気がかり
「おい、婆さん! 今出てった奴は誰だ! 村の人間じゃないだろぉ!?」
島の外の人間である軍人が立ち去ったすぐ後、ヒナやペレのいる小屋に大きな声を上げながら一人の若い男がドカドカと踏み入ってきて、ヒナは露骨に顔を歪める。
「……うるさいなぁ」
「おいヒナ! 兄に向かってなんだその態度は!」
鼓膜に響く大声を発する彼の名はミハロイ、ヒナの兄でありロアの民の若い男衆のリーダー格の一人だが、同時に村の中でも特に気性が荒い事で有名な問題児だ。
「やかましいわい、年寄りの前で大声出すなっていつも言うとるじゃろうがい」
「婆さん、誤魔化すなって! 確かにいただろ、村の人間じゃない誰かがよぉ!」
「おうおったわい、じゃが手を出したらダメじゃからのう。あれはヒナが獲った獲物じゃ、間
違えて手を出したら掟破りで仕置きじゃぞ?」
ネイトがいた時よりも幾分表情を険しくして、孫であるミハロイに釘を刺すペレ。
どういう事だとさらに食い下がるミハロイに、ヒナが渋々今あった事を説明する。
「島に流れ着いたっていう人間を私が捕まえて、逃がした。それだけだけど?」
「なんで逃がすんだぁ! 余所者だろ! 俺達の事を見られたんだぞぉ!」
「別にいいでしょ、私が捕まえたんだから。逃がして何か問題あるの?」
「大有りだ! 島の外の連中にここを知られて、乗りこまれたりしたらどうすんだ!」
ミハロイに続いて他の男達もそうだそうだと声を上げるが、ヒナも女だからといって気圧されるようなやわな性格ではない。屈強な野郎共の中で揉まれながら狩猟者として過ごすうちに身につけた気の強さで真っ向から睨み返して黙らせようとする。
「ミハロイ、お前はどんだけ心配性なんじゃ。ロアの男ならもっと気を強く持たんかい」
「婆さん! ここはロアの民の村、余所者がいちゃダメな場所だろ! このままさっき逃がし
た奴が島に住みついたらどうするんだよ!」
ミハロイを初めとして、ロアの民の多くは彼と同意見らしい。
彼等はハウロアと呼ばれるこの島の神を崇め、食事や衣装といった営みに必要なものをハウロア様から授かるという考え方の元、途方もない年月を狩猟を中心とした生活で生きてきた。その歴史の中で島の外の人間と接触した事は数十年前に何度か、ペレが若い時に近くの国の人間と自称する連中が未踏地の実地調査と銘打ったコンタクトがあったらしいが、突然島にやってきてあちこち見て回られたり素性を尋ねられたりして民の多くは不快感を抱いたという。
元々ロア族にとっての世界はこの島が全てであり、島の外のものは例え人間であろうとハウロア様の創造したものではない異物であり、排他的な感情を抱くのは無理もない話であった。
「ヒナや、お前さんはなんであの軍人さんを逃がす事にしたんじゃ?」
ペレが一歩進み出てミハロイ達を牽制しながら尋ねると、ヒナは小さく溜め息をついて、
「……島の外なんて、ない。余所者なんて最初からいなかった。それじゃダメなの?」
手にしていた槍を背に戻しながら発せられたヒナの言葉に、ミハロイ達も口を詰まらせる。
ヒナは自分が捕まえた余所者が可哀想だから逃がした訳ではない。陽が昇ると共に朝起きて、いつも同じ仲間と共に獲物を狩って、いつもと同じ仲間で食事して、陽が落ちたら寝る、生まれてからずっと同じ人間達と同じ生活を送ってきた。そこへ異邦の者が現れる事で自分や他のロアの民の生活に何らかの変化が起きてしまうのではという危惧を感じて、それが起きる前に無かった事にしてしまおうと思ったのだ。
「……そういう事だから、もう文句言わないで。私の勝手でしょ」
素っ気なく言い残して、ヒナはミハロイの前から立ち去り、集まっていた男達の間を掻き分けていく。ミハロイはまだぶつぶつ何か言っていたが、ロアの掟では狩った獲物の扱いは狩った者が決める事になっている。人間を捕えた事はおそらく前例がないものの、ヒナが狩った余所者を逃がすとヒナが決めたのなら、他の者はそれに従わなければならない。掟を破れば民の長であるペレから厳しい罰が与えられるのだから。
「ふぅ、兄さんはうるさいのよ」
未だ賑やかなミハロイ達から離れ、村に面した人気のない森の木陰に腰を下ろしたヒナは、
やっと張りつめていた緊張の糸を解けると大きく息を吐いて、天を仰ぐ。
「……あいつ、これからどうするんだろ」
生活に変調をもたらしたくないから逃がしたものの、あの余所者の青年がこの後どう行動に出るかは想像がつかない。島を出るための策を探すか、島で生き延びるための方法を探すか、自殺なんて選ばない限りはこの島の中で動き回るに違いない。
だがヒナは知っている、この島には長年狩りを続けてきても絶えない程多くの動物がいて、しかも毎年何人もの村の人間に怪我を負わせる獰猛な生き物も至るところに潜んでいる事を。
彼がどうなろうと、余所者なのでロアの民には何の害もない。彼がこの島でこの先どんな風に苦しんで、どんな死に方をしてもヒナが手を下した訳ではない。逃がした獲物の末路など狩猟者が気にする必要はないのだから。
「あれ、これって……」
背負っていた槍や弓矢を下ろそうと立ち上がった拍子に、腰元から何か光る物がこぼれ落ちたのに気付いて、それを拾い上げる。
ヒナの眼には銀色に輝く装飾品のように見え、ロアの民の持つ技術では決して真似出来ない精巧さと輝きに思わず見惚れてしまいそうになる。
明らかにこの島の外で造られたそれは、出会ったばかりの余所者の青年と戦って気絶させた際、彼の持ち物を探っている際に見つけたもので、物珍しさから無意識に奪ったまま返しそびれてしまっていたのだ。
(別に、必要ないのに)
外の世界のものなんていらない、そんな思いで彼を解放したのに、彼に関わるものに興味を抱いてしまっている。そんな自分が滑稽に思えたヒナはもう一つ溜め息をついてから立ち上がると、周りに村の人間がいないのを確認してから、森の奥へ向かって走り出す。
返そう、この村に外の世界の物は必要ない。本来の持ち主であるあの余所者に返すか、見えないところに捨ててしまおう、危機感に急かされるようにヒナは足場の悪い森の中を飛ぶように駆け抜け、奥へ奥へと進んでいった。
(ん、何これ)
異物を自分の世界から遠ざけたい、そう思って行動している筈なのに、ヒナは自分の心中に正体不明の高揚感にも似た熱さを感じて、訝しげに顔を歪めるのだった。
(分からない、私はなんで、こんなに足取りが軽くなってるの?)
気の進まない事をしているという思いに反して、駆ける足は弾むようで顔は真っ直ぐ前を向いていて、まるで喜んでいるような状態に腹が立って、ヒナは走る速度を速めるのであった。