23
その日、シルビアは妙に手元が狂った。
飾り紐を箱へしまおうとして取り落とし、帳面を運ぶ途中で膝掛けの裾を車輪に巻きこみ、エミリーに「ぼんやりしてるんじゃないよ」と額を小突かれる。自分でも情けなくなるほど、意識があちこちへ散っていた。
広場では昼の演目の準備が進んでいた。綱渡り用の柱が立てられ、火の輪の位置が直され、獣車の奥ではビルダンが猿に餌をやっている。賑やかなはずの一座の音が、今日はどこか薄い膜の向こうから聞こえてくるみたいだった。
「シルビア、こっち頼める?」
フレイアが呼ぶ。舞台横で使う花飾りの籠が、荷の下敷きになっているらしい。
「ええ、今行くわ」
車輪に手をかけ、シルビアはゆるやかな坂を押し上がった。朝の湿り気がまだ残っていて、土は思ったより重い。両腕にじわじわと力が要る。昔からこうだったわけではないはずなのに――そう思う瞬間が、時々ある。だが、その“昔”がどこにも繋がらないのが、いつも小さな棘みたいに胸に刺さった。
籠を見つけて引き寄せようとした時、前輪が木箱の角に引っかかった。
「あ……」
体をひねって外そうとした拍子に、車椅子がぐらりと傾ぐ。
次の瞬間、横から伸びてきた大きな手が、椅子の背をしっかり支えた。
「無理に動くな」
低い声が、すぐ耳元で落ちた。
シルビアは息を呑んで顔を上げる。黒い外套の裾。陽を受けてもなお冷たい色の髪。あの男だった。
男は片手で椅子の重心を支え、もう片方の手で前輪の角度を静かに変えた。力任せではなく、慣れた手つきだった。ひどく自然で、まるでこうして彼女に触れることが初めてではないみたいに。
木箱から前輪が外れる。車体が安定したところで、彼はすぐに手を離した。
「……ありがとう」
礼を言いながらも、シルビアは男の横顔を見つめたままだった。
「近くにいるのに気付かなかったわ。あなた、こういうのに慣れてるの?」
「……いや」
「気配をまったく感じなかったわ」
朝、彼が去って行き、こんなにすぐに合えるとは思っていなかったのだ。
彼の動きには迷いがなかった。倒れかけた時にどこを支えればいいか、どの角度で持ち上げれば怖がらせないか、知っている人の手つきだった。
問いかけを飲みこむように、男はわずかに目を伏せた。
「今日はもう話しかけるつもりはなかったんだ」
それだけ言って、彼は木箱の下から花籠を取り出し、シルビアの膝の上へそっと載せた。
距離は近いのに、触れ方は驚くほど慎重だった。乱暴でも、気を遣いすぎてもいない。ただ当たり前のように、彼女の膝掛けを巻きこんでいないか一瞬だけ確かめる、その仕草に胸がざわめく。
シルビアは堪えきれず、口を開いた。
「あなたは、私のことを良く知ってるのね」
風が吹き抜け、天幕の端がぱたぱたと鳴る。遠くで誰かが笑い、犬が吠えた。そんな祭りの只中にいるのに、その一角だけ別の時間に切り取られたみたいに静かだった。
男はすぐには答えない。
その沈黙が、かえって肯定みたいに思えた。
「誰よりも君のことを知っていると、ずっと思っていた」
ようやく返ってきたのは、そんな曖昧な言葉だった。
「何それ」
シルビアは眉を寄せた。深刻な話を言葉遊びのようにされるのは困る。
男の金色の目が、ゆっくりとこちらへ向く。目が合った瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。記憶じゃない。もっと手前の、身体が先に知っている感覚だ。
この目を、私はどこかで見た。その確信だけが、理由もなく迫ってくる。
シルビアは、大きく息を吐いた。
「なんていうか……あなたを見てると、胸が苦しいの」
吐き出すみたいに言うと、男の喉仏がかすかに動いた。
「懐かしいとかもどかしいとか、そう言うのと違って。なんだか……ひどく申し訳ないような気持になるわ」
「シルビア」
初めて彼にその名を呼ばれた。その声が思いのほか優しくて、シルビアは指先を膝掛けの上で握りしめる。
「あなたにとって、私はビアンカなんでしょう?」
「……そうだ。でも、今、君はシルビアだから」
そこで初めて、男の表情がはっきりと揺れた。痛みを堪える顔だった。
シルビアは息を詰めた。どうしてこの男は、そんな顔をするのだろう。自分が名前を思い出せないことを、どうして彼がそんなに苦しそうに受け止めるのだろう。
その時、背後から靴音が近づいてきた。
「シルビア」
振り返ると、パウロが立っていた。こちらへ歩いてくる足取りは静かだったが、目は明らかに男を見ていた。
「親方が探してる。次の道具の確認だ」
「ええ、すぐ行くわ」
パウロはシルビアの返事を聞くと、今度は男に視線を移した。
「性懲りもなく、また勝手に入り込んでるんだな」
「待って、パウロ。彼は、転びそうになったのを助けてくれただけなの」
シルビアは、パウロの腕にそっと手を置いた。パウロの顎にグッと力が入る。
「そうか……俺の大事な人を助けてもらったことには礼を言うよ」
言葉は丁寧でも、声音は硬い。
「でも、今、俺たちは忙しい。祭りの最中なんだ」
「ああ」
ロイドはそれ以上何も言わず、ただシルビアを一度だけ見て、身を引いた。その一歩が妙に静かで、諦めているのか、抑えているのか判別がつかない。
去っていく背を目で追いかけそうになって、シルビアは慌てて視線を落とした。
パウロが車椅子の後ろへ回る。
「押すよ」
「……自分で動けるわ」
「知ってる。でも、俺にさせてくれ」
少し拗ねたみたいな言い方に、シルビアは思わず小さく笑った。けれどその笑みは、すぐに消えてしまう。
パウロに押されながら舞台裏へ戻る道すがらも、胸のざわめきは少しも収まらなかった。
あの男は、どうして、自分の言葉にあんな顔をしたのだろう。
昼の公演は盛況だった。フレイアの炎は高く上がり、ジリアンの綱の上の身のこなしには歓声が飛び、パウロのナイフは今日も正確に的を射抜いた。シルビアは舞台袖で合図を送り、道具を回し、子ども客に笑いかける。いつも通りのはずなのに、どこか一枚、現実から薄くずれているみたいだった。
夜になり、客足が引き、焚火の火が小さくなった頃。自分の寝台へ戻ったシルビアは、ひとり毛布を引き寄せて目を閉じた。
けれど眠りはなかなか来なかった。
今日、あの男に支えられた時の感触が、まだ肩口に残っている気がする。大きな手の重み。椅子が傾いだ瞬間に迷いなく支えられた安堵。知らないはずなのに、知っていたような温度。
胸の奥が、静かに軋む。
ふと、遠くで風が鳴った。
いや、違う。
それは風によく似た、長く低い音だった。
シルビアははっとして身を起こしかけ、すぐに動きを止める。耳を澄ます。夜の向こう、暗い草原のさらに向こうから、もう一度だけその音が届いた気がした。
遠吠え。
そう思った瞬間、理由もなく目頭が熱くなる。
何を思い出したわけでもない。誰の声だとわかったわけでもない。なのに、喉の奥がひどく痛くて、胸の中のどこかがその音に応えようとする。
シルビアは震える指先で、自分の口元をそっと押さえた。
泣く理由なんてないのに、頬をひとすじ、熱いものが流れ落ちた。
――あの黒い男は、明日も来るだろうか。
そんなことを考えてしまった自分に戸惑いながら、シルビアは毛布の中で静かに目を閉じた。
思い出せないはずの何かが、夜の底でこちらを見ている気がした。




