侯爵令嬢イザベル
「この家から出ていけ! お前とはもう親でもなければ子でもない!」
ゼマティス侯爵家の当主アントニウスが激昂している。貴族たるもの領民の手本となるべく勉学に、武芸に、そして魔法の修練に励むべき……という確固たる信念を持つアントニウスが、である。
二女イザベルはもうすぐ十五歳。つまり成人が近い。それにもかかわらず、学校にも行かず毎日毎日遊び歩いてばかり。いくら二女だからといってもそれでは領民に示しがつかない、とアントニウスは考えていた。
そして、再三にわたり生活態度を改めるよう説教をしていたのだが……
イザベルの姿勢が変わることはなかった。
「分かったわ父上。今までお世話になりました。今日から平民イザベルとして生きていきます。母上にもよろしくお伝えください。」
「くっ! こんな時だけ物分かりがよいのか……さっさと出ていけぇーー!」
すっと踵をかえしてアントニウスの前から退出するイザベル。アントニウスはその背中を憎々しげに、わずかな寂しさを含んだ視線で睨んでいた。
「お嬢様! いったいどうするおつもりなんですか! 今ならまだ間に合います! どうか旦那様に謝罪を……」
「悪いわねマリー。私にだって目的があるの。こればっかりは譲れないわ。」
「お嬢様……『大森林』に入るおつもりですね?」
「そうよ。やっと目処がついたの。私はどうしても聴きたいの。『精霊の歌』を。そのためなら……何だってするわ。」
「そんな……所詮は庶民の噂じゃないですか……それなのに命をかけてまで大森林なんかに……」
「生きて帰ることができたら、マリーにだけは話してあげるわ。だからそれまで父上を頼むわね。」
「お嬢様……しかと承りました……いってらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております……どうかご無事で……」
「どちらにしても、ここには帰らないけど。じゃあねマリー。」
無言で頭を下げた後、屋敷の正門から出ていくイザベルを見送るメイドのマリー。イザベルの背中が見えなくなっても、まだしばらくその方向を見つめていた。
イザベルたちが暮らすこの国、ローランド王国は広い。だが、国土の大半はこの国の中央を陣取る『ダインクライ大森林』通称『大森林』に占拠されていた。
したがって領地が大森林に面する貴族はいずれもどうにかこの森を切り拓く野望を持っていた。しかし、現実は大森林の拡大を食い止めることだけで精一杯。それすらできずに森に飲まれた貴族領も珍しくない。
では『精霊の歌』とは?
時には庶民の噂となり、時には吟遊詩人の歌として歌われる。ある種の娯楽の類である。
『大森林の深奥 禁忌の祭壇
覚悟なきもの その身を焼き
資格ありさば 祝福を得る
しかるのち 精霊たちは歌い踊る
其の歌 聴きしものに告ぐ
汝が望みは 叶うだろう』
人跡未踏の領域を夢想するのは人類共通の宿痾ゆえか、定期的に流行する歌である。
「アラン、いるかしら?」
「おう。待ってたぜ。本気で行くんだな?」
イザベルが訪れた場所は、命知らずの荒くれ者を統率する組織『冒険同業者協同組合』。通称『ギルド』である。
「ええ、本気よ。大森林の中心、その祭壇を目指すわ。今さら怖気付いたなんて言わないわよね?」
「言うかよ。お嬢様こそ約束を忘れんなよ? 祭壇に到着できたら、結果がどうあれ……」
「分かっているわ。一晩あなたのものになる。この体、自由にしていいわ。」
アランはこのギルドにおいて、上から数えた方が早いほどの強者である。それだけに金に不自由はしていないし、かなりモテる。そんなアランだが数年前かなり歳下のイザベルに一目惚れして以来、いかなる女とも関係を持っていない。身分が違いすぎることもあり、言葉を交わせる機会すら年に一度もないのに。
そんなある日、イザベルから取り引きを持ちかけられたのだ。
大森林の中心にあるという祭壇へ行きたい。もし行けたら望みを叶える、と。
そしてアランの願いは一夜の逢瀬だった。アランとしては本心では妻になって欲しいのだが、いくらアランでもそれは無理だと分かっている。奴隷上がりのアランと侯爵令嬢のイザベルである。こうして言葉を交わせるだけでも平民にとっては望外の幸運なのだ。だからせめて、一晩の思い出を望むぐらいは許されるだろう。代償は命なのだから……
「よし。じゃあ出発は明日の早朝だ。二日もあれば大森林の外縁部にほど近いダニー村に着くだろ。」
「それで、他のメンバーは?」
「いねぇよ? 大森林の中心部を目指すっつったらどいつもこいつもケツまくりやがった。悪いな、この前金は返すわ。」
イザベルが体を張ってまで望みを叶えるのはアランのみ。どことなく憎からず思った結果なのかも知れない。他のメンバーに関しては選抜をアランに任せるべく過分な報酬を前渡ししていたのだ。
「がっかりね。ここの冒険者は命知らずで勇猛果敢って聞いていたけど。ただの臆病者の集まりだったとはね。」
やや声を荒げイザベルは言い放った。まるで周囲の者に聞かせるかのように。
すると案の定……
「あんだぁ? 何か俺らに文句でもあんのかよぉ? おお? 勘当されたお嬢様のくせによぉ!」
たちまちイザベルの周りを荒くれ者が取り囲んでしまった。そしてイザベルが勘当された話はもうすでに知られていた。おおかたアントニウスが触れを出したのだろう。仕事の早い男である。
「おいグレンゾ、この人に指一本でも触れたら殺すぞ?」
「うるせぇアラン! いくらあんたがついてるからってな! 足手まといの女連れで大森林なんぞ正気じゃねぇんだよ! 死にに行くようなもんだろうが!」
彼の言うことは正論だ。自分の身を守るだけでも精一杯の場所なのだろう。そこに、戦力にならないか弱い存在がいたら……
「あら? 何か勘違いしてないかしら?」
「あぁん!? なんだこらぁ!」
「アランから聞いてないのかしら? 今回の依頼に私の身辺警固は含まれてないわよ? アランへの依頼は私を祭壇まで連れていくための道案内、及び食事などを含む身の回りの世話ね。魔物から守ってもらうことじゃないわ。」
「だから言っただろうが……知ってんだろう? このお人は『魔道貴族』ゼマティス家のイザベル様だぞ? 俺らが束になっても勝てるかよ……」
魔道貴族とは?
「うっ、うるせぇ! じゃ、じゃあなんで冒険者なんか雇うんだぁ! 一人で行けばいいだろうが!」
「それができれば苦労しないわよ。私には道を読むこともできなければ野外で自炊もできない。雨露をしのぐこともできなければ戦い続けることもできない。だから助けを求めているの。勇敢なる冒険者にね? 報酬はすでに提示した通り。命を張るのに不足はない金額だったと思うけど?」
人跡未踏の地を往くのだ。道などあるはずがない。そこで頼りにするのは『通し』と呼ばれるもの。いわゆる獣道である。通しと方位を頼りに森を奥深くまで分け入るには経験豊富な冒険者の力が何より必要なのだ。
なお報酬に目が眩み、実力も弁えずに依頼を受けようとした者はアランにより弾かれた。
「くっ……アランの言うことだけじゃあ信じらんねぇな! 実力を見せろや! 知ってんだぞ! てめぇが勘当された原因を! 学校にも行かずふらふら遊び歩いてたからだってなぁ! いくらゼマティス家の血ぃ引くからって! そんなんで生き残れるほど大森林は甘くねぇんだよ!」
『風斬』
イザベルがぽつりと何かを呟くと、周りを囲む冒険者のベルトが一斉に切れた。
「言っとくが今の魔法が首に当たってりゃあお前ら死んでるからな?」
「これでどうかしら。ああそうそう。私が学校に全然行かない理由だけど、校長を含む全教師を合わせても私の方が強いからよ。納得したかしら?」
「あ、ああ……な、納得した……」
腰を抜かす面々の間からうす汚い小男が現れた。
「へっへっへ。こいつぁあっしらの負けでさぁ。ようがす。あっしぁ乗りやすぜ?」
うらぶれた顔をした小男のベルトは切れていなかった。
「スパラッシュ……助かるぜ。お前が来てくれりゃあ百人力だ。」
「これで二人。そして枠は残り二人。このままだとあの報酬を彼が独り占めすることになるわね。」
イザベルが用意した報酬は三人分。それがスパラッシュとやらの総取りになると言っている。
「ちっ、仕方ねぇな。えれぇ静かな発動だったくせに何てぇ鋭さだよ……面白そうだから付き合ってやんよ。」
「やれやれだ……」
「ロバート、バーンズ……まったく、来るのが遅ぇんだよ。よしお嬢様! これなら行けるぜ! スパラッシュは一流の斥候だ! こいつならどんな通しも見逃さねえ! そしてロバートとバーンズは攻撃力なら俺以上だ! やべぇ魔物が出てきた時は頼りになるぜ!」
「アランがそう言うなら異存はないわ。三人ともよろしく頼むわ。私はイザベル。家名を失くした、ただのイザベルよ。」
「へいっ、お噂はかねがね。スパラッシュでございやす!」
「ロバートだ。あんたの魔法に興味が湧いたんでな。せいぜい死なねぇようにすんだな。」
「バーンズだ……」
こうして冒険者四名と元侯爵令嬢一人の奇妙な五人組は世にも危険な大森林、その最奥を目指して命を預け合うこととなった。
今夜はこのまま打ち合わせを兼ねて軽く杯を酌み交わし、明日早朝の出発に備えることだろう。