遭遇
「ん……ぐぷっ、はぁっ!?」
突き刺すような日差しに身が焼かれる感覚で意識を取り戻した軍服姿の青年は、自分が濡れた砂の上で仰向けになっている訳をしばらく考えた後、ハッとして体を起こし周囲を見渡す。
視界の半分以上を埋め尽くすのは輝くように澄んだ青い海、漂う複数の白い雲が漂う快晴の空、波の打ち寄せる白い砂浜、女優の写真集の舞台で見かけるような見事なまでの美しい海辺の景色が目の前に広がっていた。
「流されてきたってのかよ、ここまで……!」
穏やかに揺れる水面を見た時、自分が夜の海に投げ出された事を思い出し、連鎖するように意識を失う前に起きた事を思い出した。
彼の名はネイト、慢性的な小競り合いが繰り返される世界を牛耳る二つの陣営の内の一方の連合軍の下っ端歩兵で、この南洋地域における敵勢力の手に落ちた、海上貿易にとって重要な航路となる海峡の奪還作戦のため同じ部隊の仲間と共に軍の艦に乗っていたのだが、途中で敵軍の襲撃を受け、混乱の最中砲撃によって海へ落下してしまったのだ。
広大な海原にろくに救命胴衣をつける事もなく投げ出され、本来ならそのまま海中を彷徨って息絶えるか、海中に生息する人食い鮫の餌食になってもおかしくなかったが、ネイトは命を失う事なく近くの島に流れ着いたらしい。運が良いと喜ぶべきだが、本来任務のため派遣されてきた彼にとってこのエリアは全く未知の地域であり、助かる見込みのない遭難をしてしまったという絶望的な状況には変わりが無く、自然と口から溜め息が漏れた。
「あー……あぁ! くそ、ジョークにもならねぇよ! 縁もゆかりもないこんな無人島で残り
の人生をエンジョイしろってか!?」
生き残った喜びよりも先の見えない今後に陰鬱な気分に陥ったネイト、せめて生きていくために必要なものはないかと、とりあえず腰のベルトに装備している物を確認のため全て砂浜の上に乱暴に投げてみせる。
「ナイフに携帯食用バー、ボトルに水は……良し、漏れてないな。後は拳銃、ってこれ砂塗れ
になってんじゃん、うわぁ使いたくねぇなぁ……ん~、道具はともかく食い物はケチっても
一週間はもたないよなぁどう見ても」
敵の拠点に上陸後進軍する予定だったため、歩兵部隊に属していた彼の装備は極力最低限なものになっており、生きるために必須の食料と水も全て口にしたところで腹が満たされるとは思えない些細な量であった。
「とりあえず、休める場所を探すか。赤道の陽ざしはさすがに堪える」
このまま浜辺にいたら一日で丸焼きになっていそうなくらいに南国の猛暑に早くも汗を額から流しながら、ネイトはとりあえず島の沿岸部を歩いて回る事にした。
軍用の腕時計も壊れ時刻が確認出来ない分、かなりの時間を歩いている気がして余計に疲労を感じる中、やはり人の影は見当たらず、ここは世界の情勢と関わりのない島であり、助けを求める相手がいないと教えられた気がしてさらに落胆してしまう。
「森の中に入れば、木陰でもあるか?」
島全体に鬱蒼と生い茂る森は南洋特有の植生で、陽の光を浴びて緑の葉を輝かせ、たちこめる熱気には草独特の強い匂いが混じって思わず鼻をつまみそうになってしまう。
汗の匂いに寄ってきた羽虫を手で払いながら、迷子にならないよう近くの木にナイフで傷をつけて奥へと進んでいく。人工物が一つとして見当たらない、純粋なジャングルはどこか神聖な雰囲気すら漂い、世界随一の技術先進大国で生まれ育ったネイトにはとても異質で同じ世界の光景と信じられない気持ちにすらなっていた。
「お、この音は……!」
虫の鳴き声と葉の擦れる音ばかりが聞こえていた耳に明らかに違う種類の音が届いてきて、ネイトは音がする方へと駆けだす。
「おぉっ! やっぱ川じゃねぇか!」
木々の間を走り抜けた先に見えたのは、幅三メートル程の小さな渓流で、透き通るような水のせせらぎが暑さに侵された彼には福音のように聞こえる。
「飲める、よな? 飲めるだろ、あぁー、もう知るか!」
流されている間に海水を飲み込んだせいもあって喉が乾ききっていたネイトは、目の前の再現なく流れる水を前にして我慢出来る訳もなく、川へ駆け寄ると迷う事なく口をつけた。
冷ややかな水分が喉に一気に押し寄せ、求めていた潤いで生き返った心地になり、無我夢中で水を貪り、胃袋を淡水で満たそうとする。
「んぷはぁああ! はぁ~助かった! 川があるなら水には困らねぇよな。よしよし」
生きるのに最低限必要な水分を確保出来たと、先程まで抱えていた不安が消え失せ、この島で目を覚ましてから初めて緊張の糸が解れ、川辺に仰向けに寝そべるネイト。
人一人存在せず、常に猛暑に見舞われる密林の島。本来人が生活する場所でないところに流れ着いてしまった彼は、人の文明から取り残されてしまったといってもいいかもしれない。
脱出出来る可能性は低いだろう、サバイバルの訓練は軍で受けたが実際に活用した経験はない、そんな彼がこれから取れる手段は二つ、死を覚悟で無謀な脱出を試みるか、諦めて僅かな救出の可能性を信じてこの島で生き延びるかだ。
どちらも助かる見込みのない話で、焦ったり発狂したりする気にもなれず、逆に諦めがついたネイトは、しばらくはこの島で生き長らえるための手段を探す事に時間を費やそうと、川の水で満たされた腹を擦りながら何気なく決定する。
その時、背後の茂みで何かが動く音が聞こえ、ハッとして体を起こし後ろに目を向ける。
「なんだ、動物でもいるのか?」
無人島ならそれくらいいてもおかしくないなと思いつつ、ナイフを手に取り腰を上げる。
危険な猛獣なら対処しなければならない、神経を研ぎ澄ませて途切れていた緊張の糸を再び体に張り巡らせようと一つ息を吐くが、
「お前、誰」
それとほぼ同じタイミングで、今度は背を向けていた川の方から明らかに自分以外の人間の声がして、目を丸くしながら素早く体を反転させた。
「女、の子……?」
川を挟んだ向こう岸に、声の主は立っていた。
それはネイトより二回りは小さい体の少女で、この地域に多い褐色肌を持ち、毛先が荒れ放題の茶色がかったショートヘアの下に見える顔は幼いながらも整った美しさが垣間見える。
だがネイトが目を引かれたのは彼女の容姿よりも服装の方であった。
見た事ない大小様々な植物の葉と蔦らしきもので編み上げたような、胸元と腰を隠す造りの衣服を纏い、額には植物製の冠が乗っており、右手に先が鋭利に尖った木製の槍を持ち、背中には弓矢らしきものを背負っている。
ハイスクールの歴史の授業で習ったインディアンの衣装のような姿をしたその少女は、鷹のように迫力のある眼差しでネイトを睨みつけ、明確な敵意を示していた。
「おいおいなんだよ、原住民って奴か?」
同じ人間だが、これだけはっきり睨まれると尋ねるまでもなく彼女がネイトにとって味方ではない事ぐらいすぐに分かる。一応戦場で戦った経験のあるネイトは培った直感から反射的にナイフを構え直し、中腰になって彼もまた少女を強い眼力で見返す。
「おい! 君はここの住民かー!?」
「……」
案の定問いかけを無視され、軽く舌打ちをして次の言葉を探るネイト。
「あ~……俺は敵じゃない、遭難してたまたまこの島に来ただけだ。とりあえず武器を下ろし
てくれないか? 後出来れば食い物が欲しいんだが、持ってないか~!」
ちょっと図々し過ぎたかと思ったネイトだが、自分の住む国から遥か彼方に位置する、文明から外れた原住民に言葉が通じる訳はない、苦笑してひとまず出方を伺おうとするが、
「ヤン、センジャタ・オロスーン……っ!」
少女は何かをぶつぶつと呟いた後、手にしていた槍を足元の地面に突き刺す。
(あれ、通じた? 武装解除したのか?)
予想外の行動に、話が分かる奴なのかと一瞬期待を持ったネイトだが、数秒後それは落胆へと変えられる事になる。
槍を手放した少女は両手を背中へと伸ばし、背負っていた弓矢を掴むと迷わず射るための姿勢を取り、それから改めてネイトの方を見据えてきた。
それは獲物を狙う狩人の眼。相手を殺すためだけに意識を注ぎ込んだ兵士のそれと何ら変わらない、一瞬の隙も油断もない眼光に、ネイトは命の危機を感じて呼吸が止まりそうになる。
次の瞬間、ネイトは弾かれるように彼女の前から逃亡するべく走り出していた。
続けて何かが風を裂く音がした後、彼の足下の前方と後方それぞれ一メートル未満の至近距離の地面に矢が突き刺さる。
「ひゃっ、嘘だろ!? マジで殺しにかかってやがる!」
すぐに木々の茂みの中に飛び込んで相手の視界から姿を晦ませようとするが、後ろからはネイトを追って草の根を踏みつけ迫りくる人物の気配が常に付きまとい、僅かに狙いが外れた矢が彼のすぐ傍の木に当たって刺さったり弾け飛んだりする。
(ヤバイ……なんとかしねぇと!)
逃げるだけではあの敵は振りきれない、頭では分かってはいるが、彼の体は常に対抗よりも逃走を選択し続け、勇気を振り絞って立ち止まれという信号を発する事を許さなかった。
殺意なら戦場で数えきれないほど受けてきた。敵も味方も血眼になって殺し合う極限状態において、相手の迫力に怯んでしまえば隙が生まれ命取りとなる。軍学校からがむしゃらに訓練を受け、数度の実戦を経て殺意への免疫を培ってきた筈のネイトだが、それでも今自らを追っている敵に立ち向かう事を拒絶する強い恐怖が彼の心身を支配していた。
「……っ!」
一瞬、目の前の木を避ける際に横目で確認した追手の姿。
僅かでも獲物から視線を逸らさず、木の根や岩で凸凹した地面を強く蹴りつけ俊敏な動きで速度を緩めず、敵を仕留めるべく武器である弓矢を構えながら疾駆する名も知らぬ褐色肌の少女の、獰猛かつ気迫に満ちたその様子はネイトをあまりの恐怖で肝を冷えあがらせ、心臓を見えない手で鷲掴みにされたような錯覚を覚えさせ、動きを鈍らせる程であった。
「うぶっ!?」
その時、フッと彼女の姿が視界から消えたかと思うと、ネイトの鳩尾にハンマーで殴られたような重い衝撃が走り、数秒宙を舞った後に太い木の幹へ背中から衝突する。
「がぁっ……!」
足が地面から離れている間視界がぐるぐる回り、木に激突した衝撃と鳩尾に強く残る鈍痛に苦しみ、倒れたその場でのたうち回るネイト。
今まで訓練や戦場で受けたどの殴打や蹴りよりも強く、体の芯まで響くような重い一撃にネイトは驚愕し、自分の敵がどれだけ危険なのかを思い知らされた。
そんな彼の目の前には、弓を片手に持った褐色肌の少女が、見下ろすように立っていた。
息一つ上がっておらず、涼しげな顔で見下ろしてくる彼女の眼はひたすら氷のように凍てついており、躊躇いなく獲物を殺そうとするおぞましさが灯っている。
「な、なんだよおい! 俺は何もしてないってのによぉ……! ガキのくせに!」
歳が下の少女に殺されかかっている状況がおかしくて、ネイトは空笑いをしながらゆっくり立ち上がり、開き直ったように少女を睨みつけながらナイフを右手に白兵戦の態勢を取る。
すると少女は弓を手放し、木の槍を背後から引き抜き切っ先をネイトへ突き付けてくる。
無言のまま睨み合い、一分以上身動き一つ取らずに出方を伺う両者。
(こんな名前も知らない辺境の島で、会ったばかりの子供に殺されてたまるかよ!)
母国でも任務先の戦場でもない、地図に載ってないような場所で死んだ事すら身内に気づかれない人生の終わり方など受け入れてたまるかと、少女の一挙手一投足に意識を割く。
やがて痺れを切らしたように少女が片眉をひそめて閃光のような動きで一気に距離を詰めてきたが、ネイトも軍人としての経験と意地から死にもの狂いで彼女の放った槍の一突きをすんでのところで回避し、ナイフで槍を受け流した勢いのまま少女の肩口に斬りかかった。
「っ、きっ!」
だが少女は上手く体を仰け反らせてそれを回避すると、一層眼を険しくしてから槍を豪快に薙ぎ払い、ネイトの脇腹に強烈なカウンターを食らわせてきた。
「ぐがああ!」
身が抉れたかと錯覚する程の威力にネイトの体は軽々と数メートル宙を舞い、無様に地面の上に転がされ、激痛に悶絶して仰向けに倒れてもがき苦しむ。
「い、痛い……クソ、この……こんなやられ方……ふざけ……っ!」
あまりのダメージで朦朧とする意識で必死に抵抗しようとするが、少女は意図を読んだかのようにネイトの持つナイフを蹴り飛ばしてきて、あえなく武器を奪われてしまった。
落ちたそれを拾い上げる暇も隙もおそらく目の前の少女は許してはくれないだろう、既に一メートルもない距離まで近づき、槍を片手に今度こそネイトを仕留めようとしている。
(ウソだろ、マジでこんなところで、終わりなのかよ……!?)
どう足掻いても、この少女には勝てない。
それでも未開の地で息絶えるのは御免だ、だがどれだけ死にたくないと願っても、体が痛みで言う事を聞いてくれず、漂流して積もり積もった疲労と少女から受けた重い槍の一撃による激痛が重なって彼の意識は限界を迎えてしまう。
みるみるうちに意識が遠のいていき、上半身を起こすのがやっとであり、頭から魂が引き抜かれたかのように力が体から失われていき、もう一度倒れ込んで気絶してしまった。
消えゆく視界の中にぼんやりと映る、自らを追いつめる名も知らぬ少女の姿を確認する。
言葉も通じず、年端もいかない幼い少女にここまで一方的に痛めつけられた末に、仕留められてしまうのか。彼女の垢抜けなさの残る可愛らしい顔と彼女の強さとのギャップがあまりに滑稽に思えて、意識を失う寸前ネイトの口元は僅かに綻んでしまっていた。