第一夜 ヴィアンド:「夜をかける」
あなたは、頭を捻った。答えの無い問い程、人を不愉快にさせるものはおそらくこの世には無いだろう。もう少し、慎重に味わっていれば、あるいは。ただの口直しと思って侮ったことを、あなたは後悔した。
ボウイがワゴンを押してくる。ワゴンからボウイがおろしたのは、黒くてゴツゴツとした、平べったい石。あなたはこれが皿だと理解するのに、少し時間がかかった。ボウイはその中央に真っ赤な紐でまとめられた巻物を置くと、黒い小瓶と羽ペンを取りだし、皿のフチにささやかな装飾を始めた。ものの数秒で装飾を終えると、曲線は虹色にきらめき出した。夜空にございます、ボウイはそう言って、紐をハサミで切った。羊皮紙の巻物を広げたあなたは、その平凡な大きさを訝しんだ。二つ目のメーンなのに、ずいぶんと量が少なくないだろうか。召し上がっていただければわかるかと。ボウイはあなたの考えを見透かしたように、一言告げて去っていった。
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ヴィアンド:「夜をかける」
コスモクロックの妖しくも美しい光が消え、立ち並ぶビルの窓からも次第に灯りが消える頃。ちょうど、ランドマークタワーの展望台から見える、小さな光のうちのどれかが百香の家だ。たった今、諸々の支度が終わったところだろうか。わずかな目印の電気が消えた。
百香は非常に優秀な企業戦士だ。若くして大きなプロジェクトのリーダーに抜擢され、これがうまくいけば三十前半でのマネジャーも夢ではない。しかしながら、有能ゆえの周囲からの絶大な期待はプレッシャーとして重くのしかかり、はたまた女性であるということが理由で不当な扱いを受けるなどは数えきれないほどある。百香の近頃の悩みはもっぱら不眠だ。人より多くの仕事をこなし、人より心体共に疲れを抱える百香の不眠は相当に深刻な問題である。実際、百香は今すぐ病院にかかるべき程の重体なのだが、当の本人に全くその気はないようだ。
百香は今日何回目かの寝返りをうった後、思い立ったようにスマートフォンを手にとった。百香はとっくに市販の睡眠薬やアロマの類は試している。それらがあまり効果がなかったので新たに、昼間のうちに入れておいたラジオのアプリを試そうというのだ。アプリを開いて興味のなさそうなチャンネルをテキトーに選んだ百香は、思いがけず小さなスピーカーに釘付けになった。リスナーの悩みをパーソナリティが解決するという平凡なコーナーで都合良く、不眠の話をしていたのだ。ボクちょっと聞いたことあるんですけど。そう言ってパーソナリティが面白おかしく語り始めたのは、都市伝説のなり損ないのような、荒唐無稽な話だった。真剣に聴いた自分を馬鹿馬鹿しく感じながらも、だが、下らない分よく寝られそうだという期待と共に百香は布団を深々と被った。
それからいくつか番組が終わって、百香は飛び起きた。全く眠れる気配がない。普段の百香なら、いや、常人なら絶対にあり得ないが、この時の百香は半病人である。狂いだした精神と深夜の勢いで、先程の犬も喰わないような出鱈目を熱心に再現し始めた。紙に青いペンで丸に囲まれた六芒星を書き、そこに身体の一部__百香の場合は肩に毛先が触れるくらいまで伸びた髪を数本__を載せる。紙の中央に手を置いて意味の分からない呪文を唱えた後、何時まで寝たいかを言い、また呪文。最後にこれを小さく折り畳み、枕を退けたその下で、皿か何かの上にでも置いて燃やせば終了だ。そうしたらその上に枕を被せていつも通り眠るだけ。ひどい花粉症の人間でも悪臭で顔をしかめるほどの胡散臭さだが、この奇妙なまじないのおかげか、百香はいつの間にか眠ってしまっていた。
百香が目を覚ます。こんなに気持ちの良い目覚めは一体いつぶりだろうか。身体はまだ少し疲れているが、いつもと比べればずいぶんマシだ。時計を確認すると七時を少し過ぎた頃。昨晩百香が望んだ通りの時間である。身体に残る少ない疲労感も吹き飛ぶほどに、百香の精神状態はすこぶる良い。朝食はトーストとベーコンエッグ、コーヒーと少しのミルクに、確か冷蔵庫にヨーグルトもあったはずだ。鼻歌まじりに朝食と支度を済ませた百香は、今にもスキップし始めそうな勢いで、家を出ていった。
百香が家に帰ってくる。今日はいつにも増してエネルギッシュに働いたから、朝の快調さの分だけよっぽど疲れた。けれども、百香には切り札がある。昨日の怪しげな儀式だ。百香は昔からこんなオカルトにハマったことなど一度もないのだが、ただ、昨夜の精神状態と今朝の気持ち良さもあり、半信半疑、いや、八割はあれを信じていた。軽く食事をし、風呂に入って歯を磨く。それから例の魔術こなして床についた百香は、やはりいつの間にか眠っていたのだった。
百香が目を覚ます。カーテンの隙間から漏れる朝日に心が洗われるようだ。夢さえ見ないほどにぐっすりと眠った百香は身体の疲れもすっかりとれ、むしろ力が湧いてくるような気さえする。すっかり正常になった百香は、自分の身に起こった摩訶不思議な現象を少し疑った。しかして、聡明な百香の頭脳を持ってして出た結論は、単なるプラセボではないかということだった。あれだけ大仰なものだから、弱った自分によく効いて、一度効果があったものだから、それ以降も効果があったのだろう。ならば、これが効果があるうちにルーティン化して今後も快適な生活を送ろうと、百香はほくそ笑むのだった。
あれから半年が経った。百香は、件の習慣を毎晩欠かさずやっている。夜を駆け抜けるように眠り、昼間を駆け抜けるように働いたおかげで今日、百香がリーダーを任されていたプロジェクトは大成功で終わり、出世街道を三段飛ばしで登り始めたところだ。メンバーとの打ち上げが終わり、ややふらつきつつも家に着いた百香。風呂やなんかは明日の自分に任せることにして、壁伝いにベッドへと直行する。酒が入っているので今すぐにでも寝られそうだが、それでも百香は日課を欠かさない。ここまでくると、もはや一種の宗教である。だとすれば教祖はあのパーソナリティだろうか。そんなことを考えながら、百香は眠りに落ちていた。
百香が目を覚ます。いつもの見慣れた、カウンター。奥にはいくつかの特殊なテーブルが立ち並び、床は一面鈍い赤の絨毯。少し暗めのここではどこからか、静かにジャズが流れてきていた。
「百香様、ようこそいらっしゃいませ」
そう百香に声をかけたのは、黒い山羊。もっと正確に言うと、縦縞の白シャツに紺のベスト。そして同じく紺の蝶ネクタイがトレードマークの大柄な男。その男の頭だけが黒い山羊という、恐ろしい出で立ちだ。
「本日はいかがいたしましょう」
白々しい。百香はそう思った。ここにきたということは、やることは一つしかないのだ。二メートルは超えるであろう巨軀を百香は下から睨めつけ、そうしてただ、ブラックジャック、とだけ言った。山羊はニヤリと少し黄色い歯を見せて笑い、カウンターの上のベルを鳴らす。するとウサギが一匹すっ飛んできて、百香の前に器用に二本足で立った。
「こっちだピョン」
見た目は普通の白ウサギだが、よく知るそれとは違い、目線の高さが百香の腰ほどもある。真っ裸、と言うのも変だが、裸の上に金の刺繍がされた真っ赤なベストと鈴付きの茶色い首輪だけしたウサギが、百香の前を四本足でぴょんぴょん跳ねて案内する。
扇形のテーブルにはすでに三人が座っていた。だが全員が新しく人が入ってきたことになど全く気付く素振りすらなく、じっとテーブルだけを見ている。さっきのウサギがテーブルの反対側に立ち、このゲームの準備は完了だ。各々が今回のゲームに賭けるチップをテーブルに置き、ウサギがカードを配り始めた。
ブラックジャックはトランプを使う、とてもシンプルなカードゲームである。ディーラーとプレイヤーの一対一の勝負であり、それぞれ二枚ずつのカードが配られる。プレイヤーは自身のカードの内容を確認し、そして一枚だけ公開されているディーラーのカードを見て、ヒットといってカードをさらに引くか、スタンドといって引かないかのどちらかを選択する。一度ヒットをすれば自身の札の合計が21を超えるかスタンドするまでは、何枚でも引いて良い。スタンドが終わればディーラーは裏向きだったもう一枚のカードをオープンし、この時、『合計が16以下であれば、16を超えるまでは引き続ける』という操作を行う。つまり、ディーラーの最終的な手としては、17,18,19,20,21,あるいは22以上のバーストの六種類しかないわけだ。
百香は自分の目の前のジャックと10を見つめた。ブラックジャックではジャックとクイーンとキングは10、エースは1か11の好きな方で数える、というルールがあるので百香の合計は20。対してウサギは9のカードが見えている。ウサギが21を出さない限り負けることはないので、百香は当然スタンドだ。他の三人がスタンドしたところで、ウサギが裏向きのカードをめくる。4だ。合計が13なのでウサギが引き続きカードをめくる。5だ。この時点でウサギの合計は18になり、百香の勝ちとなる。
ギャンブルは必ず胴元が勝つようにできている。それが分かっているので百香はここに来るまでギャンブルなどやったことがなかった。その百香がなぜ今こうしてブラックジャックをしているかというと、それはここのシステムにある。ここには__というのは山羊に聞いてもここは名前のない場所、としか答えてくれないからそう呼ぶしかないのだが__出入り口というものが存在しない。ここに入ってくる方法は様々で、百香の行った儀式もその一つだが、出る方法はたった一つしかない。それは唯一ギャンブルに勝つことでのみ手に入る、マナという仮想通貨を『脱出』という景品と交換しなければならないのだ。マナは勝つことでしか手に入らないので、賭けの元手は当然別のものになる。それは、『時間』だ。ここでは自分の残りの寿命を賭けて、皆ギャンブルしているのだ。
百香が10マナ目を受け取った時、一番右に座っていた男が悲鳴をあげた。おそらく全ての寿命を使い切ったのだろう。男は瞬く間に常闇色の炎で体を包まれ、金切り声をあげながらのたうち回った。百香はこうなった者をもう何度も見たことがあるが、それで炎が消えたり、断末魔が聞こえなくなったりしたことは一度もない。決まって、かつて人間だったものを、山羊がどこかへ引きずっていくだけである。
脱出を得るために必要なマナは10だが、他にも様々な景品が存在する。例えば『知恵』が5000で、『美貌』が7000、『二度とここへ来れなくなる』が20000で、『全て』が1000000だ。もっとも、脱出を交換する時に余ったマナは強制的に全て1マナを1日に変換して返されるため、マナを貯めておくことはできない。欲に目が眩むと、スロットやルーレットなど、大きく勝てるゲームに挑戦し、その寿命をすり減らす。そうして追い詰められたものがやってくるのがブラックジャックだ。ブラックジャックは地味だが、あまり大きく負けることがない。実際、百香も今日は12日分しか失っていないが、逆に言えば今やめると12日は丸々損だ。百香は初めてここに来た六ヶ月前からずっとブラックジャックをやっていたので、それほど寿命を失っていないが、それでももう、一年近くは失っているだろう。せめて取り返せるときに取り返しておきたい。百香は最低単位の1日のチップをテーブルに置いた。
百香の手は16。ここでヒットをするとバーストしてしまう可能性の方が高い。百香はスタンドして、ディーラーがバーストすることを祈った。ディーラーは5。十分にバーストする可能性はある。一枚めくる。3である。もう一枚めくる。8だ。今合計は16。次の一枚でバーストする可能性の方が高い。その確率、実に六十一パーセント。ゴクリ。百香の喉が音を立てた。
5だ。ウサギは合計21。これに勝てる手は存在しない。良くて引き分けである。百香はまた1日を失った。
かたり。百香は突然、どういうわけか10日分のチップをテーブルに置いた。賭けには、流れというものがある。分別のある向こうの百香には理解してもらえないだろうが、もう四千回以上はブラックジャックをやっている百香には、それがはっきりとわかっていた。確率的には、ギャンブルでは必ず胴元が勝つようになっている。だから個人が勝つためには流れを読んで、勝てそうな場面で大きく賭けるしかないのだ。
カードが配られる。百香の手はエースが二枚。百香はもう一度10日分のチップをテーブルに置いた。これはスプリットと言って、二枚のエースを二つに分けて、二つの手札で勝負できるというルールである。三十パーセントの確率で、10が来る。この大一番で、10さえ来れば、まず負けることはないのだ。まずは運命の一枚目。
息をつく暇もなく、ウサギがカードをめくる。8だ。スプリットの一つ目の合計は、19。これでも十分すぎるほど強い手だ。百香は無自覚に息を止めていたことに気づき、大きく息を吐いた。片方は19でスタンドすることにする。さあ、運命の二枚目。百香は思わず目をつぶってしまった。
ギャンブル中に目を瞑るなんてことはやるべきではないのだが、ここではイカサマなど絶対に起こらない。それは山羊がイカサマを一番嫌うからである。百香がここに来たこと自体、ほとんど騙されたようなものだ。しかしそれには全く知らんぷりで、イカサマだけに厳しいのだ。もしそれをすれば、それが人間だろうがウサギだろうが、さっきよりもずっとひどい目に遭う。あれだけは百香も未だに、そしておそらく一生、慣れることはない。
おそるおそる目を開く。強く目を閉じたせいで少し視界が霞む。ピントが合ったときそこにあったのは、クイーン。ということは二つ目のスプリットは21。百香は内心飛び跳ねそうになった。19と21。やはり百香はツイている。少なくとも、これで負けることはまず、あり得ない。
ウサギは10からのスタート。まず、裏向きの一枚目をめくる。これがエースだった場合、万が一が起こることになる。天にも祈るような気持ちで百香はうさぎの手元をじっと見つめた。カードを大きく横にスライドさせて、それをまたスライドさせて元の位置に戻しながら、ウサギは華麗にカードをめくった。10だ。ということは、合計20。百香は10マナを受け取り、10日を失った。つまり、プラスマイナスゼロだ。
百香は、またしても10日をテーブルの上へ置く。間違いなくツイている。百香はそう確信していた。さっきはたまたまウサギも手が強かったが、今度は大丈夫なはずだ。
百香の手は17。ヒットすれば七十パーセントはバーストする。バーストすれば、無条件で10日を失うことになるので、下手に引くことは出来ない。ちらりとディーラーを見ると、6。これはバーストしやすい手だ。百香はウサギがバーストすることを期待し、スタンドした。まずウサギが裏向きのカードをめくる。隣に座っている初老の男の荒い息遣いが聞こえてくる。おそらく彼も負けがこんでいるのだろう。
ジャック。これでウサギは16だ。ルール上、もう一枚引かなければならないし、引けば六十パーセント以上の確率でバーストする。つまり、百香が勝つ可能性の方が高い。なんなら、エースを引いて引き分けるとしても、七十パーセントは負けない。
ウサギはなんの感慨も無しに、山からカードを引いて見せた。4。合計20だ。百香の、負け。身体から血の気が引いていくのを感じる。百香はこの一瞬で10日を失った。もし百香がヒットしていれば、合計21だったのに。後悔先立たずとはまさにこのことだろう。百香はもう一度チップに手を伸ばしかけて、止めた。ツキを自ら捨ててしまった。今日はもう終わりだ。
カウンターまで戻ってくると、山羊はいつも通りニヤニヤと笑っていた。
「お楽しみいただけましたか?」
もう二度と戻って来たくない。今はただ、それだけだった。このままこれを続けていれば、寿命などすぐ尽きるだろう。もし、寿命が尽きたら__。百香は寒くもないのに、震えが止まらなくなった。やはり、どんなに無理をしてでも、一晩で20000マナを稼ぐ必要がある。そうしなければ、この終わらない地獄から抜け出すことができないからだ。ただ、20000マナを稼ぐためには、おそらく20000日を失う覚悟が必要である。
チップは席に備え付けてある袋に手を入れて念じれば必要な分だけ出てくるので、自分の寿命を数えることはできない。もし、残りの寿命が20000日なければ。百香はそのもしもを考えて、未だに実行できていないのだ。
「また、いらしてくださいね」
山羊が、憎たらしく微笑んでそう言った。百香は唾を吐きつけたい気持ちを抑えて、目を瞑るのだった。
百香が目を覚ます。今日もなんて良い日だろうか。しかし、ここのところ不自然なほど夢を見ない。それだけ百香がよく眠れているという証拠だろうか。やっぱり、あのおまじないは効果があるなぁ。百香はそう思いながらも、今日も元気いっぱいに職場へと向かっていった。
おしながき
ヴィアンド
「夜をかける」
さて、お待ちかねの本日二つ目のメーンのお時間です。フォン・ド・ヴォーやトマトをベースにキノコや野菜と一緒にお肉を煮込みました。鷹の爪も一緒に煮込んでおりますので、深い旨味の後にひりつくような辛さでしょう?喉元過ぎれば熱さを忘れる、と言いますか、辛さが引けば、必ずこれを味わいたくて、口に運んでしまいます。一度食べたらもう止められないというわけです。ところで、これはなんの肉かですって?さぁ、実は、私もシェフに聞かされていないのです。