にかけた。
冷えきった指で、私の頬に触れる。
氷のように冷たいのに、触れられたところだけが熱かった。
「……君は、いつも私を待っていたのか」
「旦那様がいらっしゃらないと、なぜか、食べる気になれなくて」
「スープが冷めるまで」
「はい」
旦那様は、目を閉じて、長く息を吐いた。
「我儘を言えと言ったのは、私だったな」
「はい」
「では、断る理由はない」
旦那様は、私の冷めた皿を持ち上げて、厨房の扉を叩いた。
「ガストン。起きているか」
扉の向こうで、大きなあくびの音がした。
「……旦那様。こんな夜中に、何です」
「スープを温め直してくれ。二人分だ」
一拍おいて、扉の向こうから、料理長の笑い声が聞こえた。
「へいへい。そうおっしゃると思って、火は落としてませんよ」
◇
真夜中の食堂で、私たちは向かい合って座った。
湯気の立つスープが、二皿。
焼き直したパンが、一籠。
「明日から、夕食の時刻には戻る」
旦那様が、匙を取りながら言った。
「砦の見回りは」
「副官に任せる。あれは私より優秀だ」
「そんな、私のために」
「君のためではない」
旦那様は、スープをひと口飲んで、少し顔をしかめた。
「私も、一人で食べるのは味気なかった」
私は、思わず笑ってしまった。
笑いながら、スープをすくった。
熱い。
今日も、ちゃんと熱い。
向かいで、旦那様が同じようにスープをすくう。
口に運ぼうとして、ぴたりと止まった。
「……熱いな」
「熱いので、お気をつけて」
料理長の口癖を真似ると、旦那様は目を丸くした。
それから、小さく、声を立てて笑った。
この人が声を立てて笑うのを、私は初めて見た。
「次の我儘は、何にする」
「まだ考えておりません」
「早く考えろ。三つ目からは、もっと大きいものを言え」
「大きいもの、ですか」
「屋敷でも、馬でも、何でもいい」
私は少し考えて、首を振った。
「では、三つ目は――」
旦那様の匙が止まった。
「明日の朝ご飯も、一緒に食べてください」
旦那様は、長いこと私を見ていた。
それから、呆れたように息を吐いて、少しだけ目を細めた。
「それは我儘ではない。約束だ」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
二つの皿から立ちのぼる湯気が、テーブルの上で、ひとつに混ざった。
(了)




