1 成海ナナの仕事
「本日から新妻様を担当いたします、成海と申します。新妻様が幸せな最期を迎えられるよう、全力でサポートいたします。よろしくお願いします」
ゆっくりと頭を上げると、足元しか見えていなかった視界が一気に広がる。初めて合わせる顔は、想像していたよりも若く見え、春風をまとったような雰囲気を醸し出していた。
数ヶ月前に大学を卒業した私は、夏川臨終相談所に就職した。この相談所では人が幸せな死に方ができるようにサポートしている。つまり、『死前カウンセラー』。相談所に舞い込む依頼は、死期が近い何らかの後悔を抱えている人からのものがほとんどだ。二ヶ月の研修期間を経て、やっと依頼を担当することになった。
新妻隆夫 78歳 元測量士
余命 : 半年 (肺癌ステージ4)
事前に知らされた依頼者の情報はこれだけだった。そこで、とりあえず新妻の元を訪ねることにしたのだ。
「どうぞ、上がってください」
「失礼します」
新妻に促され、居間の座布団に座る。すぐに目の前にアイスコーヒーの入ったグラスが置かれた。一口飲むと、少しの酸味と華やかな香りが鼻を抜ける。
「...エチオピア...」
「そうです。よくわかりますね」
「毎朝飲んでいるんです。コーヒー、お好きなんですか?」
「いえ、私が好きな訳では無いのですが」
新妻の言い方に少し引っかかりを覚えながら、また一口口に含んだ。
「では、改めまして夏川臨終相談所から参りました、成海ナナと申します。本日は、お互いのことをよく知っていきたいと思います」
「互いをよく知る...?」
「はい。最期の時をほとんど知らない人間に任せたくはないでしょう?」
この時間がこの仕事をするに際して一番大事だと私は考える。趣味から家族関係、思想から過去に至るまで依頼者のことを理解することで、最上級の死に場を作れるはずだ。とは言っても、これが初めての担当だから全て手探りでやっていく。
それからその日は、二時間ほど互いのことを話して終わった。
帰路につきながら新妻との会話を思い出す。今日分かったことは大きく三つ。
一つ目は、新妻に家族はいないということ。新妻は一人暮らしだが、なんと住まいは二階建て一軒家である。男性が一人で暮らすには広すぎる家である。おおよそ両親から引き継いだものだろう。
二つ目は、毎朝自宅近くの喫茶店「87」に通っているということ。87では毎回エチオピアコーヒーと、看板商品である "懐かしのレトロプリン" を頼むそうだ。
三つ目は、水墨画を見るのが趣味であること。月に二、三回水墨画の展示会へ行っているようだ。家にもいくつか作品があり、その一部を見せてもらった。有名な画家の作品らしいが、いまいちピンと来なかった。誰の作品と言っていただろうか...。
そうだ、『タマヅ オイカニ』だった気がする。どうやって書くのだろう。
鞄に手を突っ込んでイルカのストラップを探す。背びれを掴んで引っ張り出し、ストラップの付いたスマホの電源を入れる。
カチッカチッカチッ
ついスマホを起動する時にホームボタンを連打してしまう。そんなことをしても、おねむな四角い物体はのんびりである。やっとのことで検索サイトを開き、たまづおいかにと入力する。
(これかな...)
検索候補の一番上に出てきた文字をタップしてみる。
玉津 老蟹 水墨画家
顔を世間に出さずに活動していた。1958年にデビューした後、結婚を経て1971年に電撃引退している。
そこから先は、彼の作品の紹介と経歴についてだったので、軽く読み飛ばす。
水墨画について少し勉強してみよう。そうすれば新妻ももっと心を開いてくれるかもしれない。そんなことを思い、足の向かう先を本屋に変えた。