ヒナの涙
「俺が狩った鹿の仲間が、復讐にでもきたのかよ」
照りつける朝日の下、イカダの面影など微塵も見られないほどにバラバラとなった木の残骸が砂浜に散っているのを目の当たりにしたネイトは、口をあんぐりとさせて驚嘆した。
夜の間に強い雨風でも吹いたか、凶暴な獣に襲われでもしたか、色んな可能性を考えてみるが、決して脆くない丸太で造られた板状の物体がここまで完膚なきまでに壊れる自然現象など想像出来ない。
それこそ、人為的に壊されたりしない限り。
「まさか、な」
僅かに想像して、すぐにやめた。
この島で起きた人為的な出来事は、それはつまりロア族の誰かが起こしたという事になる。
もしこの惨状を引き起こした原因がロア族の中に、ヒナの仲間の中にいると考えるのは恐ろしくて気が引けた。
ヒナは命の恩人だ、その仲間を疑うような真似をするのは、ヒナに対して失礼だと思ったからで、ネイトは努めて人為的可能性を脳内で否定する。
「ネイト!」
とりあえず散らばった木屑を拾い集めようとした時、近くの茂みから聞き慣れた声と共に梢や葉っぱに体をこすらせながら疾駆する音が聞こえてきて、ネイトは視線をそちらにやる。
草木で埋め尽くされた景色の中から飛び出してきたのは、予想通り片手に槍を持つ姿が様になっている褐色肌の少女ヒナで、大きく肩を上下させて息を乱れさせているのを見る限り、全速力で森の中を駆け抜けてきたようだ。
「おぉヒナ……どうしたんだ? 息を荒くして」
「どうしたって……っ! これは……!?」
ヒナは白い砂の上に広がる、かつてイカダだったものの成れの果てを目の当たりにすると目を大きく見開いて駆け寄っていき、しばらく呆然とした後、顔を俯かせた。
「い、いやぁ朝起きて来てみたらこうなってたんだよ。驚くよなぁ? グリズリーでも出てき
たのかって感じで。あ、グリズリーって分かるか? めっちゃデカイ熊の事なんだが……」
ネイトはからからと苦笑いしてみせるが、ヒナは応えないまま両手を強く握りしめていて、腕を小刻みに震わせているようにも見えた。
「お、おい、ヒナ?」
無言のままの彼女にネイトが恐る恐る話しかけると、次の瞬間ヒナはくるりとこちらに体を向け、弾かれたように猛スピードで接近してくる。
タックルでもされるのかと後退りしそうになったネイトは、直後彼女が持っていた槍を手離し、そのまま彼の胸に飛び込んでくるとは予想だにしていなかった。
「え、え!? ど、うしたんだいきなり……!」
ヒナの突然の行動に動揺して慌てふためくネイト、だが間近に見えた彼女の表情は今まで見た事がないくらい暗く沈んだものである事に気付き、眉をひそめる。
「ご……ごめんなさい、ごめんなさい!」
「なんであんたが謝るんだよ、てか、泣いてんのか?」
「こんな酷い事した人間、私、分かる。私の兄と、その取り巻き連中の仕業。私が、お前と関
わったから……!」
涙を堪えるように目元を潤ませながら、ヒナは声を浮つかせて途切れ途切れに言葉を発し、
かなり動揺しているのが伺えた。
「ヒナ!」
凛々しかった彼女の痛々しいまでの悲しい姿に、ネイトは思わずヒナの肩に手を置いて、彼女の名前を叫んでいた。
ヒナは体をビクリとさせた後、赤く腫らした目尻でネイトを凝視してきた。
「落ち着いて、ゆっくり喋ってくれるか? 大事な話なんだろ?」
「分かった……昨日、村の人間に、私がお前と会っているの、知られた。村の一部の人間、島
の外から来たお前、よく思ってない。他の村の人間も、戸惑ってる。私、お婆さんに、注意
された。狩りの時間を、余所者と会うために使ってた、から。お前と会う事、禁止された」
ゆっくりと、ヒナは昨晩ロア族の村で起きた事について、ぎこちない喋り方で伝えてくる。
ネイトはその内容に別に驚きはしなかった、村に連行された時に見た、ロア族の人間の自分に対する冷徹な視線と険しい表情は、異邦者の自分を全く歓迎していない意思を表していた。
ネイトの島での生活やイカダ造りに協力してくれたものの、ヒナだって最初は強い警戒心をもって接してきた。それだけ排他的な考えが強い人間が、気に入らない相手と自分の仲間が秘密裏に会っていると知ったら、不快な思いをしたって別におかしくはない。
「なら、今あんたがここにいるの、まずいんじゃないのか? 俺と会ってちゃ……」
「良くは、ない。でも、お前を良く思わない奴、お前に良くない事起きる、言っていた。だか
ら急いできた。私が怒られるの、別に良い。でも、お前に危害を加えられる、見たくなかっ
た。なのに、こんな嫌がらせ……!」
イカダが大破したのは、ロア族の中にいる、反余所者派ともいうべき人間の仕業で、ヒナは同じ村の人間がやった行為に責任を感じて、謝罪のために駆けつけてきたらしい。
「なんであんたが謝るんだよ」
「謝るに、決まってる。私がお前と関わった事で、お前に酷い事、した。お前は余所者、でも
私達ロアの民の生活の邪魔をした訳、違う。なのに……!」
「それでも俺は、あんた達の家に勝手に上り込んだ身だ。薄々何かぶつかる時が来ると思って
た。あんたが優しかったから、今まで安定して生きてこられたのが幸運だっただけさ」
「違う! ロアの民、命を尊重する、生き物を尊重する。同じ人間のお前に嫌がらせする、ロ
アの民として、間違った行動。許されない……!」
悔しさを我慢出来ないといったように、ヒナはギリギリと歯軋りを鳴らしながら、可愛らしい容貌を苦々しく歪める。
かなりの罪悪感に彼女は苛まれているらしい、瞳孔は相変わらず揺れたまま、握った拳も小刻みに動き、必死になって動揺を押し殺そうとするその姿が痛々しく目に映った。
「……ヒナ、人間見慣れないものは傍に置きたがらないものさ。俺の世界だってそうだった、
肌の色や思想、生まれた国や使う言葉、ちょっとした違いで同じ人間同士で差別し合って、
叩き合ってる。人ってのは簡単には分かり合えない、変な生き物なんだよ」
「そんな、事は……」
「俺だって、多分変わらない。自分の生活に変化が起きるのは、俺だって嫌だし。だから、仕
方がないんだよ、こういう事があっても」
「仕方がない、だと……!? こんな、卑怯で卑劣、酷い事をされるのが、仕方がない、言う
のか! お前は!」
「……あぁ」
嘘ではない、他人の縄張りに居座っている以上、弊害が生じるのは覚悟していた。
軍の任務で同盟国に援軍として向かった際、現地の人間を守るために戦ったにも関わらず、異国の人間は出ていけと彼等から石を投げられた経験があったが、今回もそれと同じだと、ネイトは割り切っていた。
いや、割り切るしかなかった。そうでもしなければ、自分はヒナの仲間であるロア族に対して、今までの苦労を水の泡にされた恨みを抱いてしまいそうだったから。
「ダメっ!」
だが、そんな強がりの考え方をヒナは喉が裂けるような叫び声で一蹴した。
「じゃあ、私とお前が、一緒に時間を共にしたのは、間違いだって、言うのか! 人が人に酷
い仕打ちをする、仕方がない? 違う、おかしいに、決まってる! 命は、ハウロア様が授
けてくださったもの、その命同士がいがみ合う、絶対に、違う!」
地面に落としていた視線を上げ、ネイトの顔を真っ直ぐに見つめながら、ヒナは思うがままの感情をぶつけてくる。
その表情には鬼気迫るものさえ浮かんでおり、異邦者は相容れないというネイトの言葉を否定しようと心の底から訴えかけてきていた。
そんな彼女の、本心を曝け出した叫びに、ネイトは取り繕っていた感情が切り崩されていく気がして、口にしないようにしていた言葉を声にする。
「あぁ……そうだよな、間違いじゃねぇよ。俺があんたに支えてもらった時間のお陰で、俺の
命はまだ繋がってる。そんな出会いを間違いだなんて、口が裂けても言えねぇよな」
そして彼女の赤く腫れたから流れる涙を指で拭ってやってから、ネイトはヒナの頭をぽんと軽く手で叩いた。
「サンキューな、ヒナ。心配してきてくれたのは嬉しいけど、もうここには来るな」
「っ! な、なぜそんな事、言う!?」
「あんた、村の人間に怪しまれてるんだろ? なら俺達が会うのは控えるべきだ。あんただっ
て同じ村の中でギスギスするのは嫌なんじゃないのか?」
「そう、だけど、私は悪い事、していない。ただ、お前と話して、お前を助けていた、それを
止められるなんて、納得いかない……!」
「……そう言ってくれるだけでも、俺は救われた気分になるんだぜ」
自分との出会いや時間を、例え同じロア族の人間に否定されようとも、間違っていないと断言してくれるヒナの姿はとても健気で、ネイトは心を揺さぶられずにはいられなかった。
だが純粋であるが故に彼女は危険だ、自身の意見を強く持てば持つほど、相反する考えの人間とは対立しやすくなる。排他的な考え方が強いロア族の中ならば余計に意見を衝突させて関係がこじれていく可能性は高い。
ヒナはロア族の少女だ、どれだけ外の世界に興味を持っていようと、これからもこのロア族が支配するこの島で生きていくだろう。
一つのコミュニティしか存在しないこの島で、相容れない事があって仲間同士で対立し、マイノリティとして孤立してしまえば、彼女は下手をすると一生後ろ指を指されて過ごしていかなければならないかもしれない。
少数派を淘汰するのは人間の性だ、何かトラブルがあればあらぬ理由をこじつけてスケープゴートとし、叩く事で満足を得る。大小問わず人間の歴史はそんな差別の繰り返しで繋がってきており、今もそれは解消されていない。
いくらヒナが余所者であるネイトと接する事を拒絶しなくても、その他大勢のロア族が否定しているのなら、村の総意は後者になるだろう。
ヒナを大切に思うからこそ、ヒナには今まで彼女が共に生活してきた者達との関係を崩して欲しくない。ロア族としてのこれからの人生を自分と関わったせいで歪ませてしまうのは、ネイトにとって気分の悪い結末以外のなにものでもない。
「でっ、も……イカダ造り、お前一人で、やるのか」
「地道にやるさ」
「か、狩りは……食べ物、獲れるのか?」
「フルーツは健康に良いらしいからな、一生分獲って食ってやるよ」
「危険な生き物に、遭うかもしれない。また、怪我するかもしれない。一人で、身を守る事、
出来るのか……!?」
涙を堪えるように眉間に皺を寄せながら、ヒナは震える声で何度も問うてくる。
お前一人でこれから生きていけるのか、私の手助けなしで大丈夫なのか、そう心配しているようにも聞こえ、自分の身を案じてくれる彼女にネイトは笑みがこぼれそうになった。
「俺は軍人だ、ここよりもっと酷い戦場を生き抜いてきたんだ、安心しろ」
「……っ、私は、諦めない。また、お前に会いに来る。村の皆が、認めてくれたら、絶対!」
「揉めるぞ、多分」
「お婆ちゃん、今は会うな、言った。でも、この先ずっと、違う。それに私はロア族の民だけ
ど、ロア族の言いなり、違う! 本心をぶつけないと、何も変わらない」
そう言ってヒナは、一度目を閉じて息を整えてから、改めてネイトを見つめてきた。
彼女は本気だ、理不尽な現実に抗おうと、仲間と対立していようと気持ちは折れていない。
「……じゃあ俺は、あんたが次に会いに来るまでに、イカダを造り直しておくよ。今度は島の
周りを一周しようぜ」
「っ、ヒューズがいると分かっていて、そんな危険な事、出来るか!」
ヒナは顔を真っ赤にして、しかし幾分柔和な表情を取り戻して叫び、ネイトはその反応にケラケラと笑ってみせた。
そしてくるりと体を翻すと、ヒナは顔をこちらを見ないまま、小さく呟いた。
「……ごめん」
「え?」
ネイトが思わず聞き返そうとした時には既に近くにヒナはおらず、森に向かって全速力で駆け抜けていく彼女の後ろ姿は、悲哀の念が浮かんでいるように見えた。
「くそ、結局ヒナ任せかよ、俺は」
ヒナと村の仲間との間に生じたトラブルは、ネイトが渦中にいる事は間違いない。
だがロア族の問題に、余所者の自分が口を挟む事は出来ない。
ロア族の人間はヒナが島の外の人間であるネイトと関わっていた事に不快感を抱いている、
だからこれ以上は会わない方が良いと彼女に告げた。
それはトラブルを悪化させないためには間違った方法ではないと思う、しかし会わないという事は、トラブルの解決を全てヒナに任せるという意味にもならないだろうか。
ネイトはヒナ以外の人間との接点を持っていないし、持とうとしても来なかった。ヒナの協力がないと、彼はこの島では無力でしかないのだ。
何度思ったか分からないが、今この時ほど自分が情けなくて憎いと思える時はないだろう。
自分が苦しむならまだ良いが、唯一の協力者であるヒナにまでトラブルに巻き込んでしまって、解決も彼女に任せるしかない今の状況を、男として平然と過ごせる訳がなかった。
「……甘くはない、って事か」
ネイトは天を仰いで息を整えてから、木片の散らばった砂浜を一瞥する。
どうせイカダの材料として再利用出来そうなものはない、回収もせずにその場を立ち去って洞穴に戻った後、水分補給のためにペットボトルをいくつか抱えて近くの川へと向かった。
ひとしきり水を汲み終えた後、ついでにネイトは所持品の手入れをする事にした。
食材を切ったり害獣に対抗するための武器として酷使してきたナイフは勿論、現時点では使うつもりはないものの、この先何があるか分からないためにともう一つの道具を、細かく分解して部品ごとに丁寧に洗浄していく。
洗った道具が渇ききるのを待つ間、ネイトは川辺に座り込んで、無言のまま焦点の定まらない視線を対岸へと向けていた。
(分かってただろ、いつかこうなるって)
異文化同士の交流には、必ず衝突が生じる。
ヒナは異邦者であるネイトを気遣う優しさと偏見を持たない柔軟な頭の持ち主だったが、ロア族全員がそんな出来た人間である筈がない。
それでも、ネイトは易々と迫害を受けるほど諦めが良い訳ではない。
元いた世界に戻る事を諦めるな、ヒナにそう激を飛ばされたからこそ、どんな惨めな思いをしようとも脱出だけは成功させなければならない。
ヒナという協力者であり心の支えである存在を失ったも同然の今、ネイトにはなりふり構っている余裕などなかった。
例え孤立無援となっても、ロア族に敵意を向けられたとしても、生き残るためには逆境を跳ね返す必要があり、行動する必要がある。
そのなりふり構わない行動をとるための覚悟があるのか、森に潜む獣や鳥の鳴き声、川のせせらぎを聞きながら、彼は自分自身に問いかけ続ける。
やがて、水で濯いだ道具が渇いた事に気付いたネイトは、それらをポケットにしまって立ち上がり、その場を離れる。
「……やるしかない」
吐き捨てるように呟くネイト。
それはこれから起こり得る事態を想定して、これからやるべき事を想像して、それらをやり遂げてみせるという決意を自身に言い聞かせるための一言であった。




