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第一夜 オードブル:「穴」


 今日は華の金曜日。賑わうトーキョーの路地裏の路地裏。リストランテ=ビザールはそこにひっそり店を構える。ここでは世にも珍しい、小説料理のフルコースが味わえる。

 大都会では珍しく、シャッターの降りた真っ暗な一本道。その先でうっすら漏れるオレンジの光に誘われて、あなたは偶然、この店の前に立っている。時計を見ると、九時を少し過ぎたあたりだ。ふわふわとした不思議な心持ちで扉を開くと、お待ちしておりました、と声がかかる。入り口でたった一人のボウイに荷物を預けると、その先のこじんまりとした四隅のない部屋に通される。仄暗い橙色の明かりの下に、丸い机と丸い椅子ワンセット。ボウイといい、この机と椅子いい、まるでこの店はあなた一人のためだけにあるようだ。入り口のすぐ横のドアが開き、ボウイが皿に乗った一冊の本を運んでくる。インテリアとして飾れるくらい優美な皿の上に、少しの金の装飾が施された本。重厚なその見た目とは裏腹に、頁をパラパラめくると数えるほどしかない。再び閉じると確かに分厚いはずなのだが、この店ではこれらの不可思議を楽しむ方が良さそうだ。溢れる好奇心のままに、あなたは本を読み始めた。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

オードブル:「穴」




 電子音。電子音。電子音。電子音。ああ、仕事の支度をしなくては。

 アラームを止め、カーテンを開く。まばゆい光に目を閉じて、二,三歩の後退り、大きな伸び。大欠伸に寝ぼけた頭で枕元のスマートフォンを見ると、時刻は七時二十五分。急げば十分前には着くはずだ。

 朝食など無視して、男は慌ただしく準備を始める。ヒゲを剃って髪のセット。存外時間がかかるのは、スーツや靴の方である。時刻は七時四十五分。

 予定通りに家を出て、早足で駅へ向かう。最近買った二万五千円のワイヤレスイヤホンは男の通勤には欠かせない。良き青春時代のバンド仲間を思い出しながら、五年は昔の流行りのナンバーで仕事前の憂鬱をかき消すためだ。今日は気分が変わったために、スマートフォンを取り出して、別のアルバムに編集してあるさらに昔のナンバーを再生する。

 もう三年以上はこの道を使っているので、ながらスマホをしながらでもちゃんと駅まで辿り着ける。そんな慢心と必然と不幸のせいで、男は角を曲がってすぐのところのぽっかりと空いたマンホールの穴に、ものの見事に落ちたのだった。


 一体何が起こったのだろう。全く無意識のうちの出来事だったので、困惑と不安で男の頭は埋め尽くされる。

 とにかく、俺は落下した。それで、それで、イヤホンが壊れちまった。畜生、最悪だ。こいつは二万五千円もしたんだぞ、スーツだって汚れただろうし、ああそうだ、会社になんて言い訳すれば。

 ああもう、さっきから五月蝿いな。イヤホンからずっとデカイ音がビービーなってやがる。ああ、もう本当にどうしたら。そんなことを考えながらも、男はとにもかくにも上体を起こした。




 電子音。電子音。電子音。電子音。電子音。電子音。電子音。電子音。おい、これは一体どういうことだ。

 男が上体を起こすと、そこは見覚えのある自分の家のベッドの上だ。急いでスマートフォンを見ると、時刻は七時二十五分。

 なんだ、夢か。男は心から安堵した。落ちる夢なんて、月並みな悪夢だ。おおかた、昨晩飲んだビールせいで目覚めが良くなかったんだろう。仕事のストレス発散とはいえ、酒は控えるべきだな、いや、どうせまた今晩も。男はそんなことを考えながら、夢と同じように慌ただしく準備する。

 家を出て、時刻は七時四十五分。しかし、妙にリアルで嫌な夢だった、と男は心の中で呟いた。どうにもイヤホンを取り出す気分になれず、今日は久しぶりに音楽なしでの通勤だ。

 角を曲がって、ギョッとして足を止める。無い。マンホールの蓋が無いのだ。何故蓋が無いのかという至極当然の疑問より先に、男は得体の知れない気味の悪さを覚えた。

 だから夢で落ちたのか、などと混乱した頭で悠長に答え合わせをした刹那、男の頭の中に正夢、という二文字が浮かぶ。嫌な予感で振り返ると、猛スピードで角を曲がった自転車が男に迫ってきていた。反射的に身を翻した男は、皮肉にも予想通りに足を踏み外して、穴へと吸い込まれていった。



 電子音。電子音。男は飛び起きた。えもいわれぬ味わったことのない恐怖に、男はただひたすらに怯えた。どれ程の時間、蹲っていただろう。男には気の遠くなるほどの時間が流れたように思えた。

 電子音。電子音。電子音。スヌーズだ。恐る恐るスマートフォンを見る。時刻は七時三十分。スヌーズは五分で設定しているはずだから__。結論を出しかけて、男は自分の頬を殴った。いや、いや、いいや、あり得ない。そんなわけがない、夢に違いない。震える手で身支度をし、男は家を出る。時刻は八時ちょうど。

 今日は半休をもらおう、男はそう考えながらおそるおそる歩く。例のT字路に近づくにつれ、手はじわじわと嫌な汗をかき、膝はふるふると震え出した。しかし、男は確かめねばならない。愚かな自分の、非科学的な結論を、しっかりと否定するために。

 来た、あの角だ。男は角から半身だけ乗り出した。ああ、穴だ。神様、仏様。男は信じてもいない、寧ろいつもは小馬鹿にしてさえいる、神や仏に祈り出した。『タイムトラベルは理論上は可能かもしれないが、現実には決して起こり得ない』、か。どうやら、サイエンスなんてものは嘘っぱちらしい。

 男は半狂乱で振り返り、遠回りして駅を目指すことにした。ああ、なんでこんな目に。全く理解が追いつかない上に、半休を浪費したし、高価なイヤホンも壊しかけた__。

 男は大きく目を見開き、左のポケットを叩いた。ある、いつもの癖でちゃんと持ってきている。急いでイヤホンを取り出し、耳につける。聴こえる。音が、音楽が聴こえるのだ。男は天に向かって感謝した。そうしておもむろに踵を返すと、角を曲がって穴に自ら飛び込んだ。



 電子音。男はアラームを素早く切ると、ゆったりと、かつ、にやにや笑いながら起き上がる。何を怯えることがあるのか。一日を何度でもやり直せるなら、半休だって使わずに済むし、なんなら金を好きなだけ使って楽しんでまたリセットすればいいんだ。男は急に可笑しくなって大声で笑い始めた。

 電子音。電子音。電子音。スヌーズか。どれどれ、今は七時三十分、と。


 なんだと、おかしい。どういうことだ。デジタル時計は八時を表示していた。二十五分、二十五分、八時。男は宙を睨んで、ああでもない、こうでもないとしばらく考えた後、ベッドにもたれかかった。時間は戻ってるけど、やっぱり半休は必要じゃないか。そんなことを考えながら、ぼーっとテレビをつける。男の定番の現実逃避だ。時刻は八時三十分。

 男は、はっとして飛び上がる。まさか、まさかな。いても立ってもいられなくなって家を飛び出す。まさか、いやまさか。肩で息をしながら、穴の前につく。道端で話し込んでいた女達が男を怪しんでこそこそと話し始める。だが、そんなことはどうでもいい。家から唯一手に握りしめてきた、スマートフォンで時刻を見る。八時三十五分。男は穴に飛び降りた。



 悲鳴と電子音が重なって聞こえる。男は跳ね起きる。時刻は八時五分。

 三十分だ。男は呟いた。そうしてなにやらぶつぶつ独り言を言いながら考え始めた。一度目と二度目は七時五十五分だったんだ。確かに、家から穴まで歩けば十分くらいだろう。つまり、俺は三十分だけ過去に戻れるようになったんだ。だから、いくらでも過去に行けるぞ。ちょっと大変だが、繰り返せば。

 男は立ち上がって、さらに続ける。どうしよう、いつがいいだろう。やっぱり、大学生活か。それとも就活まで戻ってクソ会社以外に就職するか。戻りすぎるともう一度やるのが面倒だな。大学受験はもう二度とできる気がしないし、やっぱり大学入学直後まで戻るか。うん、そうしよう。男は今度はなにも持たずに家を出た。



 電子音。


 電子音。


 でんしお。


 でんしお。


 でんし。男はアラームを止める。時刻は六時三十分。一度もこれで起きたことはないが、どうせ一回じゃ起きられやしないので設定してあるアラーム。でも、これも今日からはいらないな。

 男は、家を出る。角を曲がって、本日、もう何度目かの目的地につく。


 あれ、なんでだ。無い、どこにも無い。穴が、無くなっていた。正確に言えば、マンホールの蓋がきちんとしまっていたのだ。誰が閉めたんだ全く。男はため息をついて、蓋に手をかけた。溝が小さく、指がうまくはまらない。それに、とても重い。な、んだよ、重いな、余計、な事を、しやがって。男はやっとの思いで蓋を開け、そうして簡単には閉められないように少し遠くの茂みに蓋を捨ててきた。

 やれやれ、十分はロスしたな。いつものように穴を覗くと、底なんてどこにも存在しないと思わせるほどの、漆黒。これに一度だけでなく、何度も自ら飛び込んでいる男は完全に感覚が麻痺してしまっていた。身体をくの字に曲げ、準備をする。もう足からではなにも面白くないので、二回ほど前から、頭を下にしてスリルを楽しむことにしているのだ。

 死の瞬間は脳から幸福物質が大量に分泌され、最高に気持ちが良いらしい。何度も穴に飛び降りて死に近い体験をした男は、これが本当だと確信していた。だからこそ、さらにリスクを求めているのだ。そうして男は、垂れるよだれを拭ってから、死の快感へとダイブした。



 時刻は、十時十五分。志帆は一昨日の事件の書類を整理していた。ほぼ間違いなく、被害者の男は自殺である。現場から少し離れた茂みから発見されたマンホールの蓋には男の指紋だけがべったりついていたし、現場では男が下水道に飛び降りるところを数名の女性が目撃している。だが、この事件の最大の謎は、飛び降りたとされる時間の二時間前には男はすでに死亡していたと思われること、そして、目撃者の事情聴取では足から飛び降りたという男が首の骨を折って即死していることである。死後硬直から考えて、鑑識が間違っているとも思えないし、男となんの面識もないただの主婦達が嘘をつくとも思えない。

 難攻不落の書類を睨んでいる時間は、血税をまさに、マンホールの下のドブに捨てているのと同じじゃないか。志帆は自らを嘲笑した。もう、やめだ。よく分からないものはとりあえず、部下にでも放り投げておけばいい。志帆は席を立って、伸びをした。

 しかしまだ、個人的な興味としての疑問は尽きない。志帆は立ったまま、呆然と考えた。そもそも、なぜマンホールの蓋を隠す必要があったのだろう。死体に気づいて欲しかったのだろうか。だったら、首吊りでも飛び降りでもいいはずだ。マンホールに個人的な恨みがあったのだろうか。いや、男の身元は分かっているし、マンホールとの接点は、今のところ何もない。そしてそれはきっとこれからもそうだ。では、男は何か勘違いしていたのだろうか。だがしかし、志帆にはその正体は分からずに、無情に時間は流れるのだった。



おしながき

オードブル

「穴」

 フルコースといえばまず初めにオードブル。我が店自慢の新鮮野菜にチキンと茹で卵をのせて、旨味たっぷりのジュレドレッシングで召し上がれ。お客様のお好みでドレッシングはお足しします。ですが、いくら美味しいからと言っても、欲張りすぎると塩辛くて食べられませんよ。時間を忘れる美味しさですが、食べ終わるとあら不思議、全然時間が経ってないんです。


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