12
「……ビアンカの姿が見えないんだが、どうかしたか?」
ロイドは王都での警備隊制圧の合間を縫い、教会へ戻ってきた。
ジェラルドが不在の今、警備隊は驚くほど統率を欠いていて、鎮圧は、あっけないほど容易だった。
しかし、むしろ容易すぎて、腑に落ちない。
廊下で出くわした尼僧が、子どもたちの荷をまとめながら顔を上げる。
「ビアンカさんなら、先ほど裏口から外へ。……すぐ戻る、とおっしゃっていましたが」
「行き先は?」
「詳しくは。ただ……」
尼僧の視線が、部屋の奥へ滑った。そこには白髪の老婆が、目を閉じて椅子に沈み込んでいた。
「あちらの方が、ビアンカさんを訪ねて来られたのです。それで、助けを求められて……」
ロイドは老婆へ歩み寄りかけ、足を止めた。眠っているのか、気を失う寸前なのか、判別がつかないほど消耗している様子だ。
ここで揺り起こすのは違う、と直感が告げた。
(王都の知り合いか。――なら、戻ってきた時に聞けばいい)
「わかった。すまないが、ビアンカが戻ったら、宿へ帰るよう伝えてくれ」
尼僧が頷くのを確認して、ロイドは踵を返した。今夜は、抑えた貴族の屋敷の捜索準備もある。今は『黒牙の群れ』の拠点である宿へ向かわなければならない。
ただ、胸の底に残ったざらつきだけは拭えなかった。
◇◇◇
ビアンカは、森へ続く暗い夜道をひとり歩いていた。
――ナグスの森。
隣国とこの国を隔てる、深く、暗い森。
呪いがかかっていて、一度入れば戻れない
――そんな言い伝えがあるせいで、地元の者は誰も近づきたがらない。
けれどビアンカは、匂いを見失わなかった。
ジェラルドの家で嗅いだ香。
甘く、鼻の奥に張りつく不快な匂い。
あれが、今も微かに風に混じって流れてくる。
山肌を分け入るたび、匂いは濃くなった。
崖下の窪地に、ぽつんと小さな小屋が現れた。
そこから、ジェラルドとそして周囲に複数の人の匂い。
小屋には小さな窓がひとつ。そこから、ほの明るい光が漏れている。
ドアを叩こうとした瞬間、指先が震えた。
(……怯えてどうするの。ミルバを救わないと)
ビアンカは息をひとつ飲み込み、足を進めた。
近づくと、扉が内側から開いた。
出てきたのは、目つきの悪い大柄の男だ。
男はビアンカを上から下まで舐めるように眺め、
次に背後を確かめる。
「一人か」
ビアンカは頷く。男は鼻で笑い、顎で中を示した。
部屋の中は、埃と鉄さびの匂いがした。
湿った木の匂いの奥に、乾いた血の気配がかすかに混じっている。
戸口の近くで待たされると、先ほどの男が、奥の部屋から誰かを引きずるようにして連れてくる。
「ミルバ!」
「……ビ、ビアンカ……」
ミルバのこめかみには赤黒い痣があり、唇は切れて血がにじんでいた。身体はぐったりと重そうで、視線だけが必死にこちらを探している。
(お腹に……赤ちゃんがいるのに)
怒りが、胸の奥で音を立てて燃え上がった。
部屋の中央。木の椅子にゆったりと腰掛けたジェラルドが、面白がるように口を開く。
「本当に一人で来たんだな。たいしたもんだ」
ビアンカはミルバから目を離さないまま、言葉を投げた。
「今さらこんなことをしても、あなたたちがやってきたことは消えない。無かったことにはならないわよ」
ジェラルドは口の端を歪める。
「無かったことにする気なんてないさ。むしろ――お前たちに、俺の存在を知ってほしかった」
椅子を軋ませて立ち上がり、ゆっくり近づいてくる。香の匂いが濃くなる。
ビアンカは一歩も退かずに睨み返した。
「綺麗になったな、ビアンカ。会いたくて仕方なかった。随分遠回りしたがな」
ジェラルドが顎に指をかけ、吐息が触れる距離まで顔を寄せてくる。
ビアンカは顔を背けた。嫌悪が喉を焼く。
「やっぱり、そうよね。あんたの家で嗅いだあの匂い。――あれは、あんたの下劣な父親がまとっていた匂いと同じだった」
ジェラルドが笑う。
その笑みが、ぞっとするほど楽しげだった。
「なんだ。覚えていてくれたのか」
「ええ。覚えているわ。ウォルター伯爵家――あなたの一族をね」
小さい頃。母を“買った”家。
母を騙し、残虐な行為に及んだ家。
記憶の底に沈めても、腐った匂いだけは残っていた。
ジェラルドは、懐かしむように目を細める。
「寄宿舎から戻った時に、おまえのことを見てたんだ。綺麗な毛並みの子どもがいるって」
「そう……あなたは、生き延びたのね」
革命派の襲撃で、伯爵家は裁かれたはずだった。
それなのに、この男だけが残り――今、目の前で笑っている。
「ずっと思い続けていたよ」ジェラルドは囁く。
「お前を俺の傍に置いて、いつまでも同じ姿で見続けられたら、どれほど幸せかってな」
その瞳の奥に、飢えた光が宿る。背筋が泡立つ。
ビアンカは吐き捨てた。
「気持ちの悪い趣味に溺れるのは、そういう血筋だからなのかしらね」
ジェラルドは、むしろ嬉しそうに笑った。
ビアンカはミルバの方へ視線を移し、はっきり告げる。
「約束通り来たわ。ミルバを今すぐ、家に帰してちょうだい」
「ああ、そうだな」
ジェラルドはミルバの傍へ歩き、髪を掴んで乱暴に顔を上げさせた。
「妊婦は飾りにするには向いてないらしい。あまり綺麗でもないしな」
ミルバの喉が詰まったように鳴る。
ビアンカの指が震えたが、声は折れなかった。
「私と交換、そういう話でしょう? 彼女は『黒牙の群れ』の一員ですらないわ。早く解放して!」
――ミルバをどうやって逃がす?
小屋の外には見張りがいる。ここから出しても、追いつかれる可能性が高い。ビアンカは会話を繋ぎながら、頭の中で道を組み立てた。
ジェラルドは肩をすくめる。
「ここから作業小屋まで移動しながら考えるとしよう。悪いが時間がない。いつお前の仲間が来るかわからんからな」
そう言うと、ミルバを掴んでいる男に、彼女を馬車へ連れて行けと指示した。
ミルバが引きずられるように連れて行かれ、扉の向こうへ消える。
ビアンカの胸が鋭く痛んだ。追いかけたい。けれど、今動けば彼女をより危険にさらしてしまう。
ジェラルドは、ビアンカの髪を指に絡めるようにして立たせ、後頭部を持ち上げるように顔を近づけ、耳元へ囁いた。
「心配するな。お前の母親よりも――もっと綺麗な“作品”に仕上げてやる」
ビアンカの中で、何かが冷たく固まった。
恐怖は消えない。それでも、怒りはそれを押し潰すほど強かった。
(許さない。絶対に――許さない)
彼女は唇を引き結び、ジェラルドの手の中で、微かに息を整えた。
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