まちぼうけ
ここに来てからどれくらいの時が経っただろうか。
私はここでずっと待っている。彼が来るのをずっと。
ここにやってくる人々は私を見ると必ず足を止める。そして口々に私を綺麗だと言い、感嘆の溜め息を漏らす。
毎日毎日、何百、ときには何千の人々がここにやってくる。私だけを見に繰り返し来る人もいる。
人々は飽きることなく私を眺め、私も飽きることなく彼を探す。
夜になると部屋の明かりが全て消え、非常灯だけが微かに部屋内を照らす。
そうするとガラスに私の顔が映る。
ガラスに映る私の姿は、なるほど確かに美しい。
私は三つの大きな戦争を乗り越えここへ来た。
ここへ来てから、私はたくさんの人が老いていくのを見た。
初めて出会った時はまだ幼く、父親の手をぎゅっと握りしめて来た女の子も、今ではその顔に幸せそうな皺を刻み、白くなった自分の髪の毛を自慢げに揺らしながら、あの頃の自分と同じ年ぐらいの孫を連れてくる。
いつも優しく私の世話をしてくれた若い青年職員も、今では立派なスーツに身を包み、あの頃の自分自身のように若くエネルギー溢れる職員たちを熱心に教育している。
私はたくさんの若い人が老い、私の前から去っていくというサイクルをここに来て何度も経験した。それはうれしくもあり、楽しくもあり、悲しくもあり、切なくもあった。
それだけの時が過ぎても、彼はまだ現れない。
――でも、大丈夫。私に時間は限りなくある。
私と彼が出会ったのは遥か昔のお話。
職人だった彼は私を心から大事にしてくれた。
彼は決して裕福ではなかったけれど、いつも幸せそうだった。おいしそうに紅茶を飲む人だった。無口で、とても人見知りをする人だったけれど、いつも穏やかに人と接するので、周りの人々からは慕われていた。
彼の仕事は忙しそうだったけれど、毎日とても楽しそうに働いていた。
彼の仕事ぶりは一部の人たちから十分に評価されていたが、彼はお金や地位や名声には興味がないようだった。
ただ、私と自分の仕事を愛していた。
私は働く彼を見ているだけで、幸せな気持ちになった。ずっと一緒にいられないのはお互いにわかっていたけれど、それでもずっと一緒にいられたらと夢見ていた。
一つ目の戦争が起きた。その頃には彼や彼の周りにいる人たちの仕事はとっくになくなっていて、毎日の食料を確保することでみんな精いっぱいだった。
彼は哀しそうな顔をしながら私の頬をなでた。
「僕はこれから人を殺しに行くんだ」
彼はそう言った。
「悲しいけれど、行かなくては。怖いけれど、戦わなければ。愛する君がいる、この国の為なのだから」
私の為ならば行かないで欲しい、と私は言った。彼には聞こえないことはわかっていたけれど、それでも私は何度も言った。
「僕は君のもとへ必ず帰ってくるよ。たとえ死んでしまったとしても。必ず君のもとへ」
――本当に?
「その時は、君にただいまと言うよ。必ず言うよ。だから、いつまでも待っていてくれ」
そう言って、彼は私を置いて行ってしまった。残酷な約束を残して。
戦争が終わっても、彼は帰ってこなかった。
そこから私は長い間、ずうっと一人で待ちぼうけ。
「――君はこの国へは初めて来たのかね?」
そう聞いた男は立派な口ひげを蓄え、茶色の皮のハットを被り、高級そうなスーツを着ている。太ってはいるが、品の良さそうな五十歳ほどの見た目の男だ。
その口ひげの男の隣には、三十歳はいかないであろう若い男がいた。
二人は国営美術館の長い廊下を歩いている。口ひげの男がこの国に来たばかりの若い男を観光に連れ出したのだ。美術館にはこの国自慢の美術品たちが、厳重なケースに入れられ、美しく飾られていた。
「はい、初めてです」
話しかけられた若い男は、口ひげの男の問いに微笑みながら応じる。
その若い男は童顔で端正な顔立ちをしており、学生と間違えられてもおかしくない。美しい金色の髪の毛は綺麗に整えられている。その蒼い瞳はまるで彼の深い優しさを表現しているかのようだった。
「栄転とは言え、仕事の為に異国の地で暮らすことになったのは不安だろう。困ったことがあったらいつでも上司になる私に言いなさい」
口ひげの男は励ますように彼の背中を強く叩いた。彼の有能ぶりを以前から人づてに聞いていた口ひげの男は、今日初めて実際に彼に会ったことでそれが事実なのだと確信していた。
いずれ自分の役職を継ぐにふさわしすぎる男だ、という嬉しさで口ひげの男の心は満ちていた。この男の面倒見と、人の良さは会社では有名だった。
「ありがとうございます」
若い男がはきはきとした態度でお礼を言うと、口ひげの男は改めて彼の顔をじっくり見ながら、満足そうに自慢のひげを撫でた。
そして口ひげの男は、初めて彼に会った時から自分が思っていたことを聞くことにした。
「ところで君の顔形を見たところ、この国のオリジナルの血が色濃く出ているようだが」
すると、彼の顔がぱっと明るくなった。
「はい、そうなのです。なのでこの国に訪れることは僕の夢だったのです。こんな形で叶うことになるとは思っていませんでしたが」
彼は嬉しそうに説明した。
「その血統は両親の意向かね?」
「いいえ。両親は人種血統にこだわる人たちではなかったので、僕は一族の遺伝子情報に残された血統の中からランダムに生まれたそうです」
それを聞いた口ひげの男は、嬉しそうに何度も彼の背中を叩いた。
「そうか。それは見上げたご両親だ。生まれる子どもの人種から肌の色まで選べるようになってから随分と経つが、昨今では君のご両親のような考えの方たちも少しずつ増えつつあるようだね」
「人種血統に優劣なかれ、という精神ですね。僕も両親の考えに賛成です」
「うむ、私も同感だ」
口ひげの男は力強く頷いた。
「――この人形は?」
ふと、彼はある人形の前で釘に刺されたように立ち止まった。
「ああ、これは遥か昔の人形師が作った『胡桃』という名のアンティーク・ドールだ。その人形師はものすごく腕が立つ職人だったそうだが、自分の作品をあまり売らないことでも有名だったらしい。そのせいで暮らしぶりはあまり良いとは言えなかったようだ」
口ひげの男は流暢にその人形の解説を始めた。
実は、彼はこの人形を若い男に見せる目的でこの美術館へ来たのだ。
「…なんて美しいんだ」
彼は一瞬にしてその人形に目と心を奪われた。それと同時にとてつもない懐かしさと愛しさが彼の心に押し寄せる。
しかし、それがなぜなのかわからない。
「うむ。人形師もこの人形に関しては特に思い入れが強かったようだ。まるで自分の恋人のように扱い、絶対に誰にも譲らなかったそうだよ。目がくらむような大金を積まれてもね。この人形は教科書にも載っているいくつかの激しい戦争を経験し、持ち主も何回か変わったらしい。しかし、なんといってもこの美しさだ。元の持ち主たちは皆大事に保管してきたのだろう。人形の状態の良さがそれを物語っている。その後、奇跡的にこの美術館に保護されたのだ。それから長い間、この国営美術館に展示されている。この美術館の主役と言っても過言ではないだろうね」
「まるで、生きているかのようだ」
若い男はゆっくりとため息を漏らすように呟いた。
「うむ。皆、この人形の前では必ず立ち止まり、その言葉を発するのだよ」
口ひげの男はまるで自分のことのように自慢げに笑う。
「僕は、この子に会ったことがある気がします。はるか昔に」
そうだ、と彼は確信する。僕はこの子を知っている。はるか昔から。それこそ、僕が生まれる前から。
――そしてこの子も、僕のことを知っている。いや、僕のことを待っていた。
彼はいつの間にか涙を流していた。
そんな彼のことを、その美しい人形は慈しむように見つめている。
そして、彼は、なぜかはわからないが言わなくてはならない気がした。この人に。この言葉を。
そもそも自分は、この言葉を言うために生まれてきたのかもしれない。
彼はその美しい人に向かって言った。
「――ただいま」
終
読んでくださってありがとうございます。
連作短編ですので、他のお話もぜひ読んでみてください。