旅立ちの日に
昨日まで、暗い雲がすっぽりと空を覆い、時折冷たい雨を村に降らせていたのだが、今日は朝から良く晴れている。雲は遠く東の山の向こうに去り、頭上には青い空が広がっていた。
旅立ちにはちょうどいい日だった。
レヴィンは広場へと続く道を歩いていた。
山から下りてきた巨大なフェルモが村の家々を焼いたあのフェルモ払いの夜から数年、レヴィンはそれなりに逞しい青年に成長していた。
空を飛ぶ鳥の姿を見上げたりしながら、鼻歌交じりで歩いていたレヴィンは、広場の方からぞろぞろと帰ってくる村人たちの姿を認めて、目を丸くした。
「あれ」
その中に幼馴染のフローネの姿を見付けて、レヴィンは慌てて駆け寄る。
「フローネ」
「あっ、レヴィン」
フローネは咎めるようにレヴィンを睨んだ。
「あなた、今頃来たの」
おてんばな少女だったフローネも、美しく成長していた。もうレヴィンたちに混じって野山を駆け回っていた頃の面影はほとんど残っていない。西の山を越えた隣の村でもその美貌が噂になっているという。
けれど、レヴィンと話すときだけは、やはり昔のおてんばな彼女が顔を出す。
「もう行っちゃったわよ、こんな時間まで何やってたのよ」
「ええっ、行っちゃったのかい」
レヴィンは頭を掻いた。
「まだ時間があったから、少し裏の畑を見ておこうと思ったんだ。そうしたら、昨日の雨でシダレマメの支柱が折れていて」
「それを直してるうちに、見送りの時間を忘れちゃったのね」
フローネは腕を組んだ。
「あなたはいつもそう」
「ごめん」
「まだ間に合うわよ」
フローネは広場の方を振り返った。
「今さっき行ったばかりだから。走れば山に入る前に追いつけるわ」
「分かった」
レヴィンは頷いた。
「追いかけるよ。ありがとう、フローネ」
「あなたからもちゃんと伝えておいて」
フローネは言った。
「行くからには、一年やそこらで帰ってくるなって」
「大丈夫」
レヴィンは微笑む。
「きっと向こうで成功するよ」
「えぇ?」
駆け出していくレヴィンの背中を、フローネは心配混じりの呆れた顔で見送った。
「タリス」
レヴィンの声に、大きな荷物を担いだ大柄な青年が振り返る。
レヴィンよりも二歳年上の、タリスだった。あのフェルモ払いの夜から数年、もともと大きかった背丈はさらに伸び、がっしりとした大人の体格になっていた。
「なんだ、レヴィンかよ」
タリスは鼻息を吹いた。険の強いその顔は、少年の頃から変わらない。
「何か用か」
「見送りに来たんだ」
言いながら、レヴィンはタリスの隣に並ぶ。
「山の入り口まで送るよ」
「何でお前に送られなきゃならねえんだよ」
タリスは嫌そうな顔でそう言ったが、思い直したように、まあいいや、と呟く。
「お前が俺の隣を馴れ馴れしく歩けるのも、これが最後かもしれねえからな」
「えっ。ああ、そうか」
一瞬きょとんとしたレヴィンは、すぐに笑顔で頷いた。
「そうだね。あっという間に立派になっちゃうかもしれないからね。街でも頑張ってよ、タリス」
「かもしれない、じゃねえ。俺は立派になるんだ」
タリスは言った。
タリスは彼の兄の仕事にくっついて、隣村よりさらに向こうの大きな街に行ったとき、その体格を見込まれて街での働き口を見付けたのだった。
裕福な商人の屋敷での下男の仕事だったが、子どもの頃から乱暴者で通っていたタリスはここのところ、この小さな村での暮らしにすっかり退屈そうな様子を見せていたので、渡りに船の話だったようだ。
「最初は屋敷の下働きだが、真面目に働いてご主人の目に留まれば、商売の方にも関われるようになるってよ。お伴で西の都までだって行けるかもしれねえんだ」
タリスはそう言って得意げにレヴィンを見た。
「知ってるか、西の都だぞ」
「う、うん。名前だけは聞いたことあるよ」
レヴィンが頷くと、タリスは、へっ、と鼻で笑う。
「俺は、お前や村の連中が見たこともねえようなでかい街で、でかい仕事をする」
「うん」
「それで、お前らが見たこともねえようなきれいな女を捕まえるんだ」
「うん」
「あんな、フローネみたいな田舎くさい女じゃなくてな」
「フローネはきれいだよ」
「うるせえ」
タリスは胸を反らす。
「それに俺は年上の色っぽい女が好きなんだ。あんなちんちくりんはお呼びじゃねえ」
「フローネは、ちんちくりんなんかじゃないってば」
律儀にそう訂正した後で、レヴィンは、年上か、とまた頷く。
「エルザさんみたいな人だね」
「そこまで上じゃねえ」
母親くらいの年齢の女性の名前を挙げられて、タリスは顔をしかめる。
「もういいよ、お前に言った俺がばかだったぜ」
「ごめん」
「まあお前はこの小せえ村で、フェルモでも狩りながら小せえ幸せを掴むこったな」
「うん」
「俺は俺の器に見合ったでかい仕事をするからよ」
「うん」
山道への入り口が近付いていた。もうそこからは道が細くなり、並んで歩くことはできない。
タリスとの別れが近付いていた。
「もう村には帰ってこないのかい」
「さあな」
タリスは肩をすくめる。
「街で成功すりゃ、顔を見せに戻ってくるかもしれねえが」
「タリス、どうか元気で」
レヴィンは言った。
「身体には気を付けて」
「親みてえなことを言うな」
そう言った後で、タリスは含みのある表情でレヴィンを見た。
「お前こそ、しっかりとフローネを捕まえとかねえと他の奴にかっさらわれるぞ」
「えっ」
「この村にお似合いの田舎くせえ女だけどよ。その中じゃ一番だろうからな」
「さっきはちんちくりんって言ったのに」
「それはそれ、これはこれだろうが」
「頑張るよ」
レヴィンの返答に、タリスは、相変わらず頼りねえ野郎だ、と笑った。
「フローネだって、お前のことが好きなんだろ」
「それは分からないけど」
「ガキの頃から、お前らはいつも一緒だったじゃねえか」
「それはそうなんだけど」
「しっかりしろ、情けねえ」
タリスに乱暴に背中を叩かれて、レヴィンは一歩よろける。
「う、うん」
軽くむせながらレヴィンがそう答えたところで、タリスは足を止めた。
「もうここでいいよ」
山道の入り口は、もう目の前だった。
「見送り、ありがとよ」
「うん」
レヴィンも足を止める。
「元気でね、タリス」
「お前もな。まあ達者で暮らせや」
タリスはそう言って、歩き出した。だが、山道に足を踏み入れかけてから、思い出したようにレヴィンを振り返った。
「ああ、そうだ。どうせもうお前とは二度と会わねえだろうから、最後に言っとくか」
「え?」
レヴィンは目を瞬かせる。
「何をだい」
「昔、真夜中に、ばかでかいフェルモが村に飛び込んできたことがあっただろ」
「ああ、うん」
レヴィンは頷く。
「あったね」
数年前のフェルモ払いの夜。
闇の中で狂ったように飛び跳ねる巨虫。
燃える炎。フローネの涙で濡れた笑顔。
月の光のように輝いていた、剣。
レヴィンはその光景を今でもはっきりと覚えていた。
「あのとき、フローネのやつが高台に避難してくる途中で、一人で村の方に駆け戻っていってよ、それをお前が追いかけてったよな」
タリスは、苦い記憶を思い出すような顔で言った。
「フェルモがもうそこまで迫ってたのによ」
「夢中だったんだ」
レヴィンは苦笑する。
「自分でも分からないけど、身体が勝手に動いてた」
「俺はな」
タリスはレヴィンを睨んだ。
「お前みたいなやつに、あんな勇気があることが許せなかった」
「え?」
「あの日からずっと考えてたぜ。このままじゃ俺はお前に負けたまんまだ。お前よりも自分が上だってことを、どう証明すりゃいいんだってな」
「僕に負けたって」
レヴィンは戸惑って首を振る。
「そんなこと今まで一度も言ったことなかったじゃないか」
「誰が言うかよ、そんなだせえこと」
タリスはそう言うと、にやりと笑った。
「だけど、やっと見つかったぜ。待ってろ、そのうちにこの村にも俺の噂が届くからよ。こんな村にいるお前には想像もつかねえ、すげえ成功をした俺の噂が」
「分かった」
レヴィンは微笑んだ。
「楽しみにしてるよ、タリス」
タリスは、へっ、と笑って肩をすくめる。
「じゃあな」
身を翻して歩き出したタリスの大柄な身体は、じきに山道の木々の陰に隠れて見えなくなった。
「あ、レヴィン」
戻ってきたレヴィンを見て、広場の木陰に座っていたフローネが手を振った。
「どうだった? タリスに会えた?」
「うん。間に合ったよ」
レヴィンは笑顔で頷く。
「待っててくれたのかい」
「うん、まあ」
フローネは首を傾げる。
「タリスがあなたに何を言ったのか気になったのよ」
そう言って、少し心配そうにレヴィンの顔を見た。
「おかしなこと言われなかった?」
「おかしなことは、別に」
そう言いかけて、レヴィンは、ああ、と手を叩く。
「僕に負けたまんまじゃ嫌だって言ってたよ」
「はあ?」
フローネは顔をしかめた。
「タリスがそんなこと言うはずないじゃない」
「僕もそう思うんだけどね」
困ったように笑うレヴィンを見て、フローネは表情を緩めると、草で編んだ腕輪を差し出した。
「待ってる間に、久しぶりにこんなの作っちゃった」
「ああ、昔を思い出すよ。ありがとう」
そう言ってそれを受け取ったレヴィンは、フローネと並んで歩き出す。
「あとはね、僕にしっかりしろって言ってたな」
「お前が一番しっかりしろってのよ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
レヴィンは草の腕輪を腕に通そうとして、それから笑顔で首を振った。
「フローネ、この大きさじゃもう僕の腕には入らないよ」
「昔より大きめに作ったつもりだったのに」
フローネが目を丸くする。
「成長したのね、レヴィンも」
「そりゃあ僕だって、少しはね」
二人は顔を見合わせて笑った。