硝子の中の山羊-間宮響子-
それは、あまりにも「軽い」きっかけだった。
主婦の三浦彩乃は、夜更けのリビングでスマートフォンを眺めていた。子どもを寝かしつけ、夫もすでに寝室にいる。わずかな自由時間。指先でスクロールするたび、無数の品が流れていく。
海外骨董品――そのカテゴリに、なぜか指が止まった。
古びた銀器、欠けた人形、誰が使ったかも分からない十字架。そして、その中にひとつだけ、奇妙なものがあった。
「19世紀・不明宗教儀式用ガラス球」
薄く濁った硝子の中に、黒いものが浮かんでいる。よく見ると、それは“目”のようだった。瞳孔が横に裂け、山羊のそれに似ている。
商品説明は曖昧だった。
――由来不明
――現地では「守護の眼」と呼ばれる
――決して長時間見つめないこと
最後の一文が妙に気にかかったが、それ以上に惹きつけられた。理由は自分でも分からない。ただ、欲しいと思った。
購入ボタンは、ためらいもなく押されていた。
届いた箱は、異様なほど冷たかった。
開封した瞬間、彩乃は思わず手を止めた。中に入っていたガラス球は、写真で見た以上に“生々しい”。
黒い目が、確かにこちらを見ている。
錯覚だ、と自分に言い聞かせる。だが、角度を変えても視線は外れない。どこから見ても、目が合う。
その夜、最初の異変が起きた。
息子の悠真が、寝ながら泣き出したのだ。
「ママ……やぎ……やぎがいる……」
夢だろうと撫でると、悠真は目を開けた。だが焦点は合っていない。
「ベッドの下……いる……見てる……」
彩乃は、思わずベッドの下を覗いた。
何もいない。
――何も、いないはずだった。
ほんの一瞬だけ、闇の奥に“何か”が引っ込むのを見た気がした。
三日後、夫の浩一が事故に遭った。
軽傷で済んだが、奇妙なことを言った。
「ブレーキ踏んだ瞬間、前に黒い影が出たんだ……山羊みたいな……」
その夜、彩乃はガラス球を箱に戻そうとした。
だが、触れた瞬間、確かに“動いた”。
中の目が、ゆっくりとこちらを向いたのだ。
――見ている。
今までは“見ているように見えた”だけだった。だが違う。これは明確な意志を持って、こちらを見ている。
そして、聞こえた。
耳元ではない。頭の内側から。
「ひらけ」
彩乃は、その場で吐いた。
限界だった。
ネットで調べ、紹介された霊能力者のもとを訪れることにした。
間宮響子。
小さな事務所に現れた彼女は、静かな目をしていた。柔らかい声だが、どこか人間ではないものを見慣れている冷たさがある。
「持ってきましたか」
彩乃は頷き、布に包んだガラス球を差し出した。
響子は、それに触れた瞬間、わずかに眉をひそめた。
「……これは、“器”ですね」
「器……?」
「何かが“入っている”。しかも、かなり古い」
響子は目を閉じる。
数秒の沈黙。
そして、低く呟いた。
「見てはいけません。中を」
だが、その瞬間だった。
――パキ、と。
小さな音がした。
ガラス球に、ひびが入っていた。
彩乃が悲鳴を上げる。
「違う……触ってないのに……!」
ひびは、ゆっくりと広がっていく。内側から押し広げるように。
響子の顔色が変わった。
「まずい……“目を合わせた”んですね」
「え……?」
「向こうに気づかれた」
その瞬間、室内の空気が変わった。
重い。息が詰まるような圧迫感。温度が下がる。
ひびの隙間から、黒いものが滲み出した。
煙のようで、液体のようで、そして――形を持ち始める。
角。
長くねじれた、山羊の角。
次に現れたのは、横に裂けた瞳。
それが、ゆっくりと開く。
完全に。
こちらを見た。
その場にいた全員の脳裏に、同時に“声”が流れ込んだ。
言葉ではない。理解できる“意志”。
――見ていた
――ずっと
――おまえたちを
彩乃はその場に崩れ落ちた。
悠真の声が頭に響く。
「やぎがいる」
あれは、夢ではなかった。
ずっと、見ていたのだ。
スマホ越しに。画面越しに。視線が合った瞬間から。
響子が低く呟く。
「……視線媒介型の呪物。最悪の類です」
彼女は護符を取り出し、床に叩きつけた。
「下がって!」
黒いものが一気に膨れ上がる。
角のついた頭部が、半ば外に出た。
その口が、裂ける。
人間の笑いに似ていた。
いや、違う。
もっと根源的な、捕食者の歓喜。
響子は知っていた。
これは“祓う”ものではない。
すでに繋がってしまっている。
視線で。
意識で。
記憶で。
ガラス球はただの入口に過ぎない。
問題は――
見てしまった者の中に、もう“通路”ができていること。
「……目を閉じてください!」
叫ぶ。
だが遅い。
彩乃は、完全に魅入られていた。
黒い瞳を、まばたきもせず見つめている。
その口が、同じ形に歪んでいく。
山羊のように。
それから、何が起きたのか。
正確に記録されていない。
ただ、事務所は半壊し、ガラス球は砕け散っていた。
黒い痕だけが床に残り、焦げたような匂いが漂っていた。
彩乃の姿はなかった。
数日後。
響子は、ある異変に気づいた。
スマートフォンを開いたとき。
画面の反射に、何かが映る。
最初は気のせいだと思った。
だが、違う。
暗い部分に、確かに“目”がある。
横に裂けた瞳。
じっと、こちらを見ている。
電源を切っても、消えない。
黒い画面に、はっきりと映る。
そして、理解した。
あれはガラス球に閉じ込められていたのではない。
“見ること”そのものに寄生する存在だ。
響子はゆっくりと目を閉じた。
だが、閉じても見える。
内側に。
瞼の裏に。
はっきりと。
あの山羊の目が。
――それは、今も見ている。
画面越しに。
鏡越しに。
暗い場所に、目を凝らした瞬間に。
もし、あなたが今、ふとスマートフォンの黒い画面を覗き込んだなら。
ほんの一瞬でも「目が合った」と感じたなら。
それは錯覚ではない。
もう、向こうは気づいている。
――(完)――




