3 夏川三生
暖かい風がいたずらに成海の前髪を撫でる。
喫茶店を出た私は、東京駅へ向かった。
18時から事務所の先輩と食事をする予定なのだ。余裕を持って電車に乗ったはずが、駅で迷ってしまった。現在時刻は17時53分。なんとか間に合いそうだ。
「お、お疲れ様」
「お疲れさまです。すみません、お待たせしてしまって」
「全然いいよ。行こうか」
彼女に着いていくと、そこはお洒落なフレンチのレストランだった。まるでホテルのロビーのようで胸が踊る。
「予約した夏川です」
「2名様ですね、こちらへどうぞ」
私達は夜景の見える一番奥の席へ案内された。
(どうしよう...こんなに高級そうなお店だとは思わなかった...。テーブルマナーとか、なんにも分からないよ...)
そんな私の焦りに気付いたのか、前を歩く夏川が振り返る。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。ここは家族連れなんかも来るフラットな店だから」
夏川がカラッと笑う。人懐っこい笑顔にドキッとしてしまう。それから、夜景のよく見える方の椅子を引いてくれた。
彼女の名前は夏川三生。夏川臨終相談所の設立者兼所長であり、死前カウンセラーの第一人者である。そして、私にとってはこの仕事を選ぶきっかけをくれた人だ。艶のある黒髪を高い位置でまとめて、キリッと跳ね上げたアイラインの印象的な美人である。
高級感のあるメニュー表をめくり、料理を注文する。
しばらく雑談に花を咲かせていると、料理が到着した。
私の前にはビーフシチュー、夏川の前には見たことのない野菜の煮込み料理が置かれた。
「夏川さん、それなんですか?」
「これはラタトゥイユ。フランス南部プロヴァンス地方の郷土料理だね。はい、口開けて」
戸惑いながら口を開けると、数種類の歯切れのよい野菜とオリーブオイルの風味で口の中が包まれた。軽く手の添えられた顎からじんわりと熱が伝う。
「美味しいでしょ」
「おいひぃです」
口の中の野菜たちを嚥下し終えると、今度はビーフシチューを口に運ぶ。こちらも絶品だ。続いて深みのある赤ワインを流し込む。あまりの美味しさに食事に夢中になっていると、不意に夏川が口を開いた。
「そういえば、依頼者さんのところへ行ったんだって?新妻さんだっけ」
「はい、とても良い方で少し距離を近づけられたと思います」
「へぇ、さすがナナ。今はどんな状況なの?」
それから私は新妻について分かったことと、喫茶店で聞いた話を夏川に聞かせた。
「...思い出のプリンを毎日ねぇ。しかも特別好きでもないコーヒーまで」
「はい、なのでその "思い出" の所に何かがあると思うんです」
「うん、いい着眼点だ。その思い出ってのを探ってみなよ。それから、『玉津 老蟹』についても」
「新妻さんの好きな水墨画家についても...?」
「うん。良い?人間ってのはラタトゥイユと一緒。色んな要素が集まってその人の人格を作ってんの」
そう言って夏川は自分のラタトゥイユからトマト、ナス、ズッキーニ、パプリカを取り出し並べ始めた。
「こうして一つ一つでは全く違うものに見えるけど、その全く違う要素は必ず相互に作用している」
夏川はまた、並べた野菜を一つに戻す。
「さっきまで別々だったものがこうして一つになった時、初めて料理は完成する。人間だって同じ」
「なるほど...」
夏川の話は半分くらいしか理解できなかったけど、とにかく色んな要素から人間を見てみろってことは分かった。
私があまりに真剣にラタトゥイユを見つめてしまったので、恥ずかしくなったのか夏川は顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。
「ほら、さっさと食べろ!」
「は、はい!」
残りのビーフシチューを口に運びながら、これからどう動こうか考えた。
「すみません、ご馳走になってしまって」
「良いんだよ。遅くなったけど入所祝だ。あと、これも」
と言って夏川がぶっきらぼうに箱を渡してきた。薄桃色の箱にルビー色のリボンが巻かれている。
リボンの端を引こうとすると、夏川が慌てたように手で制してきた。
「恥ずかしいからここで開けない!帰んぞ」
「ちょ、待ってくださいよ!夏川さん!」
夏川と別れたあと、どうしても我慢できなくて箱を開けると、そこにはキラリと光るネックレスが入っていた。よく見ると、装飾にさっき飲んだワインと同じような色の石が埋め込まれている。
ネットで画像検索をかけてみると、この石はパワーストーンだと分かった。色から察するに、これはガーネットだろう。恥ずかしそうにそっぽを向く夏川の姿を思い出し、つい顔がほころぶ。
丁寧にネックレスを箱に戻し、力強く改札へ向かった。