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長靴をはいたおじさん(短編小説)

作者: n.kishi

 田中哲男、59歳。定年退職を3日後に控えた独身男である。地方の町から都会の有名大学へ進学。在学中は部活動など、特別何かに打ち込むことはなかった。しいてあげれば、好きなアイドルのレコードやポスター購入して、コンサートに行くこと。当時、国民的アイドルといわれた鈴鹿さえに、哲男は珍しく熱を上げた。ただ、コンサートでペンライトを大きく振り、「さえちゃ~ん!」と野太い声で応援する、同世代と思われる他の男たちに違和感を覚えた。哲男は彼らを冷ややかな目で見ている自分に気付き、鈴鹿さえから遠ざかった。冷めた男である。しかし、根が真面目な哲男は大学の授業にはきっちり出て、コツコツ単位を取得、4年生に進級する頃には卒業に必要な単位をほぼ取得していた。田舎の両親は哲男が一流大学を卒業して、一流企業に就職することを願っていた。哲男はそのことを十分承知している。両親は先祖から引き継いだ土地で、農業をしている。自分たちは地味に暮らしながらも、一人息子の哲男への仕送りを欠かさなかった。おかげで哲男はアルバイトをすることはなく、金銭的にはとても恵まれた学生生活を送ることができた。哲男はこんな両親に報いようと、親でも名前をよく知っているであろう都心に本社を構える大手メーカー5社の面接を受け、うち1社から早々に内定をもらい、就職することを決めた。内定をもらった夜、哲男は実家に電話して、報告した。電話口で両親がむせび泣くのが分かった。


 早いものであれから38年が過ぎ去り、あさって哲男は定年を迎える。平凡ながらも大過なく会社員生活を送ってきた哲男であるが、女性には縁がなかった。30歳を過ぎたころには田舎の両親からすすめられるまま見合いの席に何度か着いた。一流大学を卒業、勤務先は超一流、外見もわるくない、性格は温厚・・・と、哲男に大きな欠点は何一つ見つからない。昭和の時代、女性が結婚相手に望んだ3つの条件、3高(高学歴、高収入、高身長)を問題なくクリアしていた。ただ、哲男にはひとつ問題があった。覇気がなかった。いつも冷めている。その場の勢いに任せ、カラオケでネクタイをはちまきがわりに、はやりの歌を一曲なんて芸当、哲男には到底無理、想像すらできない。女性からすれば結婚する決め手に欠いたのであろう。哲男と話しても、明るい結婚生活を想像することはできなかった。


 40歳に近づいた頃、両親はあきらめたのか、見合い話を持ってくることはなくなった。その後、哲男には珍しく自ら進んで結婚相談所に出向き、何度か見合いを重ねた。両親の気持ちを察してのことである。親思いの息子である。しかし、努力するも成就することはなかった。そのうち結婚にも興味がなくなった。


 定年を前に、会社からは嘱託として残る道も示された。だが、ずっと地味に生きてきた独身男にはそれなりのたくわえがある。大手企業のこと、田舎で就職した同級生に比べれば退職金も年金もずっといい。残りの人生の時間を考えれば、これから先、無理をして宮仕えを続ける必要もない。


 哲男は私鉄の駅から数分のところにある2LDKの賃貸マンションで暮らしてきた。会社からは賃料の半分が補助された。単身者にはもったいない広さである。オフィスまでは私鉄から地下鉄に乗り継いで約1時間。この程度の通勤時間は都会では短いほうである。ある意味、恵まれた会社員生活であった。

通勤時の電車の事故で、やむなく遅刻することはあったが、長いサラリーマン生活の中で、自分の都合による遅刻は一度もない。自慢してもよさそうなことであるが、そんなことは誰も知らない。また、それを口にする哲男ではない。


 そんな哲男に会社員生活でひとつだけ心残りがある。大雨の日に長靴をはいて通勤しなかったことである。足首までを覆うようなコンパクトなサイズのおしゃれな雨靴ではなく、田舎の父が野良仕事ではいていた、膝まですっぽり収まるざっくりとした長靴である。田んぼで長靴をはくのは当たり前であるが、都心の通勤電車ではそうもいかない。どうしても人目が気になる。田舎から出てきた哲男は意識的に長靴を避けてきた。


 数年前の土曜日、病院に人を見舞う予定があった。当日は大雨になると予報が出ていたので、近所のホームセンターであらかじめ膝まである長靴を買っておいた。そのとき一度使ったきりで、その後一度も履いていない。長靴は物入れの奥深くにしまわれたままになっている。


 哲男のやり残したささやかな夢を実現する日が幸いにも退職3日前にやってきた。テレビでは、風雨の強い嵐のような天気になると予報していた。いつもであればびしょびしょに濡れるのを覚悟して、革靴で通勤したであろう。会社で履き替える靴下とタオルくらいは用意して。ただ、残り3日間のサラリーマン生活。きょうを逃せば2度とこんなチャンスは巡って来ない。物入れから長靴を引っ張り出し、寝る前、玄関にセットした。「あすは何が何でも、あの長靴で通勤する」。いつもクールな哲男であるが、ちょっと高揚している自分がおかしかった。


 なぜ哲男がそこまで長靴に執着するのか。雨が激しく降る日の通勤では、家を出て数百メートル歩いただけで、革靴がジトッとしてきて、オフィスの自分の席に着く頃には靴下までびっしょりになる。それに比べて、通勤途上で見かける小学生は黄や赤、ピンクと色とりどりの長靴を履いて、雨の中を実に楽しそうに歩いている。長靴であれば多少の水たまりも怖くない。むしろそこをねらってバシャバシャ歩く子もいる。心も足元も自由である。都心にある哲男の会社は最寄りの地下鉄の駅から地下でつながっている。100mほどだが地下街も歩く。女性がスリムでおしゃれな長靴をはき、背筋を伸ばしてさっそうと歩く姿はそれなりに格好いい。しかし、実家の父が田んぼで履くような膝までのざっくりとした長靴は都心のオフィス街には似合わない。そんな長靴をはいている男性を見かけることもない。哲男は人目を気にしてしまう自分がいやだった。父に申し訳ない。母親がよく話していた「出る杭は打たれる」を信条に、38年間、社内で自己を主張することはなかった。ただ与えられた仕事だけを淡々とそつなくこなしてきた。そんな性格が災いしたのか、出世にも縁がなかった。通勤時でさえ、よくもわるくも目立つ格好は避けてきた。そんな哲男もあと3日で会社とおさらばだ。もう怖いものは何もない。


 その日の朝がやってきた。予報どおり土砂降りの雨。家の玄関で、哲男はまず左足を、続いて右足を長靴に差し込み、膝のあたりのひもをグッと引っ張り、締め上げた。まさに、戦国武将が戦に出る前、兜の緒をしっかり締めるように。次の瞬間、ブルッと武者震いしたように感じた。夜半から激しく降り続き、道路には水たまりがたくさんできていたが、長靴ならへっちゃらである。むしろ水たまりを目指して、童心に帰りバシャバシャと前進した。電車に乗り込むと、雨の日特有のムッとした空気が車内に充満していた。さらに、乗客が醸し出す、雨の日特有のブルーな空気が混じり合い、なんとも重苦しい。濡れた足元も気持ち悪い。でもきょうの哲男は違った。ズボンのすそも、靴下もさっきはいてきたままの状態を保っている。おかげで靴の中だけでなく、心もすがすがしい。私鉄から地下鉄に乗り継ぎ、会社のある駅に到着した。駅を降りると、ビシッとしたスーツに身を包んだ、大勢のビジネスパースンが無表情でそれぞれのオフィスをめざして、足早に進んで行く。38年間、毎日目にしてきた光景である。そんな中、ズボンのすそを膝まである長靴に押し込んだ哲男の姿は、周囲から異色に映るかもしれない。でもいまの哲男にはそんなことはどうでもいい。地下街を少し歩き、会社のビルに入り、エントランスに身分証をかざしピッと鳴らして通過。38年間毎日やってきたルーチンである。自分のオフィスに入ってからも、周りの状況を哲男が気に留めることはない。長靴姿の哲男に多少人目が集まったかもしれないが、いまの哲男にそんなことはどうでもいい、関係ない。


 哲男はいつもと変わらず午前、そして午後とその日の仕事をこなした。退社時にはすっかり雨があがり、晴れ間も見えてきた。哲男はいつも就業時間中に与えられた仕事を終えるので、残業することはなく、定時に退社してきた。これも出世を阻んだ理由のひとつかもしれない。今となってはそんなこともどうでもいい。この日もいつもと同じ時刻に、長靴姿でオフィスを後にした。地下鉄、私鉄と乗り継ぎ、自宅の最寄り駅まで帰ってきた。ただ、あまりにも長靴が快適で、このまま家に帰るがもったいない。少し遠回りしよう。いつも子供たちの声でにぎやかな公園を横切ることにした。公園に入ると、大きな水たまりの中にドッジボールがプカプカと浮かび、その周りを7,8人の子どもが取り囲んでいる。夕方には雨がやんだので、朝、長靴だった子も運動靴に履き替え、長靴を履いている子どもは一人もいない。ボールを誰も取りに行けず困っていた。子どもたちが見守る中、哲男は水たまりの中をバシャバシャと勢いよく歩いて、ヒョイとボールをつかむと、子どもたちに向けて放り投げた。子どもたちは口々に「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げて礼を言った。その目はキラキラしている。哲男は昔、自分もあんな目をしていたことがあったと思い出した。父親はたまの休みの日に、隣町の百貨店で開かれるキャラクターショーに連れて行ってくれた。そのとき、自分もあんな目をしてヒーローを見つめていたっけ・・・と都合よく自分をヒーローになぞらえた。


 そんなことを考えながら家路につくと、定年後の生活が何だか楽しみになってきた。いまのところ何ひとつ予定はない。真っ白だ。家に入る前、西の空に目をやると、哲男の新たな門出を祝うように、くっきりと虹がかかっていた。


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