無知な希望
彼が内心驚いたのは、彼女がロア族にとって馴染みのない外の世界の話題に対して笑顔を見せた事だ。異邦者を嫌い、ロア族の生活に変化をもたらす事を望まない筈だっただけに、ヒナの反応は全く予想していなかった。
その時、ふと先日も脳裏を過ぎったある考えを思い出して、他に邪魔の入らない海上にいるこの時に思い切って聞いてみようとネイトは彼女に問うてみた。
「な、なぁあんた、一つ聞いていいか?」
「うん? なんだ、エイガの意味なら、全く分かっていないぞ」
「いやそうじゃなくて……あんた、俺がこの島から出て行ったら、どんな風に思うんだ?」
「どう、とはなんだ」
「だからその、喜ぶのかなって。ほら俺余所者だし、余所者がいなくなったらあんたは嬉しい
って思うのか、なんとなく気になったっていうか……」
なんで喋るほどに照れくさく思えてくるのは自分でも分からず、もごもごと口をどもらせてしまうネイト。
一方のヒナもそんな質問が飛んでくるとは思っていなかったようで、眉を僅かにひそめて戸惑うような表情を浮かべる。
「……それは、そう、だな。私は、ロアの民。余所者のお前、っ、邪魔な存在。だから島から
出ていくのを手伝って、いる。ハウロア様の大地から異物が消える、それは良い事だ」
やがて絞り出すようにしてヒナは答えを述べるが、どことなく声色が不安定で言葉もいつも以上にぎこちなく、露骨にネイトから視線を逸らしていて言動が不審に見えた。
「ん、そうか。まぁ、そうだよなぁ」
自分がいなくなる事に喜ぶと答えられ、ネイトも自身が予想以上にショックを受けて自然と嘆息が口から漏れ出る。
「だが……」
すると、ヒナがしばらく間を置いてから付け加えるように声を発する。
「……だが、お前の話す、外の世界の事、聞けなくなるのは少しつまらないかも、しれない」
「外の世界の事って?」
「お前が今言っていた、エイガとか、流れ着いた『ぷらすちっく』とかいう入れ物とか、今は
私が持ってる『どっぐたぐ』とか、私が知らなかった事、知らなかった物、お前に教えられ
た。戦争とか人殺しとかの話は嫌でしかない。だがお前の世界の事について知れなくなると
思うの、もっと嫌だって、今なら思っている」
途切れ途切れになりながらも、ヒナは本音を曝け出すようにゆっくりと言葉を重ねていく。
(こいつ、そんな風に思ってたのか?)
ネイトにとって、自分の住んでいた世界の道具や事柄について彼女に説明するのは大して意識する事もなく、知識を何気なく語っていたつもりだったが、ヒナには興味深い話として捉えられていたらしい。
それこそ、ハウロアという名の神を崇拝してこの島を母なる大地として信じている彼女が外の世界について強い関心を抱いているのが意外で、ネイトは内心驚いていた。
「あんた、島のもの以外は全部嫌って訳じゃなかったんだな」
「い、嫌に決まっている! ハウロア様から与えられたもの以外は、いらないものだ!」
「けど、聞きはしたいんだろ? 俺が知ってる、島の外の事」
「ん……聞くだけなら、別に害は、ないだろう」
もじもじと落ち着きがない様子で乾ききっていない髪を掻き毟るヒナ。
だがその照れ具合で余計に分かる、ヒナは島の外に興味を持ち始めていると。
今まで協力してもらいながらも、やはり自分とは住んでいる世界が違うのを思想や言動で思い知らされてきたつもりだったが、その二人の間にあった隔たりが急に希薄に思えてきた。
「じゃ、じゃあもう一つ、聞くけどよ」
その時ネイトは声に出すつもりは勿論、声として出るとも思わなかった、自身の心中に気が付けば現れていた言葉を発しようとしていて、それは躊躇いもなく口から出ていった。
「俺と一緒に島の外に出ようって言ったら、どう思う?」
「……は?」
髪をまさぐっていた手をピタリと止め、ヒナは時間が停止したかのように表情と体を強張らせて、ネイトの質問に耳を疑っているようなリアクションを見せる。
そして数秒後、ヒナの褐色の頬には突如今まで見た事のない桜色が浮かび上がった。
「このぉ、オランボードー! なんて戯言、口走っている、お前!」
腰を下ろした状態から目にも止まらぬで飛び退いて怒声を上げ、片手で海水をすくってネイトの顔めがけて浴びせかけてきた。
「わっ!? 冷たっ! 何すんだよオイ!」
「黙れ! ロアの民の私が、ハウロア様の大地から出るだと!? そんなの、ありえない!
お前、無礼! 不埒! なんと……このっ!」
拗ねた園児のように何度も腕を振って海水を飛ばして攻撃してくるヒナに、なんでそんなに怒るのかよく分からないまま、ネイトはとりあえず両腕で目に塩水が入らないよう防ぐ。
「待て、待てって! 何が気に入らなかったんだよ!」
「うるさい! そんな事、言われたら……考えて、しまう」
ひとしきりネイトを海水で濡らした後、ヒナは口元を手で押さえる仕草をしながら、聞き取りにくい声でそう呟いた。
「何をだよ」
「……島から出たら、何があるのかをだ。それはまずい、どうせ、出られないんだから」
照れ隠しに混じって彼女の声に浮かんでいたのは、消えかかった蝋燭のように淡い期待感とそれを掻き消す虚しい暗み、ヒナが言葉以上に複雑な感情を抱いているのが聞いていて分かったような気がした。
「あんた、島から出たいのか?」
「っ、違う。違うけれど、島の外の世界、見てみたいと思って、いる。お前のせいで、知って
しまったから」
ロアの民としてずっとこの島で生きてきたヒナにとって、ネイトの世界の存在は異邦であると同時に、未知なる世界として魅力的でもあったのだろう。
相容れない先住民族の筈だったヒナが、自分の住んでいた世界に興味を持っている。
そんな彼女が本当に島から出て知らない世界を知った時、どんな反応を見せてくれるのだろうと、ネイトは叶う筈のない想像に胸が膨らみ、期待となって彼の心を熱くさせた。
「ま、まぁ知らない事を知りたいってのは、おかしな事じゃないと思うぜ? この島に流れ着
いた時は希望なんてないって思ったが、あんたが狩りの仕方や生活に必要な知恵を教えてく
れて少しは気持ちが前向きになった。命に感謝するって言葉、学校の教科書やドキュメンタ
リーをどれだけ見てもピンと来なかったけどよ、あんたに会って理解出来た……ような気が
する。この島に流れつかなきゃ命の大切さなんて分からなかっただろうし、それを教えてく
れたあんたに会う事もなかった。あんたが俺に知らない事を教えてくれたんだからな」
「……ん」
我ながら真面目な顔で恥ずかしい事を堂々と言ってしまったような気がして、今度はネイト自身が顔が赤くなってしまう。
「だが、人には限界がある。私はロアの民だ、島から出る事は、ありえない」
しばらく互いに無言のままの時間が続いた後、ヒナが濡れた手で顔を拭って冷静さを取り戻したように落ち着いた口調で、現実味な言葉を放った。
「……そうだな」
ネイトも否定はしない、いくら慣れない水面に揺れて酔ったとしても、ネイトの生きる世界とヒナの生きる世界は違うという事実は変わらないのだ。あらぬ期待にいつまでも浮かれている訳にはいかない。
それでも、理想と現実を知って結局二人の関係性が変わらないままでいるのは嫌だった。
ネイトは、彼女が衣服の腰の部分に引っかけていたあるものを指差してこう言った。
「それ、あんたにあげるよ」
「え、それ、とは?」
「ドッグタグ。今あんたが俺から預かっているそれだよ、カエルに怖がった事を黙らせるため
に人質代わりに持ってる奴な」
「かえる……くっ、あの話は、するな! ……待て、いいのか? これを手放して」
「軍人としての俺には身分証明として必要だが、漂流者の今の俺には大して役に立たねぇ。け
どあんたが持ってれば、俺がこの島にいたっていう証拠にはなるだろ? だから、どうせな
らあんたに持っててもらってた方が俺もそのドッグタグも嬉しいかなって思ってな」
「嬉しい? お前が……?」
ヒナは戸惑った様子で腰元にあるドッグタグに触れ、しばらく考え込むように俯く。
「いや、待て、なら意味がなくなる! 私がその……ローロス相手に、不覚をとった事、秘密
にする約束、ドッグタグがお前にとって必要、前提だから……」
元々ヒナは彼女が蛙に驚いて取り乱してしまった事を他人に口外させないために、ネイトのドッグタグを預かったままにしていた。
実際のところネイトはこの島ではヒナ以外言葉を交わす相手がいないので、別に気にしていなかったのだが、彼女からしてみればドッグタグを返さなくてよくなると、ネイトが自身の恥ずかしい姿について語らないという約束を破るのではと危惧しているのだろう。
「あぁ~、いや気にするな、言わねぇから。あんたが蛙相手に飛び上がってたところとか」
「だから、口に出すな!」
槍を突き出しふーふーと息を荒げて本気で忠告してくるヒナ。
あの姿を見られた事が相当な屈辱だったんだなと、内心含み笑いしながらネイトは両手で落ち着けとジェスチャーしながら宥める。
「……じゃあ、俺が島を脱出する時にそれはあんたにやる事にするさ」
「島を、出る時、だと?」
「あぁ、島を出ればあんたの秘密をバラす相手もいなくなるしな。それまでは預かってるって
事にしといてくれ。いいだろ? 後、槍は下ろしてくれ」
「……それなら、構わない」
槍を傍に置いて溜め息をつくヒナを見ながら、ネイトはある思いを抱いていた。
(あんなもんでも、俺がここにいた証ぐらいにはなる、か)
今までヒナに知識や技術、食料に激励と何もかも貰ってばかりであったが、他愛のない程度とはいえ何か彼女のために、この島に与えられるものがないだろうか。
それこそ、彼女が関心を抱いた、自分が住んでいた世界についての何かを。
「どうせ、ないんなら」
「え?」
「どうせ島から出られないなら、あんたが知りたいと思った事、俺が知ってる範囲で出来る限
り教えてやるよ」
「教えるって、何でも、か?」
「何でもだ、あんたが知りたいって思ったなら全部。あんたに貰った恩がそれだけで全部返し
きれるかは分からねぇけど、与えられるだけってのも嫌だからな」
別に博識なつもりはないが、短い人生で見聞きしてきた事ぐらいは教えてやろう、ネイトはヒナを喜ばせたい一心で胸を張った。
「……そ、そうだな。何かを授かった者は、別の形で返さなければならない、ハウロア様の教
えに沿って考えるならば、決しておかしい考え方では、ない」
ヒナは海風の音に掻き消されそうなくらい小さな声ながら、肯定的な言葉を返してくれた。
「だ、だがその前に、早く島へ、戻せ。このままでは、ヒューズに狙われてしまう!」
「ん、あぁ、大分流されちまったな……ん」
ふと透き通るように美しい水色の海に視線を落としたネイトは、その拍子にある映画のワンシーンを思い出して、早速ヒナに教える事にした。
「どうか、したのか」
「いや、この前夜中に見た鮫が出てくるパニック映画で、こうやってボートの上にいたカップ
ルが一番最初にでかい鮫に食われてた思い出してな」
「っ、お前、さっきはヒューズは臆病者で人を襲わないような事、言っていたではないか!」
「あくまで映画の中での話だっての。心配しなくても最初に食われるのは大体男の方だ」
「いや、村の伝承によれば、ヒューズは目に映るものならば、例え陸の上にいる生き物でも、
獰猛な牙で食らう。お前の世界でも、ロアの民の教えに通じる歴史、あったに違いない!」
「言い伝えってのは真実とは限らないぜ? 人間は話を大袈裟に語るもんだ、俺の軍人仲間で
腹を敵兵に撃たれて死にかけた経験があるって自慢してた奴がいたんだが、後で別の兵士に
聞いたらそれは塹壕で待機してた時に仲間とふざけて銃を暴発させて負った傷だって分かっ
て馬鹿にされてたのがいたんだ。他人の言葉は鵜呑みにしない方が良い」
「お前! 先祖代々語り継いできた戒め、愚弄する気か!」
「いやそうじゃねぇけど、変に怯え過ぎるのもよくねぇと思うんだよ。まぁ蛙なんかが怖いな
ら鮫が怖いってのも分からないでもないけどな」
「この……また言った! もう、いい! お前の言う事、何も聞きたくない! 不快だ!」
ネイトのからかいにすっかり機嫌を損ねてしまったヒナは、さっさと砂浜へ戻るべく槍で波を掻き分けイカダを進めようとする。
「おいおい、そんな怒るなって。気に入らない話だけ聞かないのは、グローバル社会の中で孤
立する原因になるんだぞ」
「訳の分からない事言って、誤魔化すな! やはり余所者、ロアの民とは相容れない!」
この様子じゃしばらくまともに話を聞いてくれないだろう、調子に乗り過ぎたなと内心反省しながらも、感情的になった彼女の姿を見ると顔をにやつかせずにはいられなかった。
人間よほどフレンドリーな性格でもない限り、他人と交流する時は言葉遣いにしろ行動にしろ一線を置いて身構えた接し方をするものだ。相手に失礼ではないか、相手に不快な思いをさせるのではないかと無意識的に気にして取り繕った言動を取り、本来の自分の感情を表に出す事を避けていく。
しかし心を許した相手に対しては例外である。親や兄弟、友人に恋人、長い時間プライベートを共有してきた人物との間には取り繕いや建前と言った偽物の自分を作る必要がなくなり、本来の姿で接する事が出来る。
気を許す。発展が極みに達しハイテクな技術革命が続けられながらも、絶えない戦争と増え続ける犯罪の横行する現代社会において、人間が他の人間に百パーセント安心して関わる機会など皆無に等しかった。
親しいと思っていた友人に小さな軋轢から苛められたり、僅かな疑惑から恋人を信じられずに暴行したり、たまたま目の前にいたからという理由で異常者に殺害されたりと、人による災難が後を絶たない今の時代、誰もが他人に対して疑心暗鬼になるのは当たり前であった。
ネイトにとって気を許せた相手は故郷にいる家族と、軍人になる前から長い時間苦楽を共にしてきた戦友のジャックとブライアンのみであった。彼等と話す時は言葉遣いも気にせず相手の心情を量って言葉を選ぶ必要もなく、ありのままの自分で接する事が出来た。彼等二人と同じ空間にいる時だけは他人への警戒心というものが解け、隔たりのない関係でいられたのだ。
だが、ジャックとブライアンはもうこの世にはいない。敵軍の容赦ない砲撃によって戦艦ごと吹き飛ばされ、縁もゆかりもない赤道直下の南海の藻屑と消えてしまった。
だからネイトは思ってもいなかったのだ、先住民が支配するこの島に漂流した今この時、文明発展から逸れた価値観も言語も違う人間相手に、こうしてふざけ半分に会話が出来る事が。
いや、正確にはそんな風に気を許す事を可能とする、緊張感の介在しない緩みきった空気がこの島の中で、ヒナという一人の少女にのみとはいえ感じられているという事が、だ。
「鮫は人を食うけど、蛙はせいぜいヌルヌルするぐらいだぜ?」
「うるさい! 気持ちの悪い事、言うな!」
ヒナに怒鳴られたのは何度目か分からないが、照れと怒りの混じった感情を露わにした表情や声色からネイトに対しての警戒心が幾分が解けていると思うのは気のせいだろうか。
少なくともネイトは彼女への、心の奥深くにあった『先住民族の少女に対する不気味さ』というものが消え失せていて、彼女に対して気を許している。
ネイトにとって唯一の協力者である彼女以外に頼れる人物はいない、彼女を信じられないならこの島にいる他のロア族の誰を信じる事など出来る筈もない、ここまできたならとことん彼女に頼って、彼女を自分が島で生き抜くための希望としてやろう。
吹っ切れた気分に気持ち良ささえ感じながらネイトは流木を拾い上げ、イカダを砂浜に向けて進ませるべく漕いでいくのであった。