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第一夜 デセール:「どこへでもドア」


 確かに。あなたは感心した。一見普通の羊皮紙、普通の文字なのだが、いざ読んでみると信じられないほどの量がある。今までの経験で、知識で、あるいは人間の持ち得るそれらで考えられること以上のことが起こったとき、どうすれば良いのだろう。仮にそれが自分の知覚できないところで、不可抗力的に働いていたら。三億年ボタンと呼ばれる思考実験のように、実は今の自分が知らないだけで、実際に起こった何かがあるかも知れない。そして、あなたがこれを人間の理屈で否定することを、世界五分前仮説が強力に邪魔をしているのだ。これに気づいたあなたは、知らず知らずのうちに自分が底のない穴に落ちていっているような不安感に襲われた。

 席を立ちかけて、ボウイに気づく。これが、最後だ。あなたの目の前に小さな金色の匙が置かれる。匙には植物と果実のような装飾と、柄の一番向こう側に小さな穴が開いていた。皿こそ今まで出てきていたが、カトラリーはこれが最初で最後だ。次に何が出てくるのだろうとドキドキとしたあなたを無視して、ボウイは扉の向こうへ帰っていった。あなたは頭を悩ませる。皿ばかりか、文字の書いてあるものさえ渡されていない。あるのはただ、ささやかな金のティースプーンのみである。だが、なんとなく、そうするべきだと知っていたかのように、あなたはスプーンを手に取り、小さな穴を覗き込んでいた。確かにさっきまでは何も無かったはずだが、穴の向こうのテーブルクロスに、文字が書いてあるのが見える。スプーンに写ったあなたの顔は歪んで、そして笑っていた。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

デセール:「どこへでもドア」




「先輩、どうしたんですか」


 エリに声をかけられて、立ちぼうけていた志帆はびくりと身体をこわばらせた。見たこともない志帆の姿にキョトンとしているエリの肩に、志帆はにこやかに軽く手を置いた。続け様に机の上の、部下に醜態を晒させることになった原因をエリに押し付ける。


「これ、テキトーに処理しといて。週末まででいいから」


それじゃあ、お先に。志帆はそう言って家路へと向かう。あれほど意味不明な事件など、志帆は今までで見たことも聞いたこともない。それが自分のところにやってくるとは、全く厄介だ。まぁ、おおかた、志帆のところへやってきたのも、まさしく志帆がエリにしたようにたらい回しだったのだろう。全く、無駄に頭を酷使したせいで余計に疲れてしまった。志帆は自分の中で一人、思いつく限りの悪態をつきながらも、電車に乗り込んだ。



 コツコツコツ。マンションの薄暗い廊下を志帆が一人歩く。自宅のドアの前に立ち、鍵を差し込む。志帆は本当はちっとも疲れてなどいない。いないのだが、癖でああ疲れた、などと考えていた。志帆の一日の愉しみはゆっくりと湯船に浸かることである。空腹は最高のスパイスと言われるように、疲労は最高の入浴剤である。湯の中に溶け出して、最高に心地好いひとときを過ごせるのだ。


 鍵を回して扉を開けた志帆は、半歩入ったところでぴたりと足を止めた。目の前は、暗い森である。しかし、その森が開けたところにスポットライトのように月光を浴びて不自然に光り輝いている水溜りが、違う、湯気と硫黄の香りで志帆はこれが温泉だと分かった。

 バタン。志帆はすぐさま扉をを閉め、目をパチクリとさせた。自分は気が狂ってしまったのだろうか。志帆は慌てて左右を見渡す。暗い廊下、そして少しの廊下と角の部屋。見知った志帆の住むマンションだ。志帆の頭の中にはドアの向こうの景色ではなく、例の事件があった。あの事件の狂気にあてられて、志帆はおかしくなってしまったに違いない。志帆は自分の右手を見た。深呼吸をして、思い切り平手打ちをする。これで、大丈夫なはずだ。志帆はいつも通りドアを開いた。


 ドアの向こうは、T字路だ。一人の大人が志帆に背中を向けて立っている。身体をくの字に曲げ、何やら顔を手で拭ったかと思えば、男は飛び込みのように落ちていった。見ると、マンホールの穴だ。志帆は思わずドアの向こうへ飛び出しそうになって、踏みとどまった。首だけドアの向こう側へやり、あたりを見回す。主婦のような人たちはいない。朝の匂いがする。そう思った志帆はハッとして、ドアを閉めた。完全にドアの向こうで起こっていることを現実のこととして認めそうになってしまった。断じてそんなはずはない、いや、そんなはずがあってはならないのだ。

 そうか、なるほど、これは夢だ。きっと電車の中で眠ってしまったのだろう。志帆はそう思うことにした。夢の中では痛みを感じないというやつ、あれはどうやら嘘のようだ。志帆の右頬はまだジンジンと痛む。しかし、明晰夢ならば、これを楽しまずしてどうする。このドアの向こうは、今、志帆の思い通りなのだ。まさしく全てが手に入る状況で一体何を望むべきか。はじめのように、最高の温泉に入ろうか。そうだ、それに超豪華な部屋とイケメンの執事も足そう。できればカニをたらふく食べたいし、そうなれば日本酒の熱燗は絶対マストだ。それから__。

 あれこれ全てを思いつく限りに考え、志帆はドアを開けた。ここは、志帆の望みが全て叶ったセカイ。まばゆい光の中へ歩き始めた志帆は、今度こそ完全にドアの向こう側へと入っていった。






 目を覚ますと、志帆の最寄り駅だ。大きなあくびをして、志帆は家路につく。

 コツコツコツ。今夜は月が綺麗だ。そう思いながら志帆はいつもの帰り道を歩いていた。道の向こうから、可愛らしいペンギンを散歩させている婦人が歩いてくる。すれ違いざまにお互い会釈をして、志帆は自然と頬が緩んだ。ペンギン、飼いたいなぁ。あと、カピバラと、手乗りのサル。そんなことを考えていたら、家についていた。門の前では鈴木が志帆の帰りを待っていた。


「お嬢様、本日もお疲れ様でした。ではお荷物をお預かりいたします」


鈴木、ご苦労様。志帆はそう告げ、少しばかり門から玄関まで歩く。鈴木が扉を開けると、優美なシャンデリアと三名ばかりのメイドが志帆を出迎える。普段と同じ、志帆の家である。


「お夕飯の支度ができております。本日はお嬢様の好物でございますよ」


鈴木にそう告げられ、志帆はニヤニヤしてしまう。志帆の好物ということは、カニと日本酒の熱燗と、ヌタサだ。

 席につくと、キオコたっぷりにグラグラと沸いたお湯と、生のカニ。蟹しゃぶだ。遅れて運ばれてきたのが熱燗とヌタサ。ヌタサがないと、はじまらない。志帆はヌタサを指でつまみ上げ、口に入れた。口の中でまったりと、まるでハンヨモのように濃厚で、それでいてヲッとなる。こんなに美味しいものはこの世に二つとない。ただ、こればかりでは飽きてしまうので、志帆はカニに手を伸ばした。生のカニの身をマミソルして、まずはそのまま。滋味深くもフノな味わいだ。志帆はそのまま熱燗を流し込む。まるでワチゼとリチパのように、相性が良い。志帆は夢中で食べ始めた。

 気づくとすっかりと平らげてしまっていた。次はベンイトだ。あのデォネが最高にソューコンヮなのだ。志帆はエントモョをコムコムさせて、オブクユへと向かった。志帆は、とても幸せそうだった。



おしながき

デセール

「どこへでもドア」

 フルコースもこれで最後です。今夜のお食事、楽しんでいただけましたでしょうか?デセールはいわゆるデザートのことですが、フランス語で片付けという意味があります。お肉やお魚などたくさん召し上がっていただいたので、胃もたれしないよう、最後に消化を助けるという意味合いを持つものでもございます。うんちくはさておき、少しだけ冷やしておいた、ヌタサをご用意しました。あまり深く考えず、感じるままに最後のひとときを楽しみください。


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