鬼刹那
それで、そいつをおまえはどうしようというのだ?
真っ暗な闇。光のない世界。奈落の底。無数の、白い手。
その白い手が、俺を絡め取る。逃さないとばかりに、手足を拘束してくる。天には光があるはずだからと、精一杯伸ばしてはみたけれど、どれもその白い手によって下ろされてしまう。
「そなたは、わたくしの、玩具」
紅い唇を歪めて、そいつは白い手を俺の頬に触れさせる。いやで、たまらない。それなのに、逃げられない。
母や父の顔さえ憶えていない――俺には、思い出なんてない。ただあるのは、その、無数の手に支配された、陵辱の日々――。
しかし、ある日、運命が変わった。捕らわれの牢獄に降り注ぐ炎。それは助けのごとく、俺をそこから逃がした。
騒ぎに乗じて山へ逃げ、生き延び、数年後。今宵は、復讐の、夜。
月夜がうつくしい。濃紺の靄がかる空に浮かぶ、きつね色の満月。淡く発光して、ぼんやりと照らし出す闇の道。そこにつづく、道。
目をとじればすぐに思い出せる。あの女の、あの紅い唇と、白い手。『異形』だと罵り、『鬼』と呼びながら、狂喜に支配された眼で俺を見てきた。蔑みの言葉を口にしながら、どうしてもあの白い手は俺を放そうとはしなかった。狂った女の、玩具だった。
あの時は力などなかった。か弱い子供だったのだ。自分が『鬼』であると自覚する前に『玩具』だと叩き込まれてきたのだから、逆らえるはずもなかった。
けれど今はちがう。
そっと自分の手を見つめる。細く長く伸びた指、その先の、鋭い爪……風がそよぎ、赤みがかった髪はなびき、額に突き出た角に当たる。
そう、俺は鬼だ。
無力で欲深い人間に、復讐を。
蔀をあけ、中へ入る。手引きをしてくれたのは、ひとりの男。白い手から逃げ出して数年後、偶然出会った人間だった。
「本当に行くつもりか?」
無精ひげを撫でながら、のんびりと男は問う。
「あの火災が何年前だと思っている? おまえの求めている女はとっくに――」
「わからないだろ」
伸びた髪を無造作にかきむしり、男の言葉を遮る。そう、わからない。だって、この怒りはどこにぶつければいいというんだ?
「祁煉、わかっているだろう。ここまで来れば、もう予想はつく。それでもおまえは――」
瞬間、男はハッとして口をとじる。感情を押し殺すように目を細め、しばらくじっとしていた。
俺は知っている。この男も本当は、俺と似たような気持ちなのだ。だから俺は、こいつを信用したんだ。
こいつの親父は、今――。
「大丈夫。俺、行くよ」
軽く笑い、男の肩に手をかけた。
「俺は忘れない。おまえの親父が火事に乗じて俺を逃がしてくれたこと。おまえがよくしてくれたこと――じゃあな、菅原」
俺の恨みの種は、もうこの世にいない。わかってたんだ。俺の生きてきた数年と、人間の数年は年の取り方がちがうんだ。奴らは脆い。その脆さが、恨めしい。
けれど、では、この恨みはどうすればいいのだ?
雷を呼び、目に見える建物全てに落としていく。目をつむって思い出す、ひとつひとつの恨みを、憎しみを限りに。
都は雷鳴に呑まれていく。
人々の叫びが聞こえる。虚しい、その悲鳴。灰色の暗澹とした雲の隙間から轟く光に、奴らは畏れおののいていた。
何日も雷を繰り返し落として、人間たちの憐れなその光景を大木の上から冷めた目で見ていると、ふいに、声がした。見れば、雨で全身濡れながらも、天に祈るひとりの女がいた。その瞬間、思い出す――紅い唇、白い手、手、手。
これは天がくれた幸運か――ぞくりと、歓喜に震える。今こそ、この憎悪の牙を剥く時ではないか?
憎しみをぶつけるべき対象のいなくなった俺に、今目の前に、幸運にもあの女と同じ白い手を持つ娘がいる。思い出す、あの日々……。
娘は白い着物を身につけ、長い黒髪をたらしたまま、膝をついて祈っていた。「どうかお許し下さい。皆を守り下さい」と何度も何度も呪文のように唱えながら。
ぐっと奥歯を噛みしめる。拳が震えた。
なぜこの女は泣いているのだ? 許しを請うているように。なぜ、なぜ、なぜ……?
この娘はあの女ではない。
恐怖から涙を流し、ただ神に祈ることしかできない、弱い生き物――それはまるで、かつての俺だ。
では、今は? 今の俺は、なんだ?
自身の掌を見つめる。鋭く伸びた爪が、暗闇に光っている。落ちる雷によって露わにされる、額の角――娘に忍びよる、手、手、手……。
俺はまるで、あの白い手の女のようではないか。
「神よ、どうか怒りを御鎮めください……どうか、どうか」
女の声は、ひどく小さい。それなのに、俺の耳にははっきりと響いてきた。逃げ惑う人間たちすら、虚しいだけなのだ。こんな復讐に、喜びなどない。
それで、おまえはそいつをどうしようというのだ? ――牢獄から逃げるのを助けてくれた男は俺に言ったんだ。恨んでやる、絶対に許さない、と口走った俺に、あの男は静かに言ったのだ。
「復讐を胸にして生きていくことは、苦しみでしかないのだよ。おまえは自由になったのに、再び苦しみを望むというのか。それで、おまえはその憎しみを……そいつをどうしようというのだ?」
その時の俺には、答えられなかった。その言葉の意味がわからなかった。ただ、どす黒い感情に呑まれていた。呑まれてみたけれど、やはり、苦しいのは変わらない。
掌に顔をうずめ、しばらく声を殺して泣く。ああ、恨みは晴れない。なにをしたって晴れることなどない。ならば、どうすればいい――?
「お許しください。お守りください、どうか――」
娘の声は、鮮明に響く。
そう、ならば許してやろう。俺は、過去を、許そう。
今は無理でも、いつか。そうして、いつか……。
* * *
青空を仰ぎ、彼女はそっと息をつく。あの凄まじい夜が、まるで夢のような空だ。雲ひとつない、明るい、澄み渡った青の世界。
しばらくは、あの天変地異は朝廷への祟りだと言われていたが、はたして真実なのだろうか。
彼女は目をつむり、そっと両手を合わせる。あの夜、たしかに自分は見たのだ。大木の上に立つ、不思議な――
「御息所さま」
呼ばれ、あわてて顔をあげる。
「今行きます」
刹那、あたたかな風が頬を撫でた。
鬼恋―キレン―
はじめ、この話のタイトルはこれでした。笑
(ちなみに、これから主人公の名前をあてはめました)
しかし、短編で恋を書くのは難しく、恋になる前にこんな形でまとめてしまった。
鬼の話は、結構好きです。
何回か書いているのですが、やっぱり楽しいです。
今回、少しばかり歴史を織り交ぜてみました。
とはいっても、なんだか正確ではない気もします・・・が、有名な歴史ならばわかりやすいかな、と思い、入れてみました。
史実と違ってたらごめんなさい(ぇ
〜解説〜
時は平安時代。
祁煉が捕まっていたのは都です。
そして、彼が牢獄から逃れ得た理由のひとつである『火災』は、権力の他者排斥のために起こった『応天門の放火』がモデル(?)であります。日本史を習った方なら、知っているのではないでしょうか?
それから『菅原』、『菅原の父親』でありますが、これは世にも有名な『菅原道真』さまモデル。
901年に藤原氏の策略で大宰権帥に左遷されてしまった『菅原道真』。彼が亡くなってから都に天変地異が起こったので、これは朝廷への恨みだとされ、彼はやがて祀られるようになりました。
つまり、『菅原』は道真さんの息子、『菅原高視』。それでもって、祁煉が行った雷鳴の攻撃(?)は、この天変地異をモデルに。
……とまあ、こんな風に時代背景も絡めますと、また違った風に読んでくださるのでは…!という淡い期待をこめて、解説となりました。
うう、なんか言い訳がましくてすみません。
ちなみに、どうでもいいですが、『少女』=『御息所』さんのモデルは、道真さんを左遷した藤原氏である、『藤原時平』さんの娘さまです。
そういう、運命の皮肉といいますか、偶然の奇跡といいますか、歴史みたいな複雑な絡みを書きたかったのですが…
はい、本当にどうでもいいですね……;;
ちなみについでに、私は菅原道真さん大好きです←
ほんとは、別の作品を前々から書いていたのですが、急遽こちらを書きたくなり、五分企画さまに出させていただきました。
今思えば、そちらの話のほうがわかりやすかった気がします……おもしろいかどうかは別として。
どちらもどんぐりの背比べ並みなものですが。。
せっかく書いたので、後日公開したいと思います。
『生贄』のお話です。やはり和風。(笑
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
短編は心理描写が難しかったり、コンパクトにまとめなくちゃいけないので苦手なのですが、これからもぼちぼち頑張りたいです。
とりあえず、どんな短編でも、ちょい役でも、登場人物には名前を付けるという、意味のない希望が叶ってよかったです(ぇ
ぐだぐだすみません。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました!