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少女と犬と少年と  作者: 九里瑛太
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良大と薫子

 昭和十二年七月七日、日本は盧溝橋事件に端を発した日中戦争を収拾できぬまま、この戦争に介入を目論む各国から、石油の対外禁輸処置と言う経済制裁を受ける事となってしまう。

 その打開策として、日本は昭和十六年七月二十八日に仏印をはじめとする南方に進出、次いで十二月八日にはハワイ真珠湾への奇襲を敢行し、ここに太平洋を舞台とした対米英戦争へと突入したのである。

 開戦当初、破竹の勢いで戦線を拡大して来た日本軍も、ミッドウェーでの敗戦やガタルカナル島を巡る攻防戦で泥沼の消耗戦を繰り返した事により、次第に劣性を強いられるようになって行く。

 そして、ついに戦線を維持する事が困難となった日本は、絶対防衛圏と言われたマリアナ諸島をも失い、もはや敗色も濃厚と言う状況にまで追い込まれていた。

 昭和二十年を迎えた頃には、最前線はおろか、日本本土にまで物資や食料の不足は波及し、もはや街中に乱立する戦意高揚のスローガンも、只々虚しく立ち並ぶばかりであった。

 それは、ここ広島でも例外ではない。

 六月になると、市内でも飢餓状態となり、もはや配給品ですら底を尽き、ほとんど手に入らない有り様であった──


良大(りょうた)、早よう学校に行きんさい!ほんまにあんたは、お兄ちゃんと違うて何でこがぁにトロいんじゃろうかねぇ」

 母の花子に急かされ、良大は黙々と朝食を口にする。

 雑炊とは名ばかりの、ほとんど汁だけの椀と大根の葉のお浸し、そんな質素な朝食を済ませ、良大は学校の支度を急いだ。

 生来からの体の弱さ故なのか、良大は万事において、少々行動が遅い少年だった。

 しかし、兄との比較が毎回毎回小言のように繰り返されては、良大も正直、気が滅入ってしまうばかりである。

 確かに良大の兄である浩介は、当時の少年ならば、誰もが憧れる予科練に入っていた。

 それに比べて、良大は体が弱い上に性格も内向的だ。

 花子からすれば、そうした面が歯がゆく思わずにはいられなかったのかも知れない。

 それでも良大は、いつでもひたむきに精一杯、何事に対しても懸命に頑張って来た。

 だからこそ、出来のよい兄と常に比較される事は精神的な苦痛となっていた。

 母にすら自分の努力を認めて貰えない、そうしたジレンマが鬱屈した思いを募らせ、良大の心を暗く沈ませる。

「──行ってきます…」

 玄関を後にし、良大はそのままペスのいる庭先へと向かう。

「ペス、おはよう!」

 良大の声に応えるかのように小気味よくペスが一吠えする。

「あははは…ペス、お前はほんまに元気じゃねぇ」

 腰をかがめ、餌を与えようとする良大へ嬉しそうにペスがじゃれ付く。

「あぁ、止めんさい!ペス、分かったけぇ止めんさい」

 今の良大にとって、唯一と言える心の拠り所がペスだったのかも知れない。

「ほいじゃあペス、行って来るけぇね。えぇ子で待っとるんよ」

 言い聞かせるような良大の言葉に、ペスは再度元気に一吠えし、彼を見送った。

 弾むようなペスの声に背中を押され、良大は学校へ向かう。

 とは言え、数歩進んだ所で再び虚しい感情がぶり返す。

「はぁ…」

 溜め息をつく。朝からどうにもやるせない気分で一杯だ。

 学校へ向かう足取りも只々重いだけで、気怠さをまといながら良大は電車道へと歩み出た。

「はぁぁ…」

 再度、大きく溜め息をついた。モヤモヤとした気分を払拭したい思いだったが、溜め息二つくらいでは沈んだ気持ちは晴れ晴れとはしない。分かり切っていただけによけい虚しくなる。

 今度は空を仰ぎ見た。良大の眼前にただ青空が広がっていた。

「えぇ天気じゃねぇ…」

 清々しい程に澄んだ青空が、無遠慮に広がる。

 不意に、数日前に見掛けた碧い瞳の不思議な少女を思い出す。

 澄み渡る青空が少女の碧い瞳と重なったのだろうか。そうに違いないと良大は妙に納得する。

 あの深く澄んだ碧い瞳が、今も心の隅に焼き付いて離れない。

「あんに(あの子)は何処に住んどるんじゃろう…」

 良大は、ただ漠然とそんな事を考える。

 そんな時だ。見覚えのある後ろ姿の少女が自分の少しばかり先を歩いて行くのが見えた。

「あぁ!ありゃあ…」

 間違いない。あの日、あの袋小路で出会った碧い瞳の少女に違いない。良大はそう確信する。

 先程までのモヤモヤとした暗い思いが、瞬時に霧散した。

 まるで、何か不思議な力に導かれるように良大は徐々に少女へと近付いて行く。

 期待にも似た胸騒ぎが、良大の些細な欲望をそっと後押しする。

「あ、あのぉ…」

 不意に掛けられた声に些かも驚いた様子などみせず、少女は一旦足を止めて、良大の方へ無感情に振り返るのだった。

「──何?何ねぇ」

 少女は、以前と変わらぬ何とも素っ気ない素振りで、あの深みのある碧い瞳を良大へと向けた。

 左右の色合いが違う為なのか、少女の透き通るような碧い左の瞳が、より一層と輝きを放ちながら良太を捉えて離さない。

 こちらを見詰める少女の瞳に、良大の緊張はすでに極限まで達していた。

「あの、あの…」

 やっとの思いで少女に声を掛けたのに、その後が続かない。

 胸の脈動だけが、一気に激しさを増す。

 何とか言葉を紡ぎ出そうと、必死に思考をめぐらせるが、考えれば考える程、頭の中が真っ白になって行く。

 少女はただ、素っ気ない表情で良大を見詰めている。まるで、傍観者か何かを決め込んでいるかのように黙って。

 そんな雰囲気に堪え切れず、良大はようやく口を開く。

「こ、この間は、うちのペスが、ごめん…」

 とっさに出て来た言葉がこれだった。何とも気の利かないセリフに良大は失望する。

 仕方がない。内向的な性格が災いし、今まで積極的に他人と交わって来なかったツケだと、良大は自分の不甲斐なさを諦めた。

 それに、思い起こせば彼女との接点はペス以外に何もない。

 我ながら、ガッカリするような言葉に消沈しつつも、良大は少女の反応に一縷の望みを託す。

「──あぁ!あん時の…」

 意外な事に少女は、数日前の出来事を覚えていたようだ。

 口ぶりこそ淡々とした素っ気ないものであったが、良大は唯一の彼女との接点が消えていない事を素直に喜ぶ。

 何とか会話を続けたい。

 そんな思いとは裏腹に、良大はこれ以上何を話題にしてよいのか見当すら付かなった。

 内向的な性格とは、つくづく難儀なもので、会話の続け方が全く分からないのだ。

 それでも良大は、少女との会話を繋げるべく、必死に思考を巡らせる。

 どれ程の沈黙が続いたのか、良大にとって永い、本当に永い静寂が続いた後だった。

「き、君…綺麗な、碧い目ぇをしとってじゃねぇ…」

 消え入りそうな声で、良大は意を決したように言葉を紡ぐ。

 自身でも驚く程、大胆な言葉が口を突いて飛び出した。

(あぁ、しもうた!僕はまた、異な気な(変な)事を言うてしもうてじゃ)

 言葉にした直後、即座に後悔の波が良大の胸に押し寄せる。

 そう実感させるには十分すぎる表情で少女は立っていた。

 今まで、何があっても素っ気なく無表情な彼女がキョトンと驚いた顔で立ち尽くしている。

 ところが次の瞬間、少女の口許から不意に笑みがこぼれた。

「あんたぁ、面白い事を言いさるんじゃねぇ。うちのこの目ぇを見て、そんとな事言いよったんは、あんたが初めてようねぇ」

 さらに少女がクスリと笑う。

 何が少女の琴線に触れたのか、全く理解不能だったが、彼女の笑顔が良大をときめかせた事だけは確かだった。

「うちの目ぇ、片っ方が異な気な色をしとってじゃろ?髪の毛じゃて、黒くなぁし…」

 少女の笑顔に見取れていると、今度は彼女から口を開く。あくまでも口調は淡々としたものだったが、耳心地のよい涼やかな話し声に良大は聞き入った。

「どう?うちは、目ぇの色も髪の色も、普通と違うてじゃろ?」

 再び問われ、良大は気付く。

 少女の特異な瞳にばかり注意が向いていたが、確かに彼女の髪は何処か日本人のそれとは違う、不思議な色合いだった。

 時折、風になびき、ふわり舞う髪は深く紅々と輝きを放つ。

 その時、少女は年齢不相応に妖しく、ほほえんでみせる。

 一瞬、心臓をくすぐられたようにドキッとしたが、良大はすぐに我に返り一言、言葉を添えた。

「──ほいでも、僕には綺麗に見えたけぇ…」

 照れながら、良大が柄にもないセリフをつぶやくと、少女は再び口許にクスリと笑みを称える。

「あんたぁ、やっぱり面白い事を言いよるんね」

 何故、少女がそんな言葉を口にするのか、良大はそれ程気にも止めず、ただ彼女が笑ってくれた事だけを嬉しく思う。

「うちの目ぇや髪の毛の色を見ても、あんたぁ怖くないん?」

 良大には、少女の質問する意図が分からなかった。

 確かに、彼女の目や髪の色は、およそ日本人とは掛け離れた不思議な色をしている。特に、片方の目だけが色の違うオッドアイは特異とも言えた。

 しかし、それ以上に良大は、少女の瞳や髪の色を素晴らしく綺麗なものだと感じたのだ。それは、彼独特の感性や人間性に由来していたものなのだろう。

 良大はただ、自分の素直な気持ちを正直に言葉に表しただけに過ぎない。

「うちは薫子、村井薫子よ」

 とうとつに名前を名乗り、少女は身を乗り出して良大へと顔を近付けた。

「えぇ…?」

「あんたぁの名前、まだ聞いとらんじゃったねぇ?何て言うん」

 さらにスッと顔を近付け、少女は良大へ名前を尋ねる。

 少女特有の、ほのかに柔らかく甘い香りが良大の鼻先を優しくくすぐった。

 吐息が触れ合う程の距離、すぐ目の前に少女の顔がある。

 真っ直ぐ見詰める碧い瞳には、まるで吸い込まれたように良大が映っていた。

 鼓動はすでに、限界寸前まで脈動を繰り返す。

「ぼ、僕は、新井良大…」

 薫子と名乗る、不思議な少女の大胆でとうとつな行動に圧倒されたのか、良大も自然と自分の名前を口にしていた。

「ほう、良大言うん?あんたぁの名前、覚えておくけぇね…」

 クスリとほほえみながら、薫子はそうつぶやき、不意に良大から離れた。

 振り向き様、再び彼女の髪の香りがフワッと良大の鼻先に漂って来る。

 残り香に気を取られた隙に、薫子はすでに良大と同じ学校の方角へと歩き出していた。

「あの娘、僕と同じ学校だったんじゃねぇ…」

 などと、ぼんやり思いながら、良大は急に縮まった薫子との距離に少々戸惑いつつも、彼女の後ろ姿を目で追うのだった──




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