違い
「なんで私、返さなかったんだろ」
ネイトと名乗った青年に、彼の持ち物である銀色の装飾物、ドッグタグというらしいそれを返して関係を清算するどころか、逆に彼に協力する事を受け入れてしまった。
思惑と言動が全く正反対の自分が不可解でむしゃくしゃしたヒナは、村へ戻る途中頭の中を整理したくて背の高い木の上でしゃがみこんでいた。
「っ、あいつ、島の外に帰るつもりなら、それを手伝っても、おかしくはない、筈」
ネイトという青年に協力する事を正当化するように呟いて、それから彼がいるであろう洞穴のある方に改めて目を向ける。
(あいつは、余所者。あいつのせいで、おかしくなった)
ヒナが今まで生きてきた中で、島の外の人間と関わった経験はない。
なのでネイトという来訪者の存在は彼女を混乱させ、ロア族の生活に異変が起きてしまうのを恐れて彼に島から出ていくように促したのだが、しかし胸の中で渦巻く感情には不思議と嫌悪感のようなものはなかった。
(……こんなに、思いつきで行動したの、久しぶりかもね)
朝起きて、狩りに出かけて、食べて寝る。何年も繰り返してきた生活にネイトという人間によって変化が起きた。予期せぬ出会い、予期せぬ衝突、そして初めて耳にした外の世界の人間の言葉、そのどれもがヒナにとっては新鮮で刺激的な出来事で、動揺とは別の熱い感情が確かに、彼女の心中に生まれていた。
「何か、変。早く、元に戻さないと」
不安以外の感情に気付かないふりをして、ヒナは言い聞かせるように小さく呟き、木の上から飛び降りるとロアの民の住まう村に向かって走り出した。
ネイトという余所者を島の外に出す、彼のためではなくあくまでもロアの民のために、ハウロア様の島から異物を追い出すために。
ヒナは初めて抱いたおかしな感情を押し殺すように、岩や木の根で凸凹の地面を蹴って猛然と村目指して疾駆していった。
晴れ渡る青空の広がるその日、ネイトは数日前に思いついた脱出方法を実践するために洞穴の近くの砂浜にやってきていた。
「うおっし、形にはなったな!」
滝のような汗を流しながら笑顔で威勢よく声を発した彼の目の前には、丸太と紐状の植物で造られた、人一人が乗れる位の大きさの長方形のイカダが置かれていた。
いや、正確にはネイトが何日もかけて、近くの森から細い木を伐採したり植物のツタなどを拝借したものを使って造り上げたもので、慣れない作業に苦戦しつつも先程ようやく完成したのであった。
早速進水式だと息巻いたネイトは、簡素なイカダを海辺まで押していき、ゆっくりと海面へ滑らせるようにして浮かべてみせた。
「おぉ、浮いた! すげぇ!」
イカダを使って脱出する、その方法が早くも実行に移せそうだと希望が見えた気がしたネイトは、逸る気持ちを抑えきれずにその上に乗ろうと片足を置いた。
「あれ、あれっ、思ったよりバランスが悪……ちょっ、待っ!」
当然ながら重い人間が乗る事でイカダは一気に傾き始め、浮力が耐え切れなかったのかあっという間に海中に向けて沈み始めてしまった。
続けて丸太同士を繋いでいたツルが綻んだようで、一度始まった崩壊は止める事が出来ずにバラバラとイカダは姿を失って無惨な姿となった。ネイトも頭から突っ込むようにして常夏の澄んだ海の中へと豪快に落水してしまった。
「おっぶっ……ぶはっ! くっそ、全然ダメじゃねぇか! あーあー」
そう上手くいくとは思っていなかったものの、何日も費やして完成させたものが一瞬にして壊れてしまうのは精神的にかなりのダメージを受けるものだ。
海水に濡れて体が冷やされた事で急にテンションがガタ落ちしたネイトは、これまでの苦労が水の泡に消えた事へのショックからしばらくの間情けない顔で海の中で上半身を出したまま呆然と突っ立って動こうとしなかった。
「おい、何を、している」
そこに飛んできた誰かの声に、ネイトはハッとして砂浜の方に顔を向ける。
「あぁ、ヒナか。ご覧の通り、処女航海に失敗したんだよ」
「しょじょ……? イカダでも作って、脱出する気、だったか?」
「それが出来るか確かめようとして、このザマって訳だ。やれやれ……」
海面に漂う丸太や蔦を掻き集めながら砂浜に戻ると、びしょ濡れになった体に服が張り付く気持ち悪さが島に流れ着いた日以来に蘇ってきて、不快さでネイトの顔が歪む。
「あー、またベットベトになっちまうなぁ」
「人を乗せて浮く、簡単じゃない。何度も言った」
「いや、あんたの忠告を無視したつもりはねぇんだけどな……」
イカダ造りに費やしたこの数日、ヒナはほぼ毎日狩りの途中にこの場所に立ち寄って、作業の進捗具合を覗きに来ていた。
ネイトを島から追い出すのが目的な以上、放任する訳にもいかないと毎回現れては材料の選定や組み立て方に文句をつけてきたのだが、大工の経験などないネイトがまともなイカダの形に仕上げられたのも彼女のアドバイスがあった故なのでありがたかった。
ヒナは航海失敗を予想していたようで、特に驚きもせず呆れた表情でネイトとイカダだった材料を交互に見回し、
「せめて、二回りは大きいもの、作れ。適当に作って、木々を粗末にする、許されない」
「って言ってもなぁ、手製の斧じゃ一本木を切るだけでも大変なんだぞ?」
「言っている場合、違う。このままじゃ、お前、いつまでも、出られない」
「あー分かったよ! やりますから、ちょっと休ませてくれ。結構堪えてんだか……」
言葉の途中で深い溜め息をつきながら、ネイトは丸太の一つに腰を下ろして体を休める。
「……あんたは今日も元気そうだな、狩りの途中だろ?」
「そう、今日はあまり、獲れてない。まだ村、戻れない」
淡々と答えたヒナは左手に紐を掴んでおり、肩越しには三十センチ程の毛むくじゃらの狸のような動物の死体が吊るされていて、槍で突かれたのか血で体の一部が濡れている。現時点での彼女の今晩の獲物なのだろう。
正直、狩りに励まないといけない時にこうして気にかけてもらえてありがたい反面申し訳ない気持ちが強く、その分早く脱出しなければと焦りが募ってくる。
「なら早く狩りに戻らないとな、っと、俺ももっとまともな材料探してみるよ」
こうして休んでいる時間も勿体なく思い、海水塗れの体で立ち上がるネイト。
「……待て、同じやり方、材料の大きさ変えても、結果変わらない。何か変えた方が良い」
だがヒナはそう言ってネイトを呼び止めると、砂浜の向こう側を指差してついてくるように目で合図しながら歩き出す。
「そっちに何かあるのか?」
「ある……かも、しれない」
曖昧な返答なのが気になったが、彼女がわざわざ意味もなく呼ぶ事もないだろうと思ったネイトはとりあえず彼女についていく事にした。
日差しに熱せられた砂の上をしばらく歩き続けた後、二人が辿り着いたのはゴツゴツと尖った岩礁で、思いの外海の波もさっきいた場所より荒く見える。
「うわ、きたねっ」
岩場に足を踏み入れて開口一番、ネイトはそんな言葉を漏らしてしまった。
岩礁にはおそらく遠くの地で捨てられたと思わしき大小様々なゴミが流れ着いており、意外な形で自分が生きていた世界の物を確認出来て、ネイトはこの島もまた地球上にあるのだなと安堵する反面、自然豊かなこの島の景観が損なわれている事に不快感も覚えた。
「これ、ハウロア様から生み出されたもの、違う。だから私達、触れないようにした」
「まぁ、触らない方が良いと思うぞ。洗剤の容器みたいなのもあるし」
「お前の世界のもの、お前なら使い方、分かる。違うか?」
「分からねぇけど、使えそうなものならいくつかあるな。ちょっと探してみるか」
その後ネイトは足を滑らせないように気を付けながら、イカダに利用出来そうなものを探し、発泡スチロールの塊やペットボトルなど複数を回収した。
「しっかし、皮肉なもんだな……」
そして作業を終えたところで思わずネイトはそんな言葉を漏らす。
「ん? 何が」
「これ全部、俺達人間が海に投げ捨てたりしたゴミなんだぜ? 本当なら環境破壊に繋がるか
らダメなんだが、それに頼らないといけないってのが情けなくてな」
「ゴミ?」
「いらないものの事だ。この前あんたに貰ったオオトカゲ、皮と骨の部分は食えないだろ?
置いといてもしょうがねぇから捨てるしかない、そういうものさ」
「ちょっと待て、捨てるとはなんだ」
ゴミについて説明していると、思わぬところでヒナが話の腰を折ってきた。
なぜか少し、声色に怒気が灯っている。
「え、捨てるって、オオトカゲの残飯をだよ。俺が野宿してる洞穴の近くの森に……」
「オランボードー!」
「うおっ、なんだよ!」
「なんて愚かな、カーダルの皮、骨、牙、ハウロア様に還さなければならない!」
「還すって、どうやって」
「土に埋める。そうすればハウロア様、亡骸に再び命を与えてくださる。私達、またそれを捕
え、いただく。この島の命、そうやって繋いできた! それを、お前……!」
ヒナは本気で怒っているようで、今にも槍で襲いかかってきそうな形相で睨みつけてきた。
この島では生き物の命はとても神聖なものとされている、それを知っておきながら軽率な言動だったかと悔やんだネイトは、慌てて謝罪する事にした。
「わー悪い悪い! 悪かった! そんなつもりはなかったんだって! ただ俺の世界だとああ
いうのは残飯って言って、ちゃんと捨てないといけないってされてたからつい!」
「このっ……連れていけ」
「え?」
「カーダルの亡骸、放置した場所、後で連れていけ、言っている!」
彼女の気迫に圧され、「はいっ!」と裏返りそうな声で返事をするネイト。
「……くっ、気分、悪い」
すっかり機嫌を損ねたヒナは、溜め息をついてから滑りやすい磯の上を軽やかに駆け下り、
ネイトの隣までやってきてしゃがみこむと、岩場の上に置かれたゴミに手を伸ばす。
「おい、汚いぞ。やめとけって」
「これ、全部、お前の世界の物。何かに使ったもの、なのか?」
「あぁ、これはペットボトルって言って、水とか飲みものを入れる容器なんだが、空の状態だ
と水に浮かぶんだよ。水の上でこれを掴んでいれば泳げなくても沈まないし、イカダの浮力
を上げるのとか、溺れかけた時とかに使えそうだろ?」
「べこべこ……なんだ、この感触、なぜ、向こうが透けている?」
「ん、これはプラスチックっていって、透明で割れにくい素材で出来てるんだよ。人間が作っ
た知恵の産物って奴だな」
ちょっと得意げに言ってみせたネイトだったが、ヒナはそのペットボトルを両手で持ち、興味深そうに中を覗きこんだり凹ませたりしていて、初めてみる物体を弄るのに夢中になっているようだった。
「なら、これはなんだ? 白い、塊?」
「それは発砲スチロールだ。中に物を入れるための箱の材料とかに使われて、地面に落として
も衝撃を吸収して中身が壊れにくいようになってんだ。手を使えば簡単に破れるけどな」
「壊れやすいのに、壊れにくい……? 何を言っているか、分からない」
困惑の意を示しつつも、ヒナの目は磯に散乱するゴミに釘づけになっているように見える。
(そうか、ここの住民にとっては、こういうのを見た事すらないんだよな)
今まで生きていた中で、ペットボトルや洗剤の容器といったものに特に関心を抱いた事はなかった。日常の中で当たり前のように存在し、当然のように捨てていた。
だがヒナにとっては見た事のない未知なる物体であり、手に取って確かめたくなるような代物であるらしく、ネイトは自分との価値観の違いに驚かされた。
「珍しいか? そんなに」
「そう、これ、この島の物、違う。外の世界、これがたくさん、ある?」
「この島にはないものがか? まぁ、俺達の世界は人の作った物で溢れかえってるからな」
「……っ」
気のせいか、ヒナの双眸が光り輝いているように見える。
同じペットボトルでも、ネイトにとってはゴミに見え、ヒナにとっては異世界で生み出された大層な代物と認識される、この考え方の違いは住まう環境の違いから生じているのだろう。
「これ、全部、ハウロア様が造られたもの、違う。変で、珍しくて、お前の世界、これ全部捨
てているのか?」
「ん、本当はリサイクルしねぇといけないんだが、人間は自分がいらなくなった物がどうなろ
うと気にしない、とにかく見えないところに投げ捨てるのが殆どだろうな」
「……よく分からない、だが、この島では何かを捨てる事、ハウロア様への背徳。何かを使っ
た後、必ずハウロア様に還す。そうしなければ、与えられない」
「言いたい事は分かるぜ、でも俺達の世界はあまりに広くて物が多すぎて、捨ててもまた新し
く物が生み出されてんだ。多分そこに物は物以上の価値はない。物は人が作って、人が捨て
る、ただそれだけのものさ」
「それで、お前達の世界、成り立っているのか?」
そう尋ねてきたヒナの目は、どこかネイトを哀れむような色を灯していて、彼女がこの島の外の世界に対して失望しているのが見てとれた。
「……今のところはな」
百年以上も前から、文明発展の過程で生み出された廃棄物や排気ガス等により自然が破壊され、大量生産と大量消費により地球上の限られた資源が搾取され続け、いずれその煽りを受ける事は提唱されていた。
だが人々は便利さに酔い、今日に至ってもまだ危機感を抱いていないのが現実である。
慢性的な戦争状態に陥っている今の世界、その原因の一つにあるのが資源の枯渇であった。
人間が増えすぎた事で食料や物資の需要も比例するように跳ね上がったのだが、既に地球上に存在する資源は底をつきかけており、その弊害として各勢力によって限られてた資源の取り合いが発生したのだ。
神様に頂き、神様に還す。有限の物を利用しているという思想が人類全員にあれば、ここまで困窮した世界にはなっていなかったかもしれない。
そんな身勝手な世界から切り離されたこの島で生きているからこそ、ロア族は物を捨てるという行為を悪しきものと捉える事が出来るのだろうと、ネイトは一人納得する。
「それでも、戻るぜ」
「?」
「そんな世界でも、俺の生きてきた世界だ、家族も友人も一応いる。心配しなくても、余所者
は退散してやるから、安心しろ」
脱出の意思は揺らいでいない事を強調するように、ネイトは強がって言ってみせたが、ヒナの表情はぎこちないままで、どう答えればいいのか悩んでいるようだった。
「……分かって、いる」
やがてボソリとそう呟いたヒナは、ゴミを岩の上に戻して磯を駆けあがっていく。
「お、おい」
「早く、来い。カーダルの亡骸、探す」
背中を向けたままの彼女の言葉に、ネイトは急いでゴミを両手で抱えて慎重に滑りやすい岩場を登ってから、早足で後を追いかけて行った。
(つまらない話、だったかもな)
ゴミを見て触っていた時のヒナは、好奇心に溢れて楽しそうにすら見えたのだが、島の外の世界の現状を教えられてすっかり気分を削がれてしまったのかもしれない。
価値観の違い、それを見せつけられた気がしたネイトは、同時にヒナとの距離が決して近くない事を教えられているようにも感じて、虚しさに弱々しく溜め息をつくのだった。