第一夜 ポワソン:「サイバー・カノジョ」
あなたは、今座っている椅子の肘掛けに手を置こうとして、ふうとため息をつく。そのまま少し考えた後、行き場を失って宙に浮いていた手を膝の上に置いた。少しだけ冷えた身体を震わせたあなたは、次の料理のことを想像している。
ボウイが皿を運んできた。器としては全く意味をなさない、平たい皿。何も描かれていない、新品のキャンパスを思わせるそれの上に、真っ青なシーリングスタンプが施されている白い封筒。皿も封筒も白いので境界線がよく分からなくなって、あなたは首を前後左右に動かす。一見、地味なようでいて、広がる余白があなたの想像をかき立てる。早く中身が見たい。そう思った矢先、それでは準備させていただきます、とボウイが言った。ペーパーナイフを取り出し、慣れた手つきで封筒に切り込みを入れる。少し黄色っぽい便箋を取り出したボウイは、あなたの目の前の皿の上に、封筒、便箋、とハの字に少し重ねて置いた。
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ポワソン:「サイバー・カノジョ」
もしも、クールビューティーなメガネっ娘委員長が、親の再婚で突然妹になったら。もしも、ケモミミ褐色で、自称約千歳の幼女が経営するカフェがあったら。もしも、当たりの強いアンドロイド女上司が、恋人契約を突きつけてきたら。もしも、ちょっとドジで、ロシア出身で、食いしん坊で、超能力が使える巨乳の許嫁が、ヤンデレだったら。もしも、こんな滅茶苦茶を全部叶えてくれるゲームがあったら。それも、仮想現実空間で。
『クリエイト・ドリーム〜運命の彼女〜』、通称クリーム。それがこのゲームの名前だ。最新鋭の技術の粋を集めたこの作品では、頭にフルフェイスヘルメットのような装置をつけることでVRなどではなく、巨大なサーバー群に作られた電脳世界へ行くことができる。全ての男たちの夢を叶える、というキャッチコピーで発売されたクリーム。これは決して大袈裟などではなく、プレーヤーはこの電脳世界で、他種多様な設定を詰め込んだ自分だけの理想のカノジョを作って、そのカノジョと自由に過ごすことができる。さらに、そうして作ったカノジョをオンライン公開することで、他人の理想のカノジョを見て回って楽しむことも、自身の創り出したカノジョを他人に評価してもらって楽しむこともできる。
ケンイチは、いわゆるフツメンだ。いや、自分自身でなんとかそう言い訳しているだけで、実際には下の上といったくらいのルックスだ。恋愛は見た目が全てではないとは言うが、それが大きな部分を占めていることもまた、紛れもない事実である。さらに、これといって他人より優れたところもないケンイチは、昔から周りの人間と自身を比較しては自信を喪失し、リアルの恋愛に積極的になれなかった。そんなケンイチを救ってくれたのがクリームだ。カーテンを閉め切った、自分の部屋。ケンイチは今日もデバイスを頭につけてベッドに寝転がり、目を閉じる。別にこの時目を閉じる必要はないのだが、もう一つの世界に飛び込む前に目を閉じてしまうのは人間の性だろうか。無意識のうちにケンイチはいつもこうしていた。
目を開くと、そこは公園だった。理想の彼女、と聞くと耳障りが良いが、相当に細かい設定を用意し、AIに会話パターンを学習させ、3Dモデリングを作成する、という大変な作業をこなして初めてこれができる。仮想現実とはいえ人間を一人創るような所業はそんなに簡単ではないのだ。ケンイチはおもむろに公園を散策し始める。彼は所謂、見る専、と呼ばれるライトユーザーで、実際にカノジョを作って遊ぶことはなく、他人の作ったカノジョと遊ぶだけのプレーヤーである。自分の理想ではないと言っても、しかし、ケンイチにとってはリアルでは関わることのない女子。遊べるだけで十分満足だし、そもそも経験が無さすぎて理想というのもいまいち分からない。それに、他人の理想というのは、普段は覗くことのできない他人の頭の中をこっそり見ているようで、それもまた楽しみの一つだ。
公園を歩いて行くと日の当たるベンチでうたた寝をしている、美少女を発見する。二の腕あたりまで伸びたブロンドが、陽の光をうけてキラキラと輝いている。見る専はこのようにオンラインで公開されている女の子をこちらの世界で探して、気に入った子を選んで遊ぶ。ケンイチは気持ち良さそうに寝息を立てている彼女の横に腰掛けて、彼女と遊ぶために必要最低限の設定をこなしてから声をかけた。ひっ、と小さな可愛らしい悲鳴をあげた彼女が寝ぼけまなこでケンイチを見て、にっこりと笑った。
「あ、ケンちゃんだ〜。びっくりしたよ、もう〜」
なるほど、どうやらおっとりとした独特の雰囲気を持っている女の子なんだな、とケンイチは一人考える。少し話していくうちに彼女はケンイチの幼馴染で、同時に同じ学校に通うクラスメイトのJKだということが分かる。ケンイチはすでに成人している身なのだが、見る専はこれくらいの齟齬には慣れっこだ。むしろ、自分の暗い高校時代をやり直せると思うと、こんなに嬉しいことはない。どこ、行こうか。ケンイチは唐突に切り出す。このまま二人で話していてもいいのだが、イベントを積極的に起こしていくことでより有効的に彼女のことを知ることができる。
「うーん、そうだなぁ。そういえば、この公園の近くに最近できたカフェがあるらしいよ〜」
いいね、と言ってケンイチは立ち上がる。そのカフェなら、数えるともう三桁は行ったことがあるだろう。だが、毎回違うカノジョとなので、何回でも全く飽きる気がしない。案内してよ、そう言って彼女の少し後ろにつく。さっき、うっかり彼女の名前を確認しておくのを忘れていた。彼女の背中を見ながら、ウィンドウを表示する。シオリ。いい名前だ、ケンイチは頭の中でそう呟いて少し早歩きをし、彼女の横に並んだ。
二人用のこじんまりとした席につく。ケンイチはもう大体のメニューは頭に入っているので、楽しそうにメニュー表をめくるシオリを眺めていた。
「あれ、ケンイチ君はもう決まったの〜?」
ケンイチにじっと見られていることに気づいたシオリが恥ずかしそうにそう尋ねてきた。バグだ。うん、とシオリに返事しながらも、ケンイチは思った。ゲームとはいえ、ヒトを創ることは本当に大変なことだ。それをたった一人のプレーヤーがやるものだから、こういった少しのバグにも多少は目を瞑らねばならない。
女性の従業員を呼んで注文を伝える。彼女は注文を繰り返してから奥に下がっていき、別の女性の従業員とケンイチを見てなにやらひそひそと話している。どうやら彼女もケンイチに気があるようだ。つまり、彼女も元々この世界にいるモブではなく、誰かが創ったカノジョだということだ。少し地味だけど、今度彼女とデートしてみても良いな。そう思いながらぼーっとしていると、膨れっ面でケンイチを睨みつけているシオリに気づいた。
「さっきの店員さん、かわいかったね〜」
皮肉である。ケンイチはごめん、と謝る。シオリの方が可愛いよ、ケンイチはそう続けた。シオリは、えっ、と驚いたように声を上げ、恥ずかしそうに、だが嬉しそうに少し俯いた。シオリの真っ白な、まるで新品の消しゴムのように汚れの知らないことを思わせる白い頬が、少し赤らんだ。
「ありがとう」
シオリは顔を上げて、やはり満面の笑みだ。なんて幸せな時間だろう。ケンイチもシオリと同じように満面の笑みを浮かべた。
ナポリタン、それからメロンソーダといちごのパフェ。二人の頼んだものが届く。
「いただきます」
シオリは軽く手を合わせて、小さな声でそう言った。きっと育ちが良いんだろう。そんなところも魅力的だ。ケンイチはシオリを創ったプレーヤーに感謝した。これだからクリームは辞められない、とケンイチは思わず頬が緩む。けれども、こんなにシオリは魅力的なのに、ケンイチにはどうにも引っかかるものがあった。
「食べないの?冷めちゃうよ〜」
ぼーっとしていた。はっとしてフォークとスプーンを手に取る。ここの料理は美味しいんだよな、ケンイチはそう思いながらナポリタンを頬張る。クリームは芸が細かく、こちらの世界でもちゃんと味覚が再現されていて、料理を美味しく食べることができる。それだけではなく、ちゃんとお腹も膨れて、現実世界でご飯を食べる必要も無くなるのだ。こればかりはケンイチにも理由がよく分からないし、分からなくて、良いんだ。ケンイチはそう思っている。
「美味しそうに食べるね」
シオリが嬉しそうに言った。女性はご飯を気持ちよく食べる男が好きだと聞いたことがあるが、あれは本当なのだろうか。そんな疑問を抱きながらも、ケンイチはあることに気づく。シオリがパフェにほとんど手をつけていないのだ。どうしたの、とケンイチは問う。
「ダイエット中なんだ」
じゃあ、なぜカフェに。しかも、パフェを。ケンイチは矛盾するシオリに笑いが込み上げてくる。クスクスと笑いながらも、勿体無いよ、と言った。今日だけは大丈夫だよ、とも。
「そっか、そうだよね!」
シオリは免罪符を得て、嬉しそうにパフェを食べ始める。シオリが食べる姿は、見てるだけでもお腹が膨らむようだ。頬を押さえ、目をつぶりながら、小さく唸るシオリは世界で一番可愛いと言っても過言ではない。もしかしたら、こういう気持ちなのかもしれないな、とケンイチは自問に自答した。
食後、ホットコーヒーが出される。これがこのカフェでの、ケンイチのお決まりパターンだ。なんだか、周りのモブ達がさっきからこちらのことをちらちらと見ているようだ。確かに、シオリはそれだけ魅力的である。
「よく、そんなの飲めるね」
シオリは素直に感心したといった風で、ケンイチをまじまじと見つめる。ケンイチが砂糖もミルクも使わずに、ブラックのまま飲むからだろうか。お子様だな、ケンイチは笑った。シオリはムッとして口をへの字に曲げる。拗ねるシオリも可愛らしい。こんなに可愛らしい反応をされると、嗜虐心をくすぐられてしまう。お子様ランチも追加で頼もうか。ケンイチがそう言うと、シオリはますます不機嫌そうに、いーっと歯を見せた。しばらくケンイチのことを睨んだシオリは、唐突に心配そうな顔をして、少し下を向いた。それから、ケンイチに上目遣いでこう訊いた。
「オトナの方が、好き?」
なんと可愛らしいのだろう。ケンイチは高鳴る鼓動を感じていた。だが、それと同時に違和感を感じていた。どこかでこれを見たことがあるような。ケンイチはもう何百回とこのカフェにカノジョ達と来ているのだから、そんなこともあるだろう、と違和感を振り払う。本当にシオリは可愛い、ケンイチはそう思った。そう思っているはずだ。いや、思っているべきだ。ケンイチはシオリの頭を撫でようと手を伸ばした。が、コーヒーにぶつかって倒してしまった。こぼれたコーヒーがシオリにかかってしまう。目が霞む。ケンイチはギュッと瞼を閉じた。頭も痛い。長時間ゲームをやりすぎたか。仮想現実とはいえ、脳はしっかりと疲れるのだ。そろそろ終わりにするか、そう思ってケンイチは目を開けた。
ケンイチの目の前に燻んだ金髪の黒ギャルがいる。シオリだ。シオリとは幼馴染で、同じ高校で、高校に入ってからはギャルになったけど、俺の前では昔の素直なシオリのままなんだ。シオリは世界で一番可愛いな。そう言いながら、ケンイチはシオリの頭を撫でた。嬉しそうに、シオリがグニャリと笑った。
男が、カフェに入ってくる。最近、よく来る常連客だ。彼はいつも、コーヒーとジュース、食事とパフェを注文する。そうして、それらをみんな一人で食べながら、何やら独り言を話すのだ。店の女の子達はみんな彼のことを気味悪がっているし、他のお客様にも迷惑だ。やりたくはなかったが、仕方ない、出入り禁止にしよう。今日は最後だ、最後だから少しだけは見逃そう。二人掛けの席の向かい側に、金色の紐がついている真っ白な栞を置いて、彼が独り言を言い始めた。
「うん」
「ごめん」
「シオリの方が可愛いよ」
「どうしたの」
「勿体無いよ」
「今日だけは大丈夫だよ」
「お子様だな」
「お子様ランチも追加で頼もうか」
「シオリは世界で一番可愛いな」
おしながき
ポワソン
「サイバー・カノジョ」
本日のメーンの一つ、鯛のムニエルでございます。ムニエルはとてもシンプルな料理。ごまかしが効かないのに、今まで知っていたどの鯛料理も過去のものになってしまうほどの、全く新しい鯛と出会えます。クリーム仕立のソースとご一緒にお楽しみくださいませ。ただし、あまりの美味しさに狂ってしまわぬよう、お気を付けて。