5 水墨画展
「なんか、すごい...」
「すごいしか言葉が出て来ねぇな...」
二人は壁一面に広がる屏風に描かれた水墨画を眺めながら溢した。
成海と夏川は国立新美術館で行われている水墨画展にやって来ていた。堂々と並ぶ名作達に圧倒されながら、またすっかり水墨画の魅力に虜になってしまった。
二人は一つ一つの作品をじっと時間をかけて鑑賞し進んでいく。
「次の作品は...」
と、部屋の隅にひっそりと展示されている作品に目を移す。
(あれ、これに似た絵何処かで見たような...)
そんな違和感を抱えながらキャプションに目を移すと、そこには見覚えのある名前が書かれていた。
『弐阡参佰肆拾伍』
伝 玉津老蟹筆
「あっ、これって」
「何かあったのか?」
「これ、新妻さんが持っていた水墨画と同じ作者の作品です」
その絵は、一人の女性がこちらに微笑みかけているものだった。確か新妻の家で見せてもらった絵にも必ずこの女性がいた。どこか暖かさを感じるその絵に見入っていると、スーツ姿の男性を連れた一人の老人に話しかけられた。
「老蟹をご存知で?」
なんと返せば良いのか分からず固まっていると、それに気付いた老人がにこりと笑った。
「いやいや失礼、私老蟹とは竹馬の友でね。昔は私が彼の、マネージャーのようなこともしていたもんで」
「そうなのですね」
「すみませんな。ぜひじっくりと見てやってください」
老人はそう言い残すとゆっくりと去っていった。その後ろを歩くスーツ男と会釈を交わし、再び絵に向き合う。老蟹が描くこの女性は彼にとってどんな存在なのか...。老人に玉津老蟹の話を聞いてみれば良かったなぁ。
「...そろそろ出るか」
「はい」
夏川と並んで美術館をあとにする。芸術に触れた後は、なぜだか意識を何処かにおいてきたような気分になる。何かを話す気にもならなくて、ただぼぅっと歩く。そんな私の意識は頬に落ちてきた何かによって取り戻された。
「...雨だな」
「先輩傘持ってますか?」
「持ってねぇや」
「私もです」
最初はぽつぽつと殆ど気の付かなかった雨が、すぐに周りの雑音をかき消す程になった。私達二人は雨をしのげるところを求め走り出した。
「先輩!あそこのカフェ!」
「ナイスだナナ!」
すぐに屋根の下に入れたからか、幸い上着が軽く濡れた程度で済んだ。
チロンチロン
重厚感のあるドアを押し、一歩踏み込むと冷気が顔を覆った。雨に濡れている部分が冷えて寒い。
奥のテーブル席に案内され、それぞれカフェラテとブレンドコーヒーを注文する。
程なくして、夏川の前にカフェオレが、成海の前にブレンドコーヒーが置かれた。一口口に含むと、ふわりと心地よいコーヒーの香りが広がる。
「よくブラックで飲めるよな」
「夏川さん飲めないんですか?」
「コーヒーとゴーヤだけは駄目なんだよなぁ」
夏川さんが頭の後ろへ手をやる。
男勝りな感じの夏川さんがたまに見せるこんな一面が私は好きだ。
私が一人ホクホクしていると、隣のテーブルにもお客さんが入ってきた。
「おや、貴女方は...」
「あっさっきの」
なんと隣のテーブルにやってきたのは、先程美術館で話しかけて来た老人とスーツ男だった。
「雨宿りですかな?」
「えぇ、そちらも?」
「いや、私達はこの喫茶店によく来るんですよ。美術館に行った後はいつもここでアイスコーヒーを飲むんです」
老人と話している間に、いつの間にかスーツ男が注文を済ませアイスコーヒーが二つテーブルに並んでいた。
「こんなに寒いのにアイスコーヒーなんだな」
「えぇ。ここのアイスコーヒーは面白いからね、ほら。氷がコーヒーでできているから、薄まることなく飲めるんだよ」
「「へぇ」」
面白いことを考えるものだ。私がすっかり感心していると、夏川さんがすっと顔を寄せて耳打ちしてきた。
「せっかくだから玉津老蟹について聞いてみろよ」
「確かにそうですね」
そして再び老人に向き直る。そういえば、名前を聞いていなかったな。
「あの、私は成海ナナと申します。こちらは夏川三生さん」
「そういえば名乗っていませんでしたな。私は後迫 直哉と申します。こっちは私の秘書の有寿夷だ」
「秘書の方でしたか。後迫さんは社長さんだったりするのですか?」
「まぁそれに近いかな。小さな事務所で画家の卵の育成をしているんだよ」
「私みたいな感じだな」
「ほぅ、若いのに偉いですな」
「あの、昔玉津老蟹のマネージャーをしていたと言っていましたよね?」
「老蟹に興味がおありかい?」
「はい、彼のことを色々知りたくて」
「では、少し昔話をしよう」
そう言って後迫さんはアイスコーヒーを一口飲んだ。




