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獣の王は花嫁にもう一度恋をする  作者: けもこ


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10

病に伏した母が、遠い病院へ行くと告げた日。


痩せた手で「すぐに戻るわ」と言って頭を撫でてくれたことを、名残惜し気に振り返りながら門を出て行く背中を、ビアンカは鮮明に覚えている。

――二度と帰ってこなかった背中。


ビアンカの肩が、ぐらりと揺れた。


「……ああ…お、母さん」


掠れた声が落ちる。

ビアンカの膝が抜けたように、身体が沈む。


その声にロイドの胸が締めつけられた。彼女の名を呼ぼうとして、言葉が喉に引っかかる。

彼は、ビアンカの前にしゃがみ込み、肩に手を置いた。


「違う。違うよ、ビアンカ。――見てはダメだ。今は戻ろう」


扉を閉めて、ここから連れ出して、外の空気を吸わせよう。そうすべきだ。そうしなければ――。

だが、ビアンカはロイドの手を、乱暴ではないがはっきりと払いのけた。


顔を上げた瞳は涙に濡れていた。そして、その中にあった恐怖の色が、怒りに塗り替えられていくのが見えた。


「……ロイド。止めないで」


声はまだ震えている。それでも、逃げないという意思が、そこにあった。


「許さないわ……こんなこと、絶対に許さない。ちゃんと決着をつけなくちゃ。ここで、目を逸らしたら――これからもたくさんの命が奪われてしまう」


ロイドは、歯を食いしばり、扉の横へ退いた。本当は、彼女を止めたい。

こんなものを見せたくは無いし、彼女を連れ去って、安全な場所で笑って日々を送らせたい。

――ビアンカを守りたい

いつだってそう思っている。


でも、自分の愛する女は、そんなやわな女では無い。

いつだって自分の隣に立って。ともすれば半歩前へ出て、同じ目線で、同じように戦うことを望む。


誰よりも彼女を知っている。だから、彼女の決意を踏みにじることはできない。


ビアンカは壁に手をつきながら立ち上がり、鼻で短く息を吸った。香の匂いの奥に、微かな鉄の匂いが混じっている。

その事実が、彼女の怒りに油を注ぐ。


部屋へ足を踏み入れた瞬間、ビアンカの背筋が小さく跳ねた。

台座には、見覚えのある装飾があった。

ビアンカは唇を噛みしめ、爪が掌に食い込むほど拳を握った。


ロイドは背後から彼女の肩を包むように手を置いた。支えるために。

それでも、ビアンカの身体は、もう震えていなかった。


「……ジェラルド」


その名を呼ぶ声が、低い。獣が唸る前の、静かな音。


「許さない。絶対に、許さない」


ロイドはビアンカを抱きしめ、その怒りを自分の胸で受け止めた。彼女の怒りは自分のものであり、それこそが――自分の原動力だから。


「……証拠を持ち帰ろう」ロイドが囁く。「子どもたちの件も、このことも、全部。ヨナスたちがすべてを公にするときにこいつらを追い詰める大きな武器になる」


ビアンカは一瞬だけ瞼を閉じ、深く息を吸い込んで頷いた。


「ええ。こんなことは絶対に――ここで終わらせる。そして報いを必ず受けさせるわ」


ビアンカは、剥製から視線を逸らし、壁沿いの棚へと歩いた。

整然と並んだ箱、鍵のかかった引き出しの中の紙束。

ロイドが手早くそれを確認する。


「剥製の売買に関する帳簿と支払いの明細だ。ああ……ジェラルドが“剥製”を作っている工房の経費の書類もある」


得意先への売り上げ名簿には、高名な貴族の名前がずらりと並ぶ。

必要なものをより分け、証拠になる部分だけ取り出して袋に詰めた。


「すぐに動かないと、書類が無くなったことに気づけば、全てを隠蔽されてしまうわ」

「このままヨナスのところへ向かおう。子どもたちの保護もあっちに任せているからな」


部屋を出る時、ビアンカは、立ち止まってもう一度部屋を振り返った。

あの時に見た母親の姿を探すように。


「ビアンカ……行こう」


ロイドは、ビアンカの肩に手を置き静かに促した。

振り向いた彼女の瞳に怒りと悲しみが揺れ映る。


ロイドは、自分の心の中に誓いを立てた。


――二度と、彼女の心を絶望に染めさせない

絶対に、ビアンカの見る世界を作り変えて見せる。

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