4 二回目のダイアローグ
夏川との食事からちょうど二週間が経った日、成海は再び87へ向かっていた。
約束の時間より10分ほど早く着いたため、先に中へ入り前回と同じ場所に座り新妻を待った。
スマホを開くと、前回別れ際に交換した新妻のメールアドレスからメッセージが入っている。
『少し時間に遅れてしまいそうです。もしよければ先になにか頼んでおいてください。私のコーヒーとプリンも頼んでいてもらえると助かります。』
新妻からのメールに承知の旨を返信すると、エチオピアコーヒーとプリンを2つずつ注文する。
ほどなくして、新妻が入口のドアを開けた。
「すみません、遅くなってしまって」
「いえ、全然待ってませんよ」
「お待たせしました、こちらエチオピアコーヒーと懐かしのレトロプリンになります」
それぞれにカップと銀食器が置かれる。
「注文、ありがとうございます」
「いえいえ、いただきましょうか」
「そうですね」
向かい合って座る二人は同時にコーヒーカップを啜った。
「最近の体調はいかがですか?」
「最近は食欲が全然なくて...。でもここのプリンとコーヒーは食べられるんです」
「そうですか...」
「気にしないでください。私は長く生きすぎた。あとは死ぬだけです。だからあなた達に依頼をしたんですから」
私は黙ってしまった。そうか、確かに死前カウンセラーに依頼をするということは、死が近いことを理解しているということだ。しかし、それを受け入れられるかは別である。
死前カウンセラーの仕事は人を幸せな死に導くことである。現状幸せな人間はそんなもの依頼する必要がない。やはり新妻にも、何かしら心残りがあるのだろう。
「あの、、なぜ新妻さんは死前カウンセラーに依頼をしたんですか?」
「そうですね...なぜでしょう。いえ、きっと理屈ではなく私のエゴなんです。どうしようもないと、どうしようもできないと分かっているけれど、本能がそれを聞かなかった。成海さんには申し訳ないと思っています。私がこんなんではあなたの仕事ができないでしょう。せめて、私が逝く時を見守っていて欲しいです」
私は再び黙った。死前カウンセラーとしては、依頼者の望みを第一に考えることは鉄則である。しかし新妻は、手に入れることはできないが、手に入れたい幸せを求めている。それは私に...いや、誰かに看取られることではない。新妻の求める幸せが何なのかわからない。だけど、諦めるのは早いと思った。
「新妻さんの心に引っ掛かっていることは、そんなにもどうしようもないことなのですか?」
「...いえ、きっと私が行動する時間はたくさんあった。しかし、怖かったんです。所詮私はただの寂しがり屋の腰抜けなんです」
「怖かった...」
「えぇ、でももういいのです。今の話は忘れてください。せっかくなら明るい話をしよう」
そうい言って新妻は話し始めてから手を付けていなかったコーヒーに再び口をつけた。
私は必死に他の話題を探した。ふと先日買った水墨画の本が脳裏をよぎる。
「あの、水墨画ってすごく奥が深いんですね」
新妻が虚を疲れたような顔をする。しまった、少し無理やりだったか。
「新妻さんが水墨画が好きだとおっしゃっていたので、少し勉強をしてみたんです。まさかあんなにも様々な画法があるとは」
「そうでしょう。私には、普通の水彩画なんかよりずっと色鮮やかに見える」
「モノクロなのにですか?」
「モノクロだから、です。色がないからこそ描いた人間の人間性がよく分かる」
そうか、新妻はそんなふうに水墨画を見ていたのか。確か、夜な夜な読んだ本にも水墨画に現れる人間性についての記述があった気がする。
「新妻さんは、玉津老蟹さんの作品を何枚か持っていらっしゃいましたよね」
「よく覚えていますね。ちょっとした嗜みですよ。それよりも、来週の日曜日に六本木で水墨画展があるんですよ。興味がおありなら行ってみると面白いかもしれませんよ」
新妻の言葉にどこか引っかかりを覚えながら予定を確認する。ちょうど日曜日は夏川と出かける予定が入っていた。しかし、場所は決まっていないので夏川に提案してみよう。
「ありがとうございます。新妻さんは行かれないのですか?」
「私にはもう出かける元気はありませんよ。この喫茶店に来れているだけ嬉しいものです。」
「では、なにかお土産を買って来ますね」
「楽しみにしています」
そんな調子でその後は水墨画トークに花を咲かせ解散となった。
夏川に水墨画展の話をすると秒速でOKが出た。成海は次の日曜日までにもっと水墨画のことを勉強しようと思いながら、新妻の求める幸せのことも引っ掛かっていた。