二人の狩り
「うおーし! とりあえずこんな感じでいいだろ!」
両手に腰を当てながら、砂浜の上で満足そうに大きな声を上げるネイト。
一度目のイカダの水没からさらに数日後、ネイトはヒナに言われた通り手製の斧で切り倒した太い木を下手糞ながらも長さを揃え、蔦を使って結び合わせて土台部分を造り上げた。
正しい作り方かどうか怪しいが、とりあえず最初よりは見た目も頑丈さもマシになった。
まだ上辺の部分を作らなければならないので完成には程遠いが、一歩脱出に前進したと思って良いだろう、ネイトは汗びっしょりになった体を休ませるべく、ペットボトルに入れていた水で喉を潤してから、住処である洞穴の方へゆっくりとした足取りで戻っていった。
「って、食い物減ってきてたよなー。水汲みにいくついでに探しに行くかー……」
先日ヒナに貰ったオオトカゲの肉はとっくに食べ尽くし、周辺で獲ったピタヤなどの野生の果物も残りが少なく、中には傷み始めているものもあった。
脱出にはまだ日にちがかかる、そろそろ食料確保に出なければならない時のようだ。
一休みしてからネイトは食べ物を探すべく、木の棒と岩を合わせて作った斧と空のペットボトルを手に森へと足を進める事にした。
昼下がりの時間帯となった森の中は焼けるような日差しが差し込んで蒸し暑く、草木独特の匂いが充満して鼻をつき、歩くだけで体力が奪われるような状況だった。
落ちていた木の皮をお盆代わりにして、目に入った果物を手当たり次第にむしっていく。
「んー……正直、飽きてきたんだよなー」
手にしたピタヤを見つめながら、溜め息混じりに呟くネイト。
この島に来てから、彼の胃袋は殆どか果実によって満たされてきた。それで餓死を免れてきたのだから別に問題はないのだが、最初の頃にヒナに手伝って貰って調理したトカゲ肉を食べたせいか、そろそろガッツリとして腹の膨れる物が食べたくなってきていたのだ。
贅沢な悩みかもしれないが、体は正直だ。やはり若い男は果汁だらけの果物より血の通った生き物の肉の方が好みらしく、考えれば考える程にその欲求は強くなってくる。
「っ、探せばどこかに、俺でもやれる動物くらいいるだろう……」
サバイバルはド素人とはいえ、軍人としてある程度は鍛えられた体を持っている、必死になれば動物の一匹ぐらい仕留められる筈だ。
(あいつに次会った時、自慢してやるか)
このまま果物狩りばかりしていては、ヒナにしょぼい奴だと見下されるような気がする。あのロア族の少女にこれまで助けてもらってばかりだが、少しは大人として見返してやりたい、そんな気持ちも密かに彼の中に湧き上がっていた。
ネイトはさらに森の奥へと進み、捕らえられそうな生き物がいないかを探して歩き回る。
鳥は空を飛んで手が届かない、足に傷を作ったあのオオトカゲは相手をするにはリスクが高過ぎる、以前ヒナが捕らえていたような小動物を奇襲で襲うのが現実的だろう。
しばらく探し続けて、ネイトはようやく落ちた木の実を漁る数匹の茶色いウサギを見つけ、気付かれないように息を凝らし、足を止める。
(飛び掛かれば一羽ぐらい当たるだろ……!」
抜き足差し足で忍び寄り、落ち葉で足音が鳴らないよう細心の注意を払いながら、斧を構えて近づいていく。
ウサギ達との距離が五メートル弱まで詰まったところで、ネイトは一度足を止めると、
「っ……ふっ!」
気持ちを落ち着けるように小さく深呼吸した後、意を決して猛烈な勢いで地面を蹴りつけ、ウサギを仕留めるべく前方に向かって飛び出した。
僅か数歩で獲物との距離はゼロになる、気付かれて逃げ出すまでの隙に一撃を食らわせてやれるかどうかが結果を左右する。
ネイトは持てる力全てを出して筋肉を酷使し、ウサギ達に急接近していく。
そして後一歩で斧のリーチに獲物が届く距離になる、その時だった。
「あっ? んがぁ!」
突如、片足に浮遊感が生じたかと思うと、一瞬にして視界が百八十度反転し、ネイトの体が宙へと投げ出された。
ぐるぐると視界が回って何が起こったのか分からないネイトは、数秒の間を置いて自分の体が逆さまになり、片足一本で吊り下げられている事をようやく理解する。
「なっ……んだこれ、トラップか!?」
どうやら葉っぱで隠された穴の上に置かれた植物の蔓で編まれた縄の輪を踏みつけた拍子に引っ張り上げ獲物を宙吊りにするタイプの罠が仕掛けられていたようで、ネイトの片足がまんまと輪っかの餌食になってしまったらしい。
地上三メートル程の位置に逆さ吊りにされたネイトは、とりあえず体を罠から解放するため斧を振るって縄を傷つけ、足の拘束を解こうとする。
縄は案外あっさり切れたが、言うまでもなく宙吊りだったネイトの体は頭から地面へと落下していった。咄嗟に後頭部を両手で防ぐものの、地面に落ちた痛みが上半身を中心に駆け巡って彼の顔が苦悶に歪む。
「いっ! ……ってぇ、しかもトカゲに噛まれた方の足を……誰がこんなの仕掛けて……」
いや、考えなくても分かる、ロア族の誰かが獲物を狩るために設置していたに違いない。
今のネイトは両足を広げて仰向けに倒れた無様な格好で、すぐにでも立ち上がりたかったがじんじんとした痛みで中々動こうとする気力が起こらない。
そんな中、落ちた葉や枝を踏みつける音が鼓膜に届いてきて、続けて何者かが近づいてくる気配が地面からの震動を伴って現れてきた。
「なにしてる、お前」
倒れたネイトの足下で立ち止まった気配の主は、彼の予想通りヒナであった。
今日も狩りの途中らしく、槍を片手に持った状態で仰向けのネイトを見下ろしており、気のせいか表情が少し嘲笑うかのように緩んでいた。
「ひでぇなぁ、そんなに俺を痛めつけたいのかよ」
「馬鹿、言うな。その罠、動物捕らえる、目的。ロアの狩人、引っかからない」
「はいはい悪かったな、俺は間抜けですよー」
服についた葉を払い落としながら立ち上がり、改めて辺りを見回すが、既に野ウサギはどこかへ逃げ去ったようで、小さく嘆息するネイト。
「こんなところで、何、していた。木を切るつもりか?」
「いや、ディナーでも探そうと思ってよ、けど上手くいかないもんだなぁ」
「でぃなあ?」
「食い物だよ。生き物の肉が欲しくなって、狩りの真似事をしようとしてたんだ」
「ふん、生き物を狩る、簡単でない。軟弱なお前には、無理」
「やっぱそうか? このまま果物ばかりの健康生活続けるしかねぇのかねぇ」
小さく苦笑いし、ネイトは頭を掻く。
獲物にも逃げられ、罠にもかかって、なんだか興が冷めた感じだ。大人しくイカダの完成に精を出そうかと、砂浜に戻るため足を元来た方向に向けるが、
「……待て、お前、狩り、したいのか」
ヒナが少しの間を置いてからそう尋ねてきて、ネイトも思わず足を止める。
「ん? したいっていうか、出来たら肉を食えるようになるからな」
「そう、か。ん……」
何かもごもごと口元を動かして落ち着かない様子のヒナは、ネイトに背を向けて彼の進路とは反対方向、森の奥の方に数歩進んでから、再び顔だけを振り返らせて、
「ついて、来い」
「何だって?」
「狩らせて、やる。食べる物、自分で獲る。果物も生き物も、変わらない」
早く来いと顎で指示してきたヒナは、そのまま一人で木々の間をすり抜けて森の深部に向けて進んでいく。
「お、おい」
呼びかけてみるがヒナは止まる様子がなく、無視するのも気が引けるのでネイトは仕方なく彼女の後を追ってみる事にした。
大きな岩や急な斜面に苦労しながら山の中腹にまで進んだ後、二人は今まで見てきた木より遥かに大きい、高さ三十メートル位はある大木が立ち並ぶエリアにやってきた。
「はぁ~、でけぇ」
「喋るな、獲物、耳が良い、逃げられる」
声を潜ませて忠告してきたヒナは、中腰の姿勢になって近くの木の陰に何かから身を隠すような体勢を取り、ネイトも見よう見まねで彼女の後ろにつく。
「向こう、池の畔、見ろ」
彼女の指差した先には、半径百メートルもないこじんまりとした池が森の中にポツンと存在し、その端では数頭の鹿らしき生き物が口を水面につけ、喉を潤している姿が見えた。
「ルサン、狩りの素人、よく狙う。数が多い、人を襲わない、狙いやすい」
「なるほどね、チュートリアルにはうってつけって訳だ」
ネイトが呟く傍で、ヒナは慎重かつ素早い動きで背負っていた弓を手に取り、続けて矢筒から矢を抜いて再度ルサンと呼ばれた鹿の群れに視線を向けた。
慣れた行為からか非常に手際が良く、近くにいるネイトにも殆ど物音を聞き取る事が出来なかった、かなり洗練された動きだというのが分かる。
「……」
弓矢を両手に持ったまま動きを止めたヒナの放つ空気が一気に引き締まり、ネイトの肌に刺すような錯覚が伝わってきて、自然とネイトも息をするのさえ躊躇ってしまう。
やがて鹿の内の一頭が他の仲間から離れ、立ち並ぶ大樹の皮を口で弄りだした。
「食事、始めた。ポホンバスの木の皮、硬い。一度始まると、時間かかる」
虫の羽音のように微かな声でヒナが言った通り、鹿の一頭は食事に夢中になっているようで、木の皮を口で器用に剥いてそれを無心で咀嚼している。
「てか、木の皮食えるような顎してんのか、あの鹿」
「ルサン、噛めるもの、大体食べる。木でも岩でも、ルサンの歯なら、砕ける」
「おい待てよ、それじゃ危険な生き物じゃねぇのかよ、あれ」
「動く生き物、基本食べない。繁殖期のメスは、噛みついてくる事、たまにある」
「ちなみに繁殖期っていつだよ」
「これから、一番気が荒くなる時期」
やっぱヤバイじゃねぇか、とひそひそ声で愚痴を垂れたところで、ヒナが口元に人差し指を立てるポーズをして改めて静かにしろと釘を刺してきた。
それから手にしていた弓の弦に矢を沿わせると、鏃の照準を食事中の鹿に向けるように弓を構え、眉間に皺を寄せて険しい眼光を浮かべる。
僅かの間呼吸を止めたかと思うと、次の瞬間迷いなく、指を弦から離し矢を放った。
矢は大木の幹や枝葉のすぐ横を舐めるように通過していき、空気を切り裂いて一直線に鹿めがけて進んでいく。
距離にしておよそ二十メートル近くを一秒の間に飛翔した矢はそのまま鹿の後ろ脚の部分に突き刺さり、鹿の甲高い悲鳴が森の中に響き渡った。
他の鹿達は驚いて一目散に池の畔から逃げ出していき、足を射られた鹿はジタバタと暴れながら力を振り絞ってその場から離脱しようと試みている。
「やべ、逃げるぞ」
思わず身を乗り出しそうになったのをヒナに制止されたネイトは、彼女が弓矢を持っていない方の手で木の槍を持ち、こちらに差し出すようなポーズをしている事に気付く。
「追え。追いかけて、仕留めろ」
「仕留めろって、もう走ってったぞ?」
「だから追えと、言ってる。ルサン、弱ってる、早く追って、これで急所を刺せ!」
とっとと行けと苛立ち気味にヒナに指示されるがまま、ネイトは槍を受け取って鹿を見失わないよう慌てて後を追っていく。
足を負傷しているとはいえ、生命力の強さからか鹿は思いの外減速しないまま走って森の中を駆けていき、視界から消えないように走って追いかけるだけでネイトには精一杯だった。
「ひっ……待っ! くそ、速いって!」
木を避け、岩を飛び越え、斜面を登ったり下ったりを繰り返すものの鹿との距離は縮まらない、しんどい上に見失ってはいけないという焦りが募って、余計に足取りが乱れていく。
いつまで続くのかと気力が失われそうになった頃、ネイトは遠くに見える鹿の姿が先程よりも大きくなってきている事に気が付く。
どうやら怪我の影響が出てきたらしく、弱った鹿の動きは明らかに鈍くなっていた。
チャンスとばかりにネイトは息を荒くして流れる汗を撒き散らしながら懸命に足を動かし、ようやく槍の射程が届く範囲まで接近出来た。
「っ……刺すぞ……」
槍を両手で構え直し、首元めがけて突き出してやろうとするネイトだが、体の横側をこちらに見せる鹿もやられまいとおぼつかない足取りでネイトから離れようと抵抗する。
離れてみている時には分からなかった、鹿の乱れた息遣いや目の輝き、皮膚に隠れた筋肉の微細な動き等が生き物である事を証明し、自分は生きている相手を殺そうとしているのだとありありと実感させられる。
これからこの生き物を傷つけ、殺し、命を奪う。そう思った途端、ネイトの震えを覚え、間近にいながら攻撃する事を無意識の内に躊躇ってしまっていた。
「馬鹿、刺せ!」
「っ! うおお……!」
背後からのヒナの一喝で我に返ったネイトは、奥歯を噛みしめてから意を決して両手を使い槍を勢いよく鹿めがけて突き出した。
首を狙ったつもりだったが、鹿が動いたため槍の先端は胴体の方にズレて刺さり、茶色い皮膚に阻まれてあまり深くは刺さらなかった。
悲鳴じみた鳴き声を漏らしながら、鹿は最後の力を振り絞るように再び暴れ出した。
「うおっ!?」
振り上げられた後ろ足が当たりそうになって思わず尻餅をついてしまったネイトは、先程まで自分から逃げようと背を見せ続けていた鹿が初めてこちらに顔を向けている事に気付く。
人間のように表情豊かではないが、それでも眼前に見えた鹿の顔には殺されてたまるかという意志が浮かび上がっているように思えて、ネイトの体をおぞましい悪寒が駆け抜けていく。
生き物が殺されかけた時はどうするだろうか、わざわざ考える必要はない。
死にたくないなら、自分を殺そうとする相手に抵抗して、自分が相手を殺すしかない。
(こっ……やられるっ!?)
この鹿は生き延びるために自分を攻撃しようとしている、そう直感したネイトは咄嗟に立ち上がると同時に、先程まで躊躇っていた槍による突きを乱暴に何度も鹿めがけて繰り出した。
頭や顎、目や胴体に執拗に槍の鋭利な先端が刺さっては鮮血を流れさせ、その度に鹿の口から痛々しい鳴き声が響き、しかし無数の刺し傷は確実にダメージとなっていたらしく、やがてその悲痛な声もか細く萎んでいき、抵抗する力も弱くなっていく。
そして力を失うようにガクンと足が折れ、血に染まった地面の上に骸となって倒れ込んだ。
「はぁっ……! はぁっ!」
それでもまだ事切れていないのではと思うとまた恐怖が込み上げてきて、さらにトドメを刺そうと槍を振り上げるネイトだったが、
「……いっ、おい! もういい、ネイト!」
「あっ……」
いつの間にか傍にいたヒナに名を呼ばれ、興奮状態だった頭が冷水をかけられたように落ち着きを取り戻していく。
「無駄な傷、肉を腐るの早くする。生き物を傷つける、すごい疲れる。少し休め」
ヒナに言われて緊張感が体から抜け落ち、地面の上に腰を下ろしたネイトは、足下にあった岩や草に鹿から出た血が散っているのを見て、自分が生き物を殺した事を実感する。
「うっ」
槍を手放しても尚手の平に残る、鹿の体に槍を突き立てた時の感触が気持ち悪い。
「狩りをして、どんな気分?」
「ん……あぁ、なんていうか、ヤバイな……」
攻撃を加える度に手に伝わってきた、生き物を殺しているという実感。
兵士として戦場に駆り出され、敵を殺した経験もある。ネイトが鹿を仕留めた時に覚えた恐怖とも不気味ともとれる感覚は、初めて敵軍の人間を手にかけた時のそれと酷似していた。
殴って怪我を負わせたのとは訳が違う、この世から一つ命を奪ったという罪悪感に襲われ、精神が狂いそうになるくらい不安定になるあの気持ち悪さは、何度も戦場を経験した事で克服したつもりだっただけに、今の自分の怯えようが情けなく思える。
「命を奪う、大変な事。驚く事、当たり前」
だがヒナは腰が引けたネイトを笑ったりはしなかった。
「当たり前、か」
「そう。私も、最初に狩りをした時、躊躇った。戸惑った。暴れる獲物、夢中で殺して、その
後急に寒気がして、泣いた。今だって、出来ればしたくない」
動かなくなった鹿の死骸を見たり触ったりして状態を確かめながら、ヒナは告白する。
「それでも、無駄な行為、違うって、婆様言ってた。命を頂く、簡単じゃない。それを分から
ない者、生きているありがたさも理解出来ない。だから、生きるために狩りを続ける」
ヒナがロア族に伝わるハウロアという名の神を信仰し、この島に住む生き物の命を尊いものと捉えているのはこれまでの彼女の発言でも分かっている。
そして彼女が毎日繰り返してきた狩りを経験し、命を奪う不快で辛い感覚を思い出した今ならば、彼女なりの命の重みの考え方も理解出来るような気がした。
「……偉そうな事は言えねぇよな」
「何がだ」
「俺はお前に、人を殺した事を自慢した。命は消えたら何も残らない、そんな程度のものだっ
て言った、それは今だって間違いだとは思ってない」
けどよ、と一度言葉を区切ってから、ネイトは鹿を殺した後に急激に湧き上がってきた感情を素直にヒナへと明らかにする。
「俺のいた世界じゃ、そんな事気にしてたら頭がおかしくなっちまうんだ。戦争ばっかやって
る今の世の中じゃ、兵士が一人くらい殺した事がないと逆に笑われるくらいだった。殺さな
いと生き残れないが、殺して生き残れば仕事を果たしたとして金を貰える。だから我慢して
必死になって敵の命を奪って……いつの間にかそれが普通になってた」
遭難してこの島に流れ着く事がなければ、ネイトは兵士として当然のように戦場に出ては敵を殺すために奔走する日々を今も続けていた事だろう。
この島に来て、ヒナと出会ったから、命を奪う事の重大さを思い出した。
別に自分は人殺しに慣れていた訳ではない、鹿を狩るのもビビッてしまうくせに、命を奪う事に抵抗がないつもりになっていただけだ、なんて情けない。
「やっぱ、俺の住む世界の方が、狂ってんのかもな」
頭を掻き毟りながら、苦笑を浮かべるネイト。
「なぜ、そう、思う?」
「あんたが言ってただろ? 人が人を殺すのはおかしいって。俺の生きてきた世界はそんな蛮
行に溢れて、容認されてる。俺もそんなおかしな世界に毒されてたんだとしたら、戻っても
良いのかって、考えてしまいそうだ。正直喜ぶ自信、ねぇかもな」
今まで生きてきた自分の世界が異常に見え、未開の地だと思っていたこの島がまともに感じられるようになっていた。
便利でもないし、楽でもない、日々食い繋ぐ事に必死になる今の生活は、しかし自分が今生きているという実感に溢れ、決して苦しいだけとは思えない、それがネイトの本音であった。
「……なら、脱出、やめるか?」
怪訝そうに声をくぐもらせながらヒナに尋ねられ、ネイトはやや思案した後、
「っ、血生臭い世界に戻るより、ここで野垂れ死んだ方が幸せなのかもしれねぇな」
本音半分、冗談半分のつもりで、そう答えた。
その直後だった、胸元に強い衝撃が走ったかと思うと、自身の上半身が僅かにだが無理矢理何かの力で持ち上げられる感覚に襲われたのは。
「オランボード! お前、ふざけた事、言うな!」
それがヒナに胸倉を掴み上げられたのだと気づいた時、出会った初日以来の煮え滾るような怒りの色で染まった彼女の瞳にネイトは声も出せずに息を呑む。
「お前だって、言っていた! 家族、友人、いる。だから戻るって! 私、お前の生きてきた
世界知らない、人が人を殺す、私許せない。けど、お前に会って分かった。ロアの民の常識
が通用しない人間がいて、世界があるって。気に入らない、でも気になっても、いた。私の
知らない世界がある事、お前やお前の言葉で知った。それ、無駄な事、違う!」
ヒナはそう言ってネイトの服から手を離し、彼の体がまた地面の上に倒される。
「お前、余所者! だから外の世界に戻る事、諦めるな! お前の世界の全て、お前にとって
どうでもいい事、なのか!」
胸に響くような怒りの叫びに、ネイトは島に流れ着く前の事を思い出した。
確かに人が毎日山ほど死ぬ世界にうんざりしてはいたが、それでもなんとかこの歳まで生きてきた。打ちこめる趣味はあったし娯楽も周囲には山ほどあった、家に戻れば家族がいたし、仕事場でも気の合う友人も出来た。どれだけ人殺しの仕事をこなしても自分の生き方に絶望しなかったのは、まともに生きられる環境と親しい人間の存在があったからだろう。
いくら世界が狂っていても、自分の周りの世界まで捨ててしまいたいとは思えない。
「……いや、ちげぇ。俺の居場所は、この島の外にある。あんたの言うとおりにおかしな世界
でも、俺には戻る理由がある。兵士に戻ったとしても」
生き物を殺す恐ろしさを思い出した今、次に戦場に出た時ちゃんと敵を撃てるかどうか、正直自信はない。命を奪う事への抵抗を、思い出してしまったから。
それでも、戻らなくていいなんて理由にはならない。兵士という心身共に擦り減るような過酷な仕事を続けた事で保ってきた人間関係と生活の環境は、失う訳にはいかない。
例え既に死んでしまった戦友達だって、陸に上がって供養してやらなければ、成仏だって出来ないかもしれない。そのためにも、ネイトは生きて島から脱出しなければならないのだ。
「サンキュー、あんたに説教されて目が覚めたよ」
「さ、サンキュー……感謝、だったか? い、いや、何がだ」
「俺が元の世界へ戻る理由に気付かせてくれた事にさ」
何か重荷のようなものが体から抜け落ちたようにスッキリとした気分になったネイトは、朗らかな笑顔でそう答えた。
「……フン、ロアの民の世界、この島だけ。だから自分の世界否定する事、自分の存在否定す
る事。生きてきた場所を否定する、育ててもらった環境への裏切りになる」
ぷいっと顔を背けながら、ヒナはやや震える声でそんな言葉を口にする。
「それに、お前、出て行かないと、困る……」
気のせいか、その時だけ彼女の言葉ははっきりとせず、複雑な表情を浮かべているように見えたが、ネイトは特に気にはならなかった。
そして軽やかに立ち上がるとヒナの横を通り過ぎて、息絶えた鹿に近づく。
「ほら、捌くんだろ? 教えてくれよ」
「お、おあぅ」
ヒナは戸惑うように声をどもらせながら、ネイトから預かっていた手製の斧を握り直して小走りで駆け寄ってきた。
「なら、お前、やれ。私が、指示する」
「ん、あぁ、分かったよ」
乱暴に突き出された斧を受け取って、ネイトはヒナのレクチャーを受けながら長い時間をかけて鹿の体の解体作業に汗を流す事となった。
既にネイトの手は命を狩る行為への怯えで震える事はなく、生き抜くための技術を得るべく黙々と鹿の皮や肉を裂いていく事が出来た。
弱気になってどうする。絶対生きて島を脱出して、元いた世界に戻ってやる。
ヒナの言葉に自分の弱さを思い知り、やるべき事を思い出したネイトに、先程まで胸に渦巻いていた不安と自棄の気持ちは欠片もなく消え去っていた。