碧い瞳の少女
白い柴犬が、跳びはねるように軽やかなステップで地面を蹴って勢いよく駆け抜ける。
そのすぐ後ろ、飼い主なのだろう、必死に追いすがる少年の姿があった。
「ペス、ペス!止まりんさい!!」
声を張り上げ、少年が呼び掛けるものの、犬は止まる気配すらみせず、まるで飼い主との逃走劇を愉しむかのように電車道(舟入通り)を嬉しそうに走り、雑踏の中に吸い込まれて行く。
「ペス…駄目じゃろうが、人様に迷惑になるけぇ待ちんさい…」
次第に犬との差は広がり、少年の心臓は今まさに張り裂けんばかりに大きな脈動を繰り返す。
「あら良大ちゃん、そんとに慌てんさって、一体どうしたん?」「あぁ、長谷川のおばさん?ペスが、ペスが逃げてしもうて…」
すでに良大は、それだけ返答するのがやっとのようだ。
「ほいじゃあ僕、急ぐけぇ…」
そう言い残し、良大は再びペスを追い続ける。
「ペス!警報があったら、どうするんね!?」
今は昭和二十年、日本は戦時下のただ中にあった。
良大が言うように、空襲警報が発令されれば、追い駆けっこどころの騒ぎではない。
遠ざかるペスは、やがて路地を右に折れて走り去る。
だが、その先は袋小路、良大はようやくペスを捕まえられるものだと安堵する。
「ペス、はあ(もう)逃げられんけぇね」
やっとの思いで追い着き、良大は袋小路をのぞき込む。すると、ペスは見知らぬ少女と楽しそうに戯れていた。
木漏れ日に照らされ、ペスと戯れる少女、時折キラキラと輝いてみえるその情景に良大は不思議な感覚を覚える。彼にとって、見た事もない、何とも神々しい光景に映った。
(ここらぁでは、よいよ(全く)見掛けん子じゃねぇ…)
見覚えのない少女に不思議と視線は釘付けとなり、良大はいつしか、その場へと立ち尽くす。
そんな良大に気付いたのか、少女はスッと向き直り、彼に視線を送ってみせた。
瞬間、良大と少女の視線が、まるで絡み合うように交錯する。
「あぁ…」
恥ずかしのあまり、良大はとっさに視線を逸らしてしまう。
だが、すぐに思い直し、再び、ゆっくりと少女に視線を戻す。
良大の鼓動が瞬時に高鳴る。
少女の瞳が、良大を離さずにジッと捉えたままでいたからだ。
よく見ると、左の瞳だけが深く碧々と澄んだ不思議な色をのぞかせている。
気を許せば、吸い込まれそうな程に透き通った深い色合いに、良大の心は囚われ、只々その少女に見取れるばかりであった。
「何ねぇ?うちに、何かぁ用でもあるん?」
涼しげな表情で少女が尋ねる。良大は、その言葉にハッとなり、ようやく我に返った。
「あんたぁ、ぼんやりなんじゃねぇ…ずっとそこに立ちんさって、一体どうしたん?」
さらに追及するような少女の問い掛けに、良大はすっかりと舞い上がってしまう。どう返答してよいのか言葉が出て来ない。
そんな、困惑している飼い主をよそに、ペスは少女に戯れ続けている。
「そ、その犬、僕の犬なんよ!名前はペス!!」
思い付いたように良大は、とっさに言葉を絞り出してみせるが、少女の反応に手応えを感じる事はなかった。
あからさまに取り繕ったような良大の様子を、少女はただ黙ってうかがっている。
無感情に向けられたままの少女の瞳に、良大は萎縮しながらも、何とかロジックを組み合わせるように言葉を紡ごうとした。
「ペ、ぺぺ、ペスは人見知りが激しいけぇ、知らん人には寄り付かんのじゃけどぉ…」
「ふ〜ん、ほう…」
懸命に言葉を続くるものの、そんな良大とは対照的に少女の返答はあまりにも素っ気なく、味気ないものであった。
もしかすると、良大の話に全く興味がないのかとさえ思わせる程にツンと冷たい態度をみせる。
「あ、あの…」
会話をどうにか繋げる為、良大は必死に言葉を模索し続けるが、結局のところ気の利いた台詞が思い浮かぶはずもなく、そればかりか、少女の醸し出すその独特の雰囲気に飲まれてしまい、緊張感だけが高まる一方であった。
「用がないんじゃったら、うちはこれで…」
そうこうしている内に、少女はこの場を後しようと足を一歩前へ踏み出す。
そして、すれ違い様にペスの頭をそっと二度、三度と撫でると、そのまま電車道へ躍り出て、良大が来た方角とは反対の土橋の方へ向かって歩き始めた。
去り際、少女の甘い残り香が、良大の鼻先をくすぐるように優しく撫でる
白昼夢か何かのような一時の出来事に、良大はただ呆然としていたが、すぐ様後を追って電車道へ飛び出す。
しかし、少女はすでに数十mも先を歩いていた。
その姿は、初夏の暑さの中で陽炎に揺られ何とも幻想的で不思議な美しさとなって良大の瞳に焼き付く。
「碧く澄んだ、不思議で綺麗な目ぇをしとってじゃねぇ…」
何とも呆けた調子で、良大はつぶやいた。
まるで、心を何処かに置き忘れてしまったように夢心地な面持ちである。
その横で、尻尾を振りながら、大人しく少女を見送っていたペスが、良大の言葉に応えるかのように小気味よく一吠えする。
「お前も、ほう思うじゃろ?」
それにしても、不思議な瞳を持つ少女であった。
現代風に言うならば、虹彩異色症の一種『オッドアイ』や『バイアイ(片青眼)』と言ったところであろうか。
ともかく、この時代にはまだまだ世間一般に認知すらされていない症例ではある。
だからこそ良大は、ただ単純に少女の碧い瞳に魅了されていたのかも知れない。
木々の薫りが深みを増し、緑の色も鮮やかになり始めた初夏の日の、そんな昼下がり、良大はその少女と出逢った。
良大にとって、その出逢いは、あまりにも幻想的でセンセーショナルだったに違いない──