ミハロイ強襲 1
「ん……ぐ、うん……?」
意識が戻って最初に知覚したのは、鼓膜を震わせる大量の水が流れる轟音だった。
次に自身から右手に数メートルほどの近い場所に、暗みがかった空を背に白い飛沫を上げて、重力に引かれるがまま断崖絶壁を落下する滝を視界に捉え、自分はその滝壺の畔に腰を下ろしているのだと理解する。
「いって……」
顔や腕、腹や足など体の至るところがじんじんと痛み、ネイトは顔をしかめる。
状態を確かめようとするが、腕が背中の後ろに回ったまま動かない、どうやら丈夫な木の蔓で手首を縛られているらしく、胡坐を掻いた状態の足首も同様に拘束されていた。
「そうだ、左足……いっ、ぎぃ!」
ハッと思い出して自らの左足を見た途端、忘れていた激痛が一気に目を冷まし、ネイトの表情を苦痛で歪ませる。
左足には木で造られた矢が突き刺さったまま放置されており、流れ出した血で傷口より下の部分のズボンの裾を赤黒く染めていた。
「やべぇってこれ……ん、うおっ」
どうするべきかと悩みながら動かせる首を横に向けると、自分のすぐ傍にロア族の男の一人が佇み、こちらを黙って見下ろしている事に気が付く。
筋肉質な体つきの彼は、ネイトをしばらく凝視した後、早足で森の奥へと走っていった。
確か今の男は洞穴でネイトを襲ってきた人間の一人だ。
という事は、今ネイトがこんな山の奥で両手両足を縛られているのもあの連中による仕業と考えて然るべきだろう。
腫れ気味の頬や切れた口元、骨の髄まで痛む腕や足に、岩が圧し掛かっているような鈍痛の抜けない腹部、このボロボロの状態になるまでネイトが傷だらけになっているのは、襲撃者共に力任せにリンチされた結果だ。
しばらくして、草の根を乱暴に踏み鳴らす足音が聞こえてきて、ネイトを襲った連中四人が目の前に姿を現した。
「……気が付いた、か」
彼等の中のリーダー格らしき青年の口から漏れたのは、驚く事にネイトが使っているのと同じ言語、どうやらヒナ以外にも島の外の言葉を離せる人間はいるらしい。
「良い景色だなぁ、俺の世界だとドキュメンタリー映画でしか見た事ねぇよ」
「貴様に聞きたい事がある、拒否は許さん。使いづらい上に気味の悪い発音ばかりの、余所者
の使う言葉を使ってやっているんだ、正直に答えろ、よぉ」
ヒナの短く言葉を切るのとはまた別のクセのある喋り方のその男の顔には、ネイトへの明確な敵意が浮かび上がっていて、質問の内容も決して友好的なものではない事は容易に想像する事が出来た。
「貴様、村を追い出されておきながら、なぜ今もヒナと会っている? どういう目的でヒナを
貴様の行動に付き合わせて、いるぅ?」
「最初から関わるつもりだった訳じゃねぇよ。大トカゲ、あんたらの言うカーダルって生き物
に足を怪我した時、たまたまヒナに再会して手当てしてもらって、そっから時々俺に協力し
てもらうようになったんだ」
「なぜヒナは貴様に協力していた、何の見返りもなしに、狩りをそっちのけで余所者の貴様に
関わろうとする筈がな、い!」
「んー……まぁ、きっかけは多分、俺がこの島で生き延びるために協力してくれって頼んだ事
かもなぁ」
直後、ネイトは左頬が大きく凹んだかと錯覚すると同時、体全体を右方向に激しく吹っ飛ばされていた。
「やはり貴様が、ヒナをたぶらかしたの、かぁ!」
青年は今まさに唸りを上げたゴツイ右拳を握りしめたまま、倒れ込むネイトの元までゆっくりと近づきながら、さらに問うてくる。
「貴様、ヒナと海の上をイカダで漂っていただろぉ、なぜあんな危ない真似を、したぁ! 落
ちて溺れるか、ヒューズの餌になるところだったんだ、ぞぉ!」
「はは、ロア族は余程鮫が怖いんだな。けど多少の危険は顧みねぇと、新しい発見は見つから
ねぇぜ? お陰でヒナは海で泳ぐ事を経験出来たし、海の上で漂う楽しさも知れた」
「知ったような、口をぉぉぉ!」
爪先で地面を蹴りつけ、男は倒れたままのネイトの顔に砂をかけてきた。
「俺はヒナの兄のミハロイだ。俺の妹は、村一番の狩人で、言葉遣いや行動に厳しい婆さんに
だって特別可愛がられるほどの奴だったんだ! 真面目で、文句一つ言わずに狩人としてや
るべき事をこなして……なのに実は隠れて今まで何度も貴様と会っていただとぉ!? ふざ
けるな、ヒナに余計な事を吹きこんで、ロアの民の規律を乱すはぐれ者にしやがってぇ!」
「へぇ、あんたヒナの兄さんなのか。似てねぇなぁ」
「黙れぇ!」
「別にあの子は何も変わっちゃいねぇよ、ただ知ってしまっただけさ」
「知っただとぉ? 何を言ってい、るぅ!」
「外を、だよ。俺が勝手に教えた訳じゃねぇ、ヒナはもっと知りたいって言ってたぜ、この島
の外の世界を。あんたは気づかなかったのか? 妹の変化って奴によ」
窮地に立たされていながら、なぜかネイトは助けを乞うといった保身のための言葉を口にせず、むしろ相手を煽るような返答ばかりをしてしまっていた。
やけくそになったつもりはない、ただヒナの兄であると自称した目の前のミハロイという男が、自分が見てきたヒナの姿が本来の彼女ではないと決めつけているような気がして、無性に否定したい衝動にかられていたのだ。
「変化させたのは貴様、だぁ! 貴様がヒナをおかしく、したぁ!」
「ヒナは何も変わってない。俺は知ってるぜ、ヒナが蛙嫌いで、食べた大トカゲの残りをゴミ
扱いされるのが許せなくて、海を泳ぐのが怖くて、流れ着いた物に興味があって……文句言
いながらも鈍くさい余所者の俺を見捨てずに助けてくれる優しい女の子だって。あんたの知
るヒナが間違ってるとは言わねぇが、あんたが知ってるヒナだけが全てじゃない筈だぜ」
「きぃ、……っ!」
何か言い返そうとしたミハロイは、倒れた状態のネイトの胸倉を掴み上げて強引に立たせると、傍にあった木に背中から体を押しつけてきた。
「やはり貴様は危険な奴、だ。この島にいたらヒナがいつまで経っても目を覚まさない、他の
村人達も貴様に害されてしまう。今すぐ貴様がいた世界へ、戻れぇ!」
「っ……あいにく、俺が作ってた脱出用のイカダは誰かさんによってバラバラにされちまって
な、出たくても出れねぇんだよ」
「この島にあるものは、生き物も植物も全てハウロア様が我々ロアの民が与えてくださった、
余所者の貴様が勝手に使って良いものでは、なぁい!」
「ヒナに手伝って作ってもらったんだがな」
黙れと言う代わりに、ミハロイはネイトの後頭部を一度木にぶつける。
「貴様は勝手にこの島に流れ着いた、なら出る時も貴様の体だけで出てい、け」
「海には鮫が……ヒューズがいて危険なの分かってて言ってるのか?」
「多少の危険を試みれば新しい発見があるのだろう? 上手く貴様の住む陸地にまで流れ着く
かもしれん、その時の生き死には知らないが、なぁ」
「はは、そうか……悪いけど、泳いで脱出は無理だ。鮫に食われる前に疲れて溺れる、俺は島
を出たいんじゃなくて、元の世界に戻りたいんだ。自分から死ぬような真似はしねぇ」
「ダメだ、許さぁん!」
ミハロイは怒気をさらに強めながら叫ぶと、ネイトから視線を外さないまま片手を動かして近くに立ち尽くしたままの取り巻きを呼び寄せる。
「トンバクアンダンジャ、ベリカンシャイヤ! (お前の持ってる槍、よこせ!) 」
「ナンイット……テナンセディット! (いやそれは……少し落ち着け!)」
「ベリシック! カレナベリアク! (うるさい! いいから貸せ!)」
ミハロイの言葉に相手の男は躊躇いの態度を見せたが、鬼気迫る表情で命令されておじおじと彼の持っていた木の槍を手渡す。
拳の下側に切っ先が向くように槍を握りしめると、ミハロイは間髪入れずにネイトの右肩に先端を突き刺さんと勢いよく振り下ろしてきた。
刺されると思ったネイトは思わず歯を食いしばるが、槍は衣服越しに皮膚を軽く傷つけただけで寸止めされ、ミハロイは声に殺気を帯びさせながら再度告げる。
「すぐにこの島から出ていけ、ここに貴様の居場所は、なぁい!」
凄みを増した彼の言葉と明確な殺気を目の当たりにして、僅かに気圧されそうになるネイトだったが、左足に矢で射られた傷のズキズキとした痛みが未だに残っていたお陰である事を思い出し、ミハロイの脅迫に睨み返す事で応える。
「……出来ねぇって言ってんだろ。俺はもうあんたより先に、命令されたんだからよ」
「何の話、だぁ!?」
「自分が生きてきた世界を諦めるな、俺がいた世界に戻れって、諦めかけてた俺にヒナがそう
言って励ましてきたんだ。だから俺は絶対に死なねぇし、あんたの言いなりになって無茶し
て海の藻屑になるのだけはゴメンなんだよ!」
島を脱出して元いた世界に戻る、余所者であるネイトの身を案じてイカダ造りや生活を支えてくれたヒナがそう激励してくれたからこそ、彼は今まで苦しいサバイバル生活の中で倒れる事も精神を病む事もなく続けて来れたのだ。
命の恩人である少女の願い、少女に繋いでもらった命、なんとしても落とす訳にはいかない事ぐらい、考えなくても分かる。
ネイトは、どれだけロア族の人間が自分を毛嫌いし邪魔者扱いしたとしても、生き残るためには抗ってみせる覚悟を、ヒナに手当してもらった左足の怪我に誓って決意するのだった。