憧れと夢と 3
「どうしたんだよ、いきなり!?」
「分からない! だが、お前、止めたい。行かせたくない、だから……!」
そこまで言って、ヒナは次の言葉を喉で押し留めるように口元を紡ぎ、代わりに感情に塗れた瞳でネイトを見つめる。
「もう、お前と話せなくなる、嫌、なんだ……!」
今まで一度もネイトの脱出を諌めようとする発言をしなかったヒナが、しおらしさの混ざった声色でそんな事を口にして、ネイトは驚きで言葉を失う。
「……あっ」
同時に、彼は自身の胸が大きく鼓動する音を聞き、ときめいているという事を自覚した。
ヒナからまさかの告白を頭の中で何度も反芻させた後、意を決するように荒い息を吐き出して、彼女の肩を片手で優しく掴む。
「俺は、ヒナの事、愛おしいと思ってる」
「え……何を、言って、いる」
「俺だって、あんたと離れたくねぇんだ。あんたに助けられて、支えられて、俺は完全にあん
たに惚れた。そんな相手と会えなくなるのなんて、嫌に決まってるだろ?」
赤裸々なネイトの告白に、ヒナは頬を赤く染め、恥ずかしさに堪えるように口元を結ぶ。
「だからいつか、また会いに来る」
が、ネイトが続けて打ち明けた本心に、彼女の顔は驚愕によって一気に硬直した。
「会う、だと? お前、さっき言った筈、この島をもう一度見つける事、出来ないと」
「あぁ、無事に元いた世界まで辿り着いて、出来る事は全部やって、この島探して……お前に
会いに行く。絶対にだ」
「お前、分かっている、のか? お前言っている事、とても難しい! そもそも、イカダで海
を渡って別の島に行けるかどうかも怪しい、それなのに……っ」
そこまで口にして、ヒナはしまったという風に片手で口を押える。
これから出立する相手に対し、先行きを不安視する発言をした事を後悔でもしたのだろう。
ネイトはそんな彼女の気持ちに苦笑して、ヒナの肩に触れていた手で今度は頭を軽く叩く。
「分かってるさ、俺が生き残れる可能性が低い事ぐらい。でも、諦めるのは嫌なんだ。俺は脱
出するために努力して、あんたもそれを懸命に手伝ってくれた。脱出するために懸けてきた
時間や労力、感情を無駄にはしたくねぇし、やっぱり元いた世界に戻りてぇんだ」
「そう……か」
「そんで、あんたと今生の別れなんてのもしたくねぇ。俺もあんたも若い、やろうと思えば努
力する時間は十分ある。俺は諦めねぇぞ、あんたがもう来るなって言うなら別だけどよ」
「そんな訳、ないっ!」
ヒナは頭に乗せられたネイトの手を払いのけ、一歩進み出て即座に否定する。
「本当はずっとお前に、傍にいて欲しい! 私は、外の世界、もっと知りたい! お前につい
ていって、海を渡って、見た事ない世界……見たいって思ってる。だが、不可能なんだ!」
「……あぁ。あんたを連れて行っても、今の世界じゃ、多分あんたの求めるものは見せてやれ
ねぇし、させてやれねぇ」
ロア族のような原住民族の存在は、先進技術に溢れた社会の中では黙認されている。
関わる事で文明の差による余計な人種問題の発生の危険性と、原始時代の生活水準の文明と
接触したところで、発展著しく且つ慢性的な軍事力の衝突による人材と技術が常に枯渇している今の時代には有益な効果はないという二つの理由が主だ。
環境と文明保護の名目で社会は原住民族に不干渉ではあるが、それは彼等が今の世界に関わる事を遠まわしに許していない事もまた示していた。
ヒナと共に元の世界に生還したところで、彼女は好奇の目に晒され特殊扱いされて、市民団体やマスメディアにたらい回しにされ、ネイトとは引き離されるのがオチだ。彼女が見たいネイトの世界など実感する余裕も与えられないだろう。
そんな世界に、彼女はつれていけない。
「だから、会いに行く。あんたがこっちの世界を見たいなら、こっちに来れる状況を作る。あ
んたの、いや、あんたに会いたい俺のために出来る事はなんでもする! 信じてくれ!」
「っ……!」
ネイトは心の底から自身の願いもとい我儘を吐き出し、無謀な目的を達成しようとしている事をヒナに伝えた。
口にした事でどれだけ無茶を言っているか理解して顔が火照るのを数秒遅れて感じた時、ヒナがボソリと何かを呟いたような気がした。
「ん? 何て?」
「オランボードー、馬鹿ものと言った!」
そう叫んだ後、ヒナは槍を手放すとネイトの両腕を掴むようにして抱きつき、顔を彼の服に埋めたまま、掠れるような声で言葉を漏らす。
「……待って、いる」
今度は鮮明に彼女の言葉が聞こえ、ネイトはその一言を何度も頭の中で噛み締めるように反芻させた後、改めて彼女の両肩を手でそっと掴んだ。
「あぁ、待っててくれ。俺の命の恩人さんよ」
朝の日差しを木の葉が反射した深緑の光が降り注ぎ、無数の虫が飛び交い鳥獣達の鳴き声が響くハウロアの森の奥深く、文明発展に取り残された原住民の少女と島の外から来た異邦者の青年は、もしかすれば永遠になるかもしれない別れの朝に、二人は初めて唇を重ね、自分達の間に確かな愛情が存在している事を改めて認識した。
その後ヒナの家に戻って朝食を済ませてから数時間が経ち、ネイトの姿は村から離れた位置にある砂浜にあった。
波打ち際には様々な長さや太さの丸太を巧妙に組み合わせて造られた、この島に来て何度も製造してきた中でも群を抜いて傑作の脱出用イカダが置かれており、その上にはロア族の男達が島で獲れた果物や山菜、川で汲んだ水の入ったペットボトルを沈まない程度に乗せられるだけの量を乗せていっている。
「一日に三つ食うとして、何日もつかいのぅ、あの量じゃ」
「どうですかね、最後はイカダの木の皮でも剥がして食い繋いでやりますよ」
長老ペレの懸念に、ネイトは開き直るような言葉を返す。
目の前に広がる大海原、どれだけ進めば人の住む陸地が見えてくるのか、皆目見当などつきそうにない。
言うまでもなく、遭遇した船に救助されるか人の生活圏である陸地まで辿り着かない限り新たな食料を得る事は出来ず、待っている未来が餓死であるのは明白だった。
それ以前に嵐にでも遭遇すればまた海に投げ出されるだろうし、大きな鮫やシャチに襲われてイカダが崩れた場合ネイトは餌としてバラバラの肉塊と化すかもしれない。
島からの脱出は叶っても、元の世界へ生還出来る可能性は限りなく低い。
ロア族の人間はそれを察していたからこそ、最後にネイトへ手厚い持て成しをしてくれたのだろうか、そんな考えがネイトの頭をちらつく。
「軍人さんや、儂はお前さんが来てくれて良かったと思うとるんじゃ」
そんな彼に、ペレは皺だらけの顔ににこやかな笑みを浮かべながら、彼の島への来訪を肯定するような意見を口にしてきた。
「え、そうなんですか?」
「そうじゃ、儂らは気が遠くなるほど昔から、同じ生き方をしてきた。ハウロア様を崇め、命
に感謝し、生を繋ぐ。ロアの民として誇りを持ち、不変を貫いてきた。じゃがな、獲った動
物の肉が放っておけば腐るように、変化のないもんはいずれ輝きを失ってしまうんじゃよ」
ペレは緑豊かな木々の生い茂る島と浜辺にいる村の人間をそれぞれ一瞥しながら、ゆったりとした口調で言葉を続ける。
「皆同じ毎日の繰り返しで、ハウロア様や命への感謝も単なる義務、形だけのものになっとっ
たんじゃと思う。じゃが軍人さんが現れてから、そんな村の雰囲気が変わったんじゃよ」
「雰囲気?」
「自分達の言葉や考え方がまるで違う人間が島に来て、村のもんは最初は驚いて警戒しとった
が、同時に知ったのじゃ。世界が島の外にも広がっておって、自分達の生き方や考え方がこ
の世界で唯一じゃない事にの。ヒナのように未知の存在に興味を抱いたもんもおれば、ミハ
ロイのように今までの生活を守ろうとしたもんもおる。何にせよ、これまでのロアの民とし
ての生活を見つめ直す機会になったんじゃろう。軍人さんをどうするか話し合いを開いた時
に互いの気持ちをぶつけ合ってのぅ、良い経験になったわぃ」
ペレの話にネイトはどう返事をすべきなのかと戸惑い、なんとなく目をヒナに向けると、彼女は力強く頷いて、
「お前に会わないと、私、知れない事、たくさんあった。何かを知りたいって思う事、なかっ
た。ただ毎日獲物を狩って、食べて、寝るだけ。毎日決められた事やるだけの、空っぽのま
ま。村の皆に自分の気持ちをぶつけたり、分かってもらおうとしたりも、多分、なかった。
自分で考えて、したい事をしようと思えたの、ネイトの、お陰」
優しい微笑みを浮かべたヒナの、さらなる称賛の言葉に余計に小恥ずかしくなってしまった
ネイトは彼女からも顔を背けてしまう。
「俺は貴様が来てから良いと思った事は一度もないけどなぁ!」
そんな風に頬が緩んだネイトに対し、ペレやヒナの意見を一蹴するようにミハロイが叫び、浮かれた気持ちが一瞬で冷まされていく。
「貴様が来てから、俺は全くと言っていいほど気持ちが落ち着いた試しがなぁい! 貴様の顔
を見るのも、貴様の声を聞くのも、貴様が同じ島にいて、同じ空気を吸っているのも、何も
かもが気に食わなぁい!」
「ガキみてぇな事言ってんな……」
思わず呆れるように、小さく声を漏らすネイト、愛する妹の気を引いた罪は重いんだなと実感していると、ミハロイは不満のぶちまけを途中でストップし、まだ吐き足りなさそうに顔を引き攣らせてから、大きく深呼吸して改めるように言葉を発する。
「……せいぜい死なずに、戻ってこい。ヒナの気が他の男に移らない間は、待っていてやる」
「カカ! ジャンガンオランボー、ハルハラエ! (兄さん、馬鹿な事言わないで!)」
ヒナが慌てて話を止めに入るが、最後に一言だけ、ミハロイは語気を強めて言った。
「いいな、ヒナを悲しませるなよぉ!?」
「……はい、分かってますよ」
ミハロイが口にした言葉には、兄として妹の気持ちを思いやる感情が滲み出ており、こちらへの嫌悪を必死に押し殺しているのが伝わってきて、ネイトは静かにその意思を受け止めた。
出発の準備が整い、ネイトがオール代わりの細長い木を持ちイカダの上に乗ると、村の男達がイカダに両手をかけ、沖合に押し出すべく前のめりの姿勢になって押し出す準備をとる。
「同じ大地で生きてきた者として、お主にハウロア様の恵みがあらん事を」
ペレの掛け声と共に、駆けつけた残りの村人達がネイトの航行の無事を祈り、目を閉じる。
「テリマーカシ、色々とお世話になって、ありがとうございました。皆さん」
その厚意に応えるように、ネイトは覚えたてのロア族の言葉で感謝の意を示し、軍人らしく敬礼をしてみせた。
「タカンサマタップントゥラ!(気合入れて押せよぉ!?)」
そしてミハロイの合図で男達がイカダを押し出した数秒後、ある人物が慌てるようにジャブジャブと足先を波間で濡らしながら駆け寄ってきた。
「ネイト!」
「おいおい、ヒューズが臭いを嗅いで寄ってくるぞ?」
「え、そう、なのか?」
「血が出てたらな……どうした」
海に入るのを恐れていたヒナが、膝まで海水に浸かるのも躊躇わず、浮かぶイカダの上に立つネイトを見上げる。
「どっぐたぐ、ずっと持ってる。お前も、これ、持っていろ」
そう言いながらヒナは己の腰元に手を当て、服につけていた何かを掴んで差し出してきた。
それは尖った石で出来た短剣のようなもので、形は歪で切れ味が悪そうな刃をしており、人の手で叩いた独特の凹凸が目を引く代物だった。
「お前と違って、私は大した物、持ってない。これ、私が小さい時に使ってた、獲物を狩るた
めの道具。お前はいらないかもしれない、けど、貰ってるだけじゃ、嫌だから……」
彼女なりにドッグタグのお返しをしようと考えてくれたのだろう、その気持ちが嬉しくて、ネイトは軽く笑って石の短剣を受け取る。
「ありがとな、島に戻った時はこれで大トカゲを仕留めてやるよ」
「ふふ……次は、足、噛まれるなよ」
互いに笑顔を交わした後、今度こそ本当の別れの時が訪れた。
「ペェルス!(押せぇぇぇぇぇ!)」
ミハロイの掛け声に続いて、ロア族の男達がイカダを砂浜から海上へと押し出し、ネイトの元の世界への生還を目指す航海が幕を開けた。
別れを惜しんで声をかけてくる者は殆どいなかった、異邦者が去る事に対して彼等が抱く感情は十人十色、何を言うべきか、言うべきでないのかすら分かっていないのだろう。
ヒナもまた、声を発さないままネイトを見据えてきているが、その表情は感情が溢れるのを堪えるように強張っており、ネイトが去る様子を一度も目を逸らす事なく見つめ続けていた。
ネイトはそんな彼女の気持ちの強さに応えるように、ヒナやロア族の人間達の姿が小さくなるくらいに砂浜から離れるまで、何度も何度も振り返り、その度に移る島の景色を目に焼き付けておくのだった。
「ふぅーっ……さぁて、こっからだぞ、俺」
手にした木でイカダを漕ぎながら、大きく息を吐き出し顔を島とは反対の方向に向ける。
どこまでも広がる大海原、前方には大陸は愚か島や船の影すら見当たらない。青い海と常夏の快晴の空は写真や絵画かと思えるほど美しく、同時にネイトが育った科学の発達した世界から取り残された地域である事をまざまざと訴えかけてくる。
終わりの見えない航海、しかしネイトの心には悲壮感はなく、元の世界へ戻るための一歩を踏み出したのだという自信に満ち溢れていた。
生還して、いずれヒナに会うために戻ってくる。
彼女と交わした約束は、仲間や軍人としての生活を失った彼にとって、新たな生きる理由となり、生への執着をこれまで以上に強く持つようになっていた。
「……ロア族も、キスする概念はあったんだな」
数時間前、ヒナと口づけを交わした時の事を思い出し、口を手で抑えて呟くネイト。
己の感情に従って、ヒナへの愛を現す形で行ったのだが、彼女も抵抗する事なく受け入れてくれて、驚くと共に嬉しかった。
生き延びて、戻ってこれれば、またヒナと会える。
木のイカダで海を渡る無謀な挑戦を行うのに必要な希望は、それだけで十分だった。
「戻ってきてやるよ、絶対」
決意を胸に、彼は挑む。
遭難者ではなく外の世界の人間として、彼女を愛する者として迎え入れるために。