微かな好奇心
夜、日が落ちて島全体が暗闇に包まれた頃、ロア族の住まう村の各々の小屋には松明の光が灯っており、ぼんやりと暖かい光が点々と輝いていた。
「はぁ~……」
そのうちの一つの小屋の中、枯葉の敷き詰められた天然の絨毯の上に尻餅をついたまま、ヒナは深い溜め息をついていた。
「ヒナちゃんが落ち込むなんて珍しいね、どうしたの?」
そんな彼女と向かい合うようにして声をかけたのは、肩口まで伸びた茶色めの髪を持つ、草木で出来たワンピース風の衣服姿をしたヒナと同い年くらいの少女クー。
「なんか疲れたのよ、色々あり過ぎて……」
「今日は大変だったねー。人間を捕まえてきちゃうなんて、さすが狩りが村で一番得意なヒナ
ちゃんだよね」
「馬鹿にしてるでしょ、もう」
くすくすと、クーは控え目に笑いながら、膝の上では衣服の裁縫作業をしていた。
ロアの民は基本的に男が狩りに出かけ、女は家に残って家事に励むように役割が分担されている。日中野山を駆け巡って獲物を追いかけまわしていた男達はこの時間自分の家でのんびり過ごしたり、友人と談話にふけったりと思い思いに自由時間を過ごしているが、女達といえば食事が終わったこの時間も衣服の手入れやだらしなく過ごす身内の男達の世話などに追われ、昼間よりも幾分忙しい時を迎えているのだった。
クーもその家事担当の一人であり、いつものように破れた衣服の仕立てをしていて、小屋の奥には地面の上でうつ伏せに寝転がる彼女の父親の背中を粗雑な手つきでマッサージする、ふくよかな体つきのクーの母親の姿も見えた。
女としては珍しい狩猟側の人間であり、夜は時間を持て余すヒナは食後いつもクーの家を訪れる度にこの光景を目撃し、落ち着いた雰囲気に安堵して過ごすのが日課となっていた。
「でも本当驚きだよねー、島の外にも人間がいるって、ヒナのお婆ちゃんが昔から言ってはい
たけど、やっぱり実際に見ちゃうと、衝撃的だったし」
「そうね。しかも変な格好してたし、男のくせに弱いし、よく喋るし」
昼間、あの余所者のイカダ造りを手伝っていた時の自身の醜態が思い出されて、鎮まっていた言いようのないムカムカとした感情がぶり返し、自然とヒナの顔が歪む。
「うん? なんか、あった? ヒナちゃん」
「え? 別に、何もないけど……なんでよ」
「なんとなくだけど、空気が刺々しいなーって思ってね。違ってたかな?」
「さ、さぁ? 疲れてるのかも」
服を仕立てていた手を止め、覗き込むようにしてクーにさらに問い詰められ、ヒナは何もないと平然を装ってみるが、急に会話を止めようとするのが逆に不自然だったらしい。
「最近、狩ってくる獲物の数も少ないよね? ヒナが狩りで誰かに負けるなんて、狩りを始め
た頃以来じゃなかったっけ?」
「っ、それは、そうかも……」
ロアの民の狩猟者は毎日狩りを終えると互いの成果を見せ合うのが習わしだ。一番多く獲物を捕らえた者や一番大きな獲物を捕らえた者は称えられ、逆に最も成果が悪かった者は屈辱を翌日に引き継がないよう仲間から激励を込めた罵倒を受ける事となる。
ヒナはまだ十代の少女ながらロアの民の中でも一番の狩猟の名手であり、もう何年も狩りの成果で他の男共に負けた事はなかった、それだけにここ数日狩りの成果の悪さはヒナよりもヒナ以外の村の人間の方が驚くほどだった。
「ヒナのお兄さんなんて、ヒナに久しぶりに狩りで勝てて泣いてたんだよね?」
「ちょっと、兄さんの話はしないで! 恥ずかしいから!」
「その割に狩りから帰ってくるのは遅くなってるよねー。どこか怪我でもしてたりする?」
「んっ……怪我はしてないって。してないけど……」
クーはおっとりとした子だが、こう見えて鋭い観察眼を持っている。狩りで疲労した男連中に料理を振る舞ったり怪我の手当をするのがロアの女の役割であり、幼い頃から母親に心得を教え込まれてきた影響もあるのか、人の仕草や態度の変化を見抜くのが得意で、ヒナが嘘をついても数回言葉を交わすうちにすぐに見抜かれてしまうほどだ。
そして今回もまた、ヒナが何か隠し事をしているのを感じ取っているようで、これ以上話すとボロが出ると思った彼女は誤魔化すように腰を上げて立ち去ろうとする。
「帰っちゃうの?」
「う、ん。疲れたから、もう寝る」
背後でクーが、じっと自分の背中を見つめているのが分かったが、真意を悟られないよう早足でクーの家族が住む小屋を後にして、夜空の下に躍り出た。
「っー、ほんと、最近おかしいわよね、私」
少し歩いてから立ち止まり、満点の星で埋め尽くされた暗い空を見上げながら、ヒナはポツリとそんな言葉を漏らしてから、自身の住居へと戻っていく。
「おいヒナ! 夜遅くまで外に出てるんじゃないっていつも言ってるだろぉ!」
小屋に入って早速、中にいた兄のミハロイが血相を変えた顔で歩み寄ってきて、鬱陶しく感じたヒナの顔がくしゃっと歪む。
「うるさい」
「お前は女なのに誰よりも長い時間狩りをしててただでさえ無理してるんだぞ! 少しでも休
まないといつか壊れるって、なんで分からないぃ!」
「別に疲れてない」
「心配してやってるのになんだその……」
「黙って」
しつこく絡んでくる兄の言葉を冷淡な対応であしらいながら、ヒナは小屋の奥にある寝床に移動してさっさと横になり、兄に背を向ける。
「おいヒナ! まだ話は終わってないぞ!」
さらに説教じみた事を言ってこようとしたミハロイだったが、傍で武器の手入れをしていた父にうるさいと一喝され、ぐぬぬと押し黙って離れていき、ほっと胸を撫で下ろすヒナ。
「ふん……ん?」
面倒な兄から解放されて一安心したヒナは、正面に祖母のペレが座っているのに気が付く。
ペレは特に何をするでもなく、じっとしたままヒナの方を見つめている。まるでヒナの様子を観察しているように。
「な、何、お婆ちゃん」
「何もないわい。若いもんは色んな事に目移りするもんじゃ、好きなだけ悩みんさい」
「え、何それ……」
「そのまんまの意味じゃ、久しぶりにヒナの悩む顔を見た気がしたけんのぉ」
「……っ!」
直後、ヒナは思わず体をペレからも背けるようにしてうつ伏せになると、表情を見られないように床に顔をつけた。
(何なのもう、皆して……何も変わってないから!)
本当は分かっている、数日前の自分と今の自分とでは、確実に何かが変わっている事に。
あのネイトという男の脱出の手伝いをしてやってる分、狩りに割く時間が減り、獲った獲物の量も減ってきているのは確かだ。
だがヒナにとってそこは重要ではない、狩りの時間が短くても、見つけた獲物を逃すほど彼女の腕は悪くはない。実際一定以上の成果を毎日出している。
問題はむしろ頭の中の方、狩りをしている最中に限らず、彼女はここ数日常に一つの行為に集中する事が出来なくなっていた。
何をするにしても頭を過ぎる、あの男の存在。
彼と遭遇して、自分が今まで知らなかった現実がある事を思い知らされた。島の外の世界、島の外の人間、島の外で造られる物、その片鱗を彼の言葉から伝えられ、その事ばかりが頭の中に残って他の事柄に関心が移らなくなっていた。
(外、か……)
狩人として一心不乱に野山を駆けていたのは、それがロアの民としての自分の役割だったからだ。やらなければならないと、当然の事のようにこなし、打ちこんできた。
だが初めて、それを差し置いてでもやろうとする事が生まれた。狩りを後回しにしてでも、ネイトという男に接触したいという気持ちが、確かに彼女の心の中に生まれていた。
(私がおかしくなってどうすんのよ……)
今までの生活が変わってしまうのが嫌で彼を追い出したが、もうヒナ自体が変わってしまっているのかもしれない。
島に流れ着いていたガラクタはどれもこの島では造る事の出来ない代物で、島の外の世界では当然のように生み出されているという。
彼の口からそう聞かされた時、ヒナは外の世界にはこの島とは全く別の環境が広がっているのだろうと直感し、どんな日常が営まれているのだろうという関心を抱いていた。
そしてそんな世界からやってきたネイトという男にも、同様の好奇心を持たざるを得ず、初めて島の外への事柄に強い興味を持ってしまっていたのだ。
今まで自分が過ごした世界が変わる事を望まないという、彼女の思いに相反するように。
(っ~、もうなんか、グチャグチャになりそう……!)
やっぱり早く、余所者の彼には出て行ってもらわないと。
額を地面に押し付けるようにしながらそう頭の中で自身に言い聞かせたヒナは、これ以上もやもやとした感情に悩まされるのを避けるために、さっさと眠りにつくべく目を閉じた。
それでも浮ついた気持ちはしばらく鎮まる事なく、結局ヒナが眠ったのはそれから一時間以上先になるのであった。