黒い岩山
そしてさらに四日。ベヒーモスの道は蛇行し、やがて巨大な岩山へと突き当たった。黒曜石のような岩山だった。
「ちっ、ここまでか。さすがにこの岩山がお目当ての祭壇ってことはないよな?」
「ええ、違うわね。そうなると、ここからはどうするの?」
「どうすんだスパラッシュ?」
「旦那ぁ……そんなもん奥を目指すに決まってやさぁ。ちっと、他に『通し』がねぇか探ってきやす。ベヒーモスに気ぃつけながら待っててくだせぇ。」
ここで道が途切れたということは、この岩山がベヒーモスの塒ということになる。そして歩いた距離から判断すると森の中心部はまだまだ先だろう。
「どうよロバート。匂うか?」
「ああ、匂うなぁ。おそらくだが、あの岩山の中腹あたりに入口でもあるんだろうぜ。どうにかベヒーモスに気付かれねぇうちにここを離れてぇもんだぜ。」
「やや遅いが……やるか……」
バーンズが指差したのは、やや泥濘んだ地べただった。
「仕方ないな。悪いがお嬢様、泥に塗れてもらうぜ?」
「ええ、仕方ないわね。」
匂いをごまかすためである。だがイザベルの芳醇な魔力に魔物が惹かれることを思えば、気休め程度の役にしか立たないだろう。それでもベヒーモスという強力な魔物とは遭遇しないに越したことはないのだ。
「もしかして連日の『浄化』は無駄だったのかしら?」
「いや、そうでもない。あれはあれで完全に匂いが消えてありがたい。だが今は匂いを消すってよりは周囲に馴染ませる必要があるからな。ここを切り抜けたらまた浄化を頼むわ。」
「ええ、任せてもらうわ。」
白く、シミ一つない肌。社交会に出れば誰もが振り向く美貌に、イザベルは嫌な顔ひとつ見せずに泥を塗りたくった。
そして分散して茂みへ身を隠し、スパラッシュの帰りを待つのだった。
およそ一時間後。
「旦那、見つけやしたぜ。たぶん本命でさぁ。祭壇ってんならそれに続く道ぐらいあるかと思やぁ……そのものズバリでしたぜ。」
「ここまでの道といい……祭壇への道といい、ツイてるな。お嬢様が一緒だからだろうな。」
「へっへっへ。違ぇねぇや。さあ、こんなやべぇ所に長居は無用でさぁ。さっさと行きやすぜ。こっちでさぁ。」
岩山を向かって左に折れた一行だったが……
「ちっ、やべぇぞ! どこかで魔物どもが争ってやがる! よりによってこんな時に……」
突如発せられた得体の知れない大声、揺れる樹木、飛び立つ鳥の群れ。
「急ぎやしょうぜ。ヤツが顔を出す前に。」
「残念ね。あそこ、見て。」
イザベルが指差した先で岩山が割れた。そこから見えるのは、まるで目のように光る何かだった……
山と見まごう巨躯。
黒光りする甲虫のような皮膚。
前に突き出た二本の牙。
鼻面からそそり立つ一本の角。
闇黒暴魔獣が現れた。
周囲からは鳥の鳴き声が聞こえなくなり、空気が粘り気を増す。虫の鳴き声すら聞こえなくなり、辺りを静寂が支配する。
あれだけ争っていた魔物は気配すらしなくなっていた。
「おいおい……なんてぇでかさだよ……」
何のことはない。岩山だと思っていたものがベヒーモスだったというだけの話だ。どうやらいい気分で眠っていたところを起こされて機嫌が悪いらしい。
起き上がったベヒーモス。
地面を捉える四本脚の先端には危なげな爪。
その大きな口は生木を噛み砕き……
その長大な尾は岩石を打ち砕くと云う……
全身真っ黒なのに眼だけは紅くギラギラと光っていた。
「二分よ。二分だけ時間を稼いで!」
灼炎大蜥蜴すら一瞬で凍らせるイザベルが二分も要する理由は……
「よっしゃ! やるしかねぇ! いくぞお前ら!」
「やれやれですぜ。」
「くそったれがぁ!」
「やるぞ……」
弾かれたように飛び出した四人。
神のごとき獣とも呼ばれ……黒犀、暴凶獅子、森大象、いずれにも近く、いずれをも超越していると云われるベヒーモス。
だがアラン達四人は臆することなく攻撃を仕掛け……あっさり尾によって振り払われた。
ベヒーモスの目は明らかにイザベルに向いている。当たり前だ。抜きん出た魔力を持っているのだから。ベヒーモスにしてみれば、起こされて機嫌が悪いところに思わぬ甘露を見つけて有頂天といったところだろう。
「ぐっふ……くそが……軽くシッポ振っただけでこれかよ。お嬢様よ、予定変更だぁ。これじゃあトドメの時間なんざ稼げねぇ。まずシッポをどうにかしてくれや……」
「分かったわ。それなら、もう二十秒でいいわ。どうにか頼むわね。」
「おう……! 今度こそやるぜ!」
「んじゃ、とりあえずあっしが。」
「バーンズ! 俺たちゃお嬢様の前だ!」
「おう……」
【リーブレ マイトレ ラソース シエレ】
スパラッシュは走り出した。人間なんてひと噛みでバラバラにされてしまう獣の口へと。
まずそうだがついでだから食ってやるか……ベヒーモスはそう言いたげに軽く口を開き、ざらついた舌を伸ばす。
「ほらよ!」
口の中に向けて何かを投げ込んだスパラッシュ。
「グオオオーーーー!」
【ブリリア ディエレナ ベントル シェイラ】
舌が引っ込む代わりに、鼻から吹き出された吐息によって飛ばされた。
「グォウッ!?」
「へっへっへ。凶鱗毒蛾の狂鱗粉を煉獄蝦蟇の粘毒で練り込んだもんだぁ! 死ねや!」
もちろんのことだが、人間なら数千人を殺せるほどの猛毒でもベヒーモスには通用しない。まずい獲物でも我慢して食べようとしたら想像以上にまずかった程度のものだろう。
【源空斬り裂き 吹き閉じる 因果の形 千々に乱れよ】
だが、時間を稼ぐことはできた。
「スパラッシュさんどいて!」
『風刃連斬』
イザベルから放たれたそれは風の刃だった。一撃で空を飛ぶコカトリスの命を奪うほどの威力。それが数十、数百と……
並の魔物であれば跡形もなく、肉片と化す威力である。
だが、無差別に放ったところでベヒーモスの外皮には全く通用しない。当然だ。イザベルとてそのぐらい分かっている。
だから……全ての刃を尾の付け根に集中させたのだ。必殺の威力を持つ風の刃を、間断なく一ヶ所に。
その結果……いかなる刃物をも通さないと思われたベヒーモスの外皮に傷が付き、瞬く間に、尾が断ち切れた。
「アラン! 今度こそ二分よ! 命がけで稼ぎなさい!」
「おうよ! お嬢様にここまでやってもらったんだぁ! 死ぬ気で二分稼いでやんぜ!」
憎々しげにイザベルに顔を向けるも、小虫が鬱陶しそうなベヒーモス。
『グオオオオオーーーーーー!』
ただの大声ではない。声に魔力を乗せて周囲を威圧する、いわゆる『魔声』を放った。
弱い者ならば聴いただけで命を奪われる凶悪な魔声だが、ここにそのような者はいない。四人は一切怯まずベヒーモスに肉薄するのだった。