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少女と犬と少年と  作者: 九里瑛太
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二人の距離

 戦時中と言うのが、まるで嘘のような晴天が広がっている。

 良大は、いつものようにペスに挨拶を済ませると、勢いよく電車道に向かって駆け出した。

 そして、朝の通学路に薫子の姿を求め、通りを見渡す。

 昨日の事を謝ろう。そんな思いだけが、良大の頭を支配する。

 自分の勘違いで、薫子に不快な思いを抱かせてしまったかも知れない。良大は内心、焦りにも似た思いで薫子の姿を探す。

 しかし、良大の思いは空回りに終わる。結局、薫子の姿は見付からず、そのまま学校へと到着するのだった。

 宙ぶらりんの気持ちを持てあましながら、良大は教室へと入り、いずれ来るであろう薫子を待つ事にした。

 こんな時は、例外なく焦れったいものだ。良大にとって、只々長いだけの時間が経過して行く。

 そして、ようやく待ち人である薫子が教室に姿を現す。

 一瞬、緊張めいたものが教室に走ったが、良大はそんな事、全くお構いなしだ。

 薫子が着席すると、さっそく小声で話し掛ける。これを切っ掛けに、昨日の事を謝ろうと言う算段なのだろう。

「か、薫ちゃん、おはよう…」

 いつもの遠慮がちな挨拶に、薫子は淡々と反応する。

「うん、おはよう…」

 ──と、向き直る薫子に良大は違和感を覚える。彼女の左頬が、微かに腫れていたからだ

 とたん、薫子に謝るはずだった良大の計画は、瞬時に吹き飛んでしまう。

「ど、どど、どうしたん?」

 慌てる良大とは対照的に、薫子は相変わらず、淡々と冷めた態度である。

「ん、何が?」

「『何が?』じゃないわいねぇ、そのほっぺは、どうしたん?」

 ここで、ようやく薫子は良大の質問する意図を理解した。

「あぁ、これ?何でもないけぇ、心配せんでもえぇよ…」

 などと、いつもと変わらぬ様子で授業の用意を続ける。

「ほ、ほいでも、ほんまは何かあったんじゃろ?」

 頬を腫らした薫子を目の当たりにし、良大はつい心配のあまり、その事を追求してしまう。

 すると、薫子は少々億劫そうに口を開いた。

「声、ちぃと大きい…」

 素っ気なく、それでいて突き放すような薫子の言葉であった。

 良大はここで、本来の目的を思い出す。

 そもそも昨日、自分本意の行いから薫子を不愉快にさせてしまったのかも知れない。そうした経緯で、朝一番に彼女に謝ろうと良大は考えていた。

「ご、ごめん…」

「えぇよ、別に…うちの事、心配してくれてじゃろ?」

 ──と、薫子は思ったが、この謝罪の意図は別にあった。

「ほうじゃないんよ。実は、きんにょう(昨日)の事で薫ちゃんにきちんと謝りとうて…」

 周囲の目を気にする良大、幸いにして、級友達は普段から薫子を避けている為に二人のやり取りを注目している者などいない。

「きんにょう?何かぁ、あったんかねぇ…」

 薫子には、思い当たる節がないようだ。

「ぼ、僕がいっつも、薫ちゃんに一緒に去のう(帰ろう)言うとるけぇ、ほいで薫ちゃんは嫌な思いしとるんかなぁ思うて…」

 それを聞くなり、薫子はクスリと笑みをこぼす。

「良大、あんたぁ、ほんま面白い事を言いさるんじゃねぇ」

 そう言われても、良大は何が面白いのか理解できない。

 薫子からすれば、今まで拒絶されるのが常だった自分に対し、まさか謝罪する人間が現れようとは驚き以外の何物でもなかった。

「ぼ、僕…面白かったかねぇ?」

 どうやら、一方的な思い違いだったらしい事が分かり、良大はホッと安堵の溜め息をつく。

「うちは、良大をそんとな風には思うとりゃあせんよ」

 言葉にして、改めて薫子は気付かされる。よくよくと考えれば、良大は傍にいても、不思議と精神的に過度の負荷を伴わない。

 薫子にとって、良大は稀有な存在と言えた。それがどうしてなのか今は判らないが、こんな感覚は久し振りのものだった。

 だが、薫子はこれ以上の友好関係を自ら良大に求めたり、望んだりはしない。そうした思いは、時に残酷に、簡単に裏切られる事を彼女は身をもって知っている。

 薫子が、努めて他人と関わろうとしない理由の一つがそれだ。


 一応、誤解は解けたが、良大にとってまだ一つ、気掛かりな事が残っていた。薫子の左頬の腫れである。

 普段、誰とも関わらない薫子が敢えてケンカに身を投じるとは、とても考えられない。それ程、彼女はいつも孤独の中に身を置いていた。

 下校時、良大はそれとなく薫子に左頬の事を尋ねた。

「薫ちゃん、ほう言うたらほっぺは、せやぁない(大丈夫)?」

 その話題には触れられたくないのか、薫子はことさら素っ気なく返答する。

「朝も言うたじゃろ?心配せんでもえぇって…」

 まるで、底の見えない、暗くて冷たい底なし沼のような深く碧い薫子の左目が良大を捉え、ジッと見詰めて離さない。これ以上の詮索を拒むように、薫子のオッドアイが冷淡な輝きを放つ。

「ごめん、薫ちゃん…」

 これ以上の深入りは、昨日の二の舞である。自分への戒めとばかりに良大は口を噤んだ。

「良大は今日、謝ってばっかりじゃねぇ」

 ──と、冗談めかしに薫子は笑う。こうした彼女の態度が、何処まで本気で、何処からが冗談なのか、良大には計り兼ねるところがあった。

「けんどね、薫ちゃん…」

「けんど、何…?」

「もし…もし、ほんまに何かあるんじゃったら…僕、薫ちゃんの力になるけぇ…」

 意を決して、良大は今の正直な思いを口にする。

「ふふふ…何ねぇそれ?良大が、うちを守ってくれる言うん?」

 薫子が、クスッと怪しく笑い、さらに言の葉を紡ぐ。

「ほいでも、出来もせん事は軽々しく口にせん方がえぇよ」

 含みのある物言いで、薫子のオッドアイが再び冷たい輝きを放ち良大を捉えた。

 行動の伴わない無責任な思いや言葉は、それだけで他人を傷付ける凶器になり兼ねない、そう言いたげな薫子の口ぶりである。

 たぶん、彼女の経験則から来る言動なのだろう。

「ごめん…僕はやっぱり頼りない言う事なんじゃねぇ…」

 良大は、自分の非力さを指摘されたような、何ともやるせない気持ちになって来る。

「まぁた、謝ってじゃ…」

 そんな良大を見兼ねたのか、薫子が冗談まじりに笑う。

「ごめん…」

「ほら、言うてるそばから、これようねぇ…」

 薫子は、別に良大を卑下している訳ではなかった。出来得るならば、彼にはそうした無責任な人間になって欲しくない、そんな思いが心の片隅にあったのだろう。

「良大…あんたぁ、ほんまに面白いねぇ」

 薫子にとって、それは今までにない不思議な感覚と言えたのかも知れない。良大との距離感は程々に心地もよく、不快感を伴わない適度なものだった。

 とどのつまり、薫子自身も良大との交遊関係を互いのものとして受け入れ始めていると言う事なのだろう。

「良大、また明日…」

 こうした言葉が、薫子の口から自然と紡がれているのが、その証しと言えた。

 薫子は、電車道から折れ、いつもの路地裏へと消えて行く。

 良大はただ、それをそっと見送った。

「僕は、薫ちゃんと仲ようなれとるじゃろうか…」

 今一つ、手応えの感じられない薫子の態度に迷いが生じる。人付き合いが下手な、良大故の率直な思いであった。

 ただ、救いはある。薫子が去り際に残した「また明日」と言う一言は、良大を拒絶していたならば得られない言葉だ。

 良大は、その言葉を励みに家路に就くのだった──




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