掟破り 1
夕暮れが水平線に触れて空の彼方へ沈もうとする頃、ヒナは今日の狩りを終えて村に向かって歩みを進めていた。
野兎や鳥、豚の仲間のバビブタンといった比較的小さ目の獲物を多く捕えたものの、大物を見つけ出す事が出来ず、本人としては満足のいかない結果で終わり、ヒナの表情は晴れない。
(全部、あいつのせいに決まってる)
昼間、ネイトに関わって時間を潰してしまった事が原因だと彼女は疑いもしなかった。
脱出のために彼が造り上げたイカダを海に浮かべる手伝いをするまでは良かったが、彼が調子に乗って海の上をイカダで進みだした事で色々と予想外の事が連続して起きてしまった。
伝承に登場する獰猛な海中生物ヒューズが潜む海の上を、あの男は丸太で出来た乗り物という脆い乗り物で平然と漂い、戻ろうともしない考え方には度胆を抜かれた。
そんなに食われたいのかと呆れたものの、放っておく事も出来ずに慣れない泳ぎで自らも海の上に移動してしまったのは、咄嗟の行動とはいえ自分でも驚きであった。
「ありえない。私、あの危険な海に自分から飛び出していったのよ……!?」
もう一度やれと言われても絶対に恐ろしくて出来ないだろう、あんな行為。
だがそんなありえない事をしたお陰で、海の上で漂う感覚というものを知れた。
常にハウロア様の大地の上で生きてきたヒナにとって、島から離れるというのは初めての経験で、例え岸部が見える距離だったとしても衝撃的であった。
木や草は勿論、虫に獣、そして人間に至るまで存在しない、ただただ足下に途方もない量の水が広がった世界。
近くにあったのに知らなかった、初めての景色と初めての感覚。
それを教えてくれたのは紛れもない、この島に流れ着いてきたネイトという男であった。
いや、結果的にそうなったのであって、ヒューズがいる海に飛び出すなどロアの民のヒナにとってはやはりあってはならない事だと疑う余地もなかったのだが。
ただ、ヒナもそんな彼に付き合ったのは、彼女もまた心のどこかで『海は危険だから泳いではいけない』というロアの民の常識を破りたいという思いがあったからなのかもしれない。
(外の世界に興味なんて……)
今ネイトに尋ねられても、そんなものはないと言い切れると思う。
だがあの時、海の上でネイトと会話していた自分の言葉は、ロアの民として余所者に対する閉鎖的な感情を取っ払った、本心のみで構成された純粋なものだった気がする。
ロアの民として生きてきた自分が、ハウロア様の大地の外に好奇心をそそられている。
彼には外の世界に行かないかと誘われた、断ったものの尋ねられた瞬間、ヒナは言いようのない高揚感に体全体が熱くなった。
もっと島の外にある世界について知りたい、ネイトの口でしか分からない外の世界の出来事や物を見て触りたい、流れ着いたゴミの用途や映画に機械という聞き慣れない言葉をネイトが口走ったせいで、余計にその思いは強くなっている。
(あいつは、この島に来る前の世界だとどんな奴だったんだろ)
同時に、外の世界の存在を垣間見せてくれた余所者のネイト自身の正体についても、興味を持ち始めていた。
軍人という、人を殺して生きる血生臭い職業に就き、命なんて儚くて呆気ないものだと言っていた事から、冷めた価値観の持ち主だと思いこんで今日まで深くは聞いてこなかったが、何日もかけて接するほど、彼の不器用なところや頼りないところ、それでいてがむしゃらで脱出という目的のために迷わず行動する気持ちの良い性格の側面が見えてきた。
価値観の違いこそあるものの、ネイトの精神的に弱い部分がありながらもヒナの言葉を受け止めて立ち直っていく芯の強さは、過酷な環境の中で助け合って生きてきたロアの民と何ら変わりのない、同じ人間としての素質であった。
底の知れない異邦者という印象が、自分と変わらない只の一人の人間でしかないのだと変化していき、その分封じ込めていた彼や彼の生きていた世界への興味が漏れ出てくる。
「っ、何にやついてんのよ!」
自然と緩んでいた頬を軽く平手打ちして、ヒナは気持ちを紛らわせるように帰路を急ぐ。
だが木の根と野草の生い茂る山道を進む足取りは、ヒナ自身にも分かる程軽やかで、自分が今とても明るく快い気持ちになっている事に気が付く。
海の上を進む未知の経験への興奮と、届かない筈なのに彼と接する事で実感した外の世界への好奇心は、決して誤魔化す事など出来ない。
もっと知りたい、もっと経験したい、その欲求を満たすためにはネイトに尋ね、教えてもらわなければならない。
(明日もまた、見に行ってあげようかな)
ちゃんと脱出のために励んでいるか、獣に襲われたりでもして死にかけてはいないか、誰に聞かれた訳でもないのにそんな建前を頭の中に浮かべながら、ヒナは一夜明けるとまた彼に会いに行こうと心に決める。
狩り以外にする事のなかった日常の変化、最初は否定していた筈なのに、今では自分からその変化を求め、期待しているのはなんとも滑稽に思えるかもしれない。
だが、それこそ本当のヒナの気持ちであり、もはや抑える事など出来ない。
いつものように帰って晩飯を食べて寝て、明日になるのを待とう。
普段よりも幾分速く夕闇に染まる野山を駆け、滲み出る興奮に頬を緩ませるヒナは、しかしその暖かい感情が長くは続かない事を村に辿り着いて思い知るのであった。
「あれ? 誰か、こっち見てる?」
立ち並ぶ小屋が木々の間に見えてきたところで、前方に見慣れた人間が木陰に佇むようにして視線をこちらに向けているのに気付いて、走る速度を落としてその人物の顔を確認する。
「クー?」
「あ、ヒナちゃん」
その人物は友人のクーであり、ヒナに気付くと近くに来るように控え目に手招きの動作を見せてきた。
「どうしたの? クーが村から出るなんて珍しいじゃん」
「うん……ヒナちゃん、いきなりこんな事聞くのもおかしいと思うんだけどねー」
両手を後ろに組んで、視線を泳がせ体を揺らしてそわそわと落ち着かない様子でそう前置いてから、クーはヒナに一歩近づいて向かい合ってから、潜めるような声でこう言った。
「ヒナちゃん、掟の何かを破ったりした?」
「は……何それ、どういう事?」
「ううん、私も分からないんだけどー、狩りから帰ってきた人達の一部がヒナちゃんが戻った
らすぐにミハロイさんのところまで連れてこいって騒いでるって、お父さんが言ってて……
ヒナちゃん悪い事でもしたのかなって」
その瞬間、ヒナは全身に流れる血液が急激に凍りつくような錯覚を感じて息を呑んだ。
掟とは、ハウロア様が伝承を通じて教えてくださったとされる行動規範のようなものだ。
命の尊重、命を頂く事への感謝、ネイトに教えた事以外にもロアの民にはこの島で暮らすにあたって決まり事がある。
獣が活発になるため日が沈んでから村の外に出てはいけない、毎朝狩人は各自の身の安全を願いハウロア様に加護を求める祈祷を行わなければならない、海には獰猛な生き物ヒューズが潜んでいるため入ってはいけないなど多数の掟が存在するが、ロアの民にとってはそれらを守るのが生活する上での常識となっており、破った事がバレれば大抵ペレを始めとする年長者に折檻されるはめになる。
「さ、さぁ……よく分からないわね」
クーに言われて、ヒナはすぐに首を横に振る事が出来なかった。
なぜなら彼女は今日、禁じられている事項の一つである海へ入る行為を行ったからだ。実際に掟破りをしてしまったのは事実であり、ヒナの言葉も詰まり気味になってしまう。
もしかすると、海の中を泳いでいたのを目撃されてしまったのではないか、そんな不安が脳裏を過ぎり、気付けば彼女の額に冷や汗が浮かんでいた。