彼岸花と蘖
1
俺の住んでいるアパートは、ぼろいうえに最寄り駅が遠い。舗装されていない道をずっと歩いてようやく活気もまばらな商店街へ出る。そんな外れたところの古いアパートだから、家賃は安い。ただそれだけの理由で俺はここを選んだ。金銭面で困っているわけでもないが、なるべく使わないに越したことは無い。備えあって憂いなし。一人で生きていくためには多少の我慢も必要である。
「とか思ってたけど、別に不満はないんだよな」
「そうなの?」
「うん、このくらいの狭さでも住むには全然困らないし、ちょっと町外れだから静かだし」
俺はゆったりとした口調で言葉を紡ぎながら、「それに」と窓の外へ目を向けた。
「綺麗だから、外」
春夏秋冬、ここから見える景色には必ず花がある。手入れがされているわけではないのだろう、無造作に咲く花々は、それでも美しい。今はアジサイが見頃だ。
「あぁ、あと。俺がここにいたから、ハナとも出会えたんだよ」
「ついで?」
「そんなことないよ」
俺の笑顔に、彼女は微笑んだ。ような気がした。いや、たぶんたしかに微笑んだ。つり上がった目が細くなり、尻の下がった眉をますます下げたその表情を、俺は笑顔だと認識している。顔の半分が見えない彼女の感情を把握するのは、俺の役目だ。
彼女の名前は、ハナ。厳密にはない、と言ったほうが正しいのだろうか。彼女には名前がなかった。だから俺が呼びやすいようにと考えた。捻った名前ではないが、彼女がなんでもいいと言うので、一応彼女にちなんだ名前にした。彼岸花のハナ。
彼女は彼岸花だ。
ハナの姿は異形だった。地獄を思わせる真っ赤に流れる髪は、黒のセーラー服に映えた。右腕と胴体に巻きついた鎖は左腕を拘束している。その鎖が左の手を貫通していて、手のひらからぶら下がった鎖の先には提灯がついている。ハナ曰く、この提灯の中のろうそくは毒でできていて、だからガスマスクは外せないらしい。そして右足は膝から下がない。まるで二足のような立ち方、歩き方をするのだが、確かにない。俺には見えていないだけなのかもしれない。ハナ自身にどうなっているか訊いてみても「よくわからない」と首を傾げるだけだった。
ハナが人間だなんて言うつもりはない。けれど、存在しているのは明らかだ。俺以外には見えていないようだが、俺には見えている。存在を肯定するのは、それだけで十分だった。
「ねえ、双葉」
「ん」
「どっか行こう」
俺はハナに視線をやり、「んん」と唸った。
「どこに?」
「どこでも」
「雨降ってるよ」
「うん」
「……」
それがどうしたという顔をするハナに、俺は眉根を寄せた。雨だということは、外に出たくない理由にならないようだ。
「行こう」
「はいはい」
俺はのそりと立ち上がり、玄関へ向かった。雨のせいか、歩くたびに床が軋む。馴染みのハイヒールを履き、立て掛けてあった傘を取る。
「どこに行きましょうかね」
ハナが玄関から出るのを待ってから、鍵をかける。
「どこでも」
「ハナは外に出たがるくせに、そればっかりだな。行きたい所はないわけ?」
「どこかに行くのが目的じゃない。双葉と歩きたいだけ」
「なるほど、面倒くさい子だ」
「いいでしょ」
「いいけど」
ため息混じりに答え、傘を広げた。ハナはいつの間にか番傘を手にしていた。左手は拘束されていて使えないから、必然的に右を使うことになるのだが、右は右で、手のひらから鎖と提灯が垂れ下がっている。ハナ自身は気にしていないようだが、傍から見ていると、なんとも持ちにくそうである。
「相合傘でもしようか?」
「いらない。そんな差し方したら、双葉が変な人に見られるよ」
「今さらだけどな」
ハナの姿は人に見えない。一人で傘を傾けて半身を濡らしていたら、他人には滑稽に見えるだろう。しかしハイヒールを履いた俺には、もう関係のないような話だが。
静かな雨だ。傘と地面に当たる雨音と、俺の足音しかしない。ハナは、一本足でもたしかに歩いている。それなのに、まったく音がしない。水溜りを踏んでも、水面は揺れない。ハナの差している傘に当たる雨も、無音だ。よくよく見てみると、どうやら弾いてすらないようだ。傘の下の空間には雨がないから、通り抜けているわけでもないようだ。吸収されているのだろうか。そこらへんの仕組みはよくわからない。
「そういえば、商店街の脇にあった大きな木、伐られちゃったよね」
「あぁ、邪魔だったんだろうな。なんでいきなり?」
ハナを横目で見ながら、首を傾げる。話題に上がったからという単純な理由で、行くところが決まった。ひとまず商店街に向かって歩を進める。ハナは道脇の濡れた草に目をやりながら、眉尻を下げた。
「なんとなく。なんか、すごく良い木だったから。残念」
「良いとか悪いとか、そういうのわかるの?」
「ん、わかるっていうか……なんていうんだろう」
何が言いたいのかわからず、俺は次の言葉を待った。しかし、いつまで待っても続かなかった。彼女はただ、雑草やアジサイを見るだけだった。
2
商店街は、雨のせいで余計閑散としていた。
ハナの言っていた通り、木は伐られていた。頻繁にここへ来るわけでもなく記憶は曖昧だが、年末にはすでに伐られていたはずだ。よく行くコンビニから、ちょうど見える位置にあるため、「あぁ、あの木なくなったのか」とコンビニで思ったものだ。
あのときと、今こうして目の前にしてみて、違うところは一つ。
その切り株に、子どもが座っていた。雨なのにも関わらず、傘を差していない。カッパを着ているわけでもない。ずぶ濡れで、ただじっと座っていた。
「君、どうした。濡れるよ」
「もう濡れてる」
「たしかに」
ハナの言葉に頷きながらも、俺は彼の上から傘をどかさなかった。もう濡れているから傘をささなくてもいいということにはならない。
しゃがんで子どもの目線に合わせる。そしてようやく彼と視線を交えた。子ども特有の大きな目が、きょとんとこちらを覗き込む。瞳は黒に近いが、緑がかっている。日本人ではないのだろうか。
「迷子か? こんなところにいないで、どっかお店に入ればいいのに」
拭くものがない。仕方なく袖で彼の濡れた顔を拭ってやる。しかし当然、たいして水を吸収してくれず、あまり意味がなかった。子どもの頬に手が触れる。雨に濡れてひんやりとしていた。
「おまえ冷えてるな……あ?」
子どもの表情が動いた。大きい目をさらに見開き、なぜだか嬉しそうに口元をゆるめた。そして次の瞬間、濡れそぼった体が突進してきた。あまりの衝撃に、俺の体は後ろに傾いだ。とっさに左手を尻の後ろにつき、なんとか尻餅は避ける。彼に抱きつかれているところと傘から外れた左腕が、じわじわと濡れていくのがわかる。
「なんだ、どうした」
体勢を立て直しながら言葉をかけるが、ただ無言でしがみつくだけだった。
「お父さんとか、お母さんは?」
首を横に振る。
「あぁ、そうなの? じゃあお家はどこ?」
また、首を横に振る。
「それは困ったな」
隣に立っているハナが、ぽつりと呟いた。
「……双葉って、全然困ってるように見えないよね」
「そう? これでも焦ってるんだけど」
首を振るだけでは、よくわからない。両親はいないのだろうか。家はないのだろうか。家がないなんて、ありえるのだろうか
「とりあえず雨宿りできるところに行こう」
首を横に振る。
「えーそれも嫌なのか」
それなら、俺がタオルなり何なり、拭けるものを持ってくるか。
「じゃあほら、傘持ってて。ちょっとタオル買ってくる」
首を横に振る。
「ん、その返事は予想してた」
俺は笑い、子どもの濡れた髪をぽんぽんと叩いた。それからしがみつく小さな手を離し、立ち上がる。少しだけ嫌がる素振りをしたが、大人しく離れてくれた。ハナに視線をやる。
「ハナの傘は子どもにも有効?」
「んー……」
ハナは目を細めて、僅かに首を傾げる。数秒その表情で固まったが、「うん」と頷いた。
「待ってる」
「それ返事になってないんだけど。まぁいいや。じゃあ行って来るから、待ってて」
3
コンビニに入る。相変わらず客の姿がない。店員は一人しかいないが、その一人も暇そうだった。レジの中でぼんやりしていたが、俺が入ってきて顔をこちらに向けると、ぱっと明るい表情になった。よっぽどやることがなく暇だったのだろう。客が来てこんなに嬉しそうな顔をする店員もそうはいない。
「双葉くんいらっしゃーい」
「客に対しての態度じゃないな」
「双葉くんは友達だもん」
「友達になった覚えもないけど」
狭く寂れた町だ。老若男女、誰もが重宝するコンビニであっても、ここはあまり賑わわない。何回か利用すれば、店員が馴れ馴れしくなるくらいの、田舎のコンビニ。
「びしょびしょだね。あっちにいたでしょ。何かあった?」
あっち、と木の方向を指す。
「子どもが」
言った後で、まずいかもしれないと思った。
俺が危惧したときにはもう遅かった。
店員は首を傾げた。俺の顔を不思議そうに見てから、レジから外を見た。俺もそれに合わせて、同じ方向へ視線をやった。明るい店内から見る外は、薄暗かった。しかしそれでも、あの切り株のあたりまでよく見える。
「子どもなんていた?」
俺は外から店内に視線を戻した。
「いたよ、ここからじゃ見えなかったのかな」
「あーそうなんだ。何、迷子?」
「と思ったんだけど、そういうわけでもなかったみたい」
「そっか、良かったね。雨だし、迷子だと大変だもんね」
店員はようやく外を見るのをやめた。再び俺に笑顔を向ける。俺は愛想笑いを返すことしかできなかった。頬が引きつって、おかしな顔になっていなければいいが。
「――もっと大変みたいだ」
「え?」
「なんでもない。じゃあな」
「なになに? 何か買いに来たんじゃないの?」
俺はその言葉を無視して、来たばかりのコンビニを出た。
俺と店員の見えている景色は、違う。
4
「お待たせ」
「おかえり」
「タオル買ってこなかった」
一拍置いて、ハナは言った。
「わかった?」
「他のやつに見えないってのは気付いた」
店員には、見えていなかった。ハナはもちろん、この子も。
ハナも子どもも、ずっとここにいた。店員からも、見える位置にいた。
「俺は一つの仮説を立てた」
言いながら、やはりタオルは買ってくるべきだったと思った。たとえこの子に必要なくても、小さな子がびしょ濡れなのは気にかかる。
「この子に親はいない。家もない。ここを動かない。そして、俺以外に見えない」
濡れても問題はない。風邪を引くわけでもない。
「木なんだろ、この子は」
口に出してみると、なんともばからしい。こんな台詞を言う機会など、たぶん誰にもないだろう。
しかし、ハナも子どもも、笑うことなく真面目な顔をしていた。
「そう、余蘖だよ」
「へ? よげつ?」
肯定されたはずなのに、聞きなれない言葉を言われて困惑する。聞き返した俺に、ハナは「うーん」と言い直した。
「蘖ならわかる?」
「ひこばえ? わからない」
「双葉も言ったでしょ。木だよ」
「木と蘖ってのは、イコールなのか?」
いまいち把握していない俺に呆れることなく、ハナは説明する。子どもが見ている前で、なんだか恥ずかしい。子どもは言葉を理解していないのか、大きな目で見上げるばかりだ。
「伐られた木。蘖っていうのは、根株から生えた芽のこと」
「んん?」
なんだ。ということは。
「厳密に言えば、木じゃなくて、木から生えた芽ってこと?」
「そう。だからほら、子どもなんじゃないの?」
「あぁなるほど、そういうこと」
どちらにせよ、このつぶらな瞳を俺に向けているかわいらしい子どもは、人間でないということだ。こうして手を伸ばせば触れられて、握ってくるのに。感触も意思もあるのに。
「俺は植物が人に見えちゃう体質なんだろうか」
「あたしとこの子以外も人に見える?」
「いや」
「じゃあ違うんじゃないの?」
ハナが笑う。
「双葉が見えるんじゃなくて、あたしたちが見られたいだけ」
「俺だけに?」
「あたしが一緒だったから、双葉なら優しくしてくれると思ったんだよ、きっと」
ハナがこの子どもを木だとわかっていたように、子どももハナのことを人間ではないと気付いていた。植物と一緒にいる人間である俺だったからこそ、この子も人間の姿になって俺の前に現れたのではないか。ハナはそう言って微笑んだ。
「何のために」
俺はまたしゃがみ、小さな体を受け止める。子どもは何も喋らない。撫でてやると、嬉しそうに笑うだけだ。喋らないのではなく、喋られないのかもしれない。子どもの代わりに、ハナが言葉を紡ぐ。
「ただ、最後に構ってほしかったのかもね」
「なんで最後? 芽が出たばかりだし、これからじゃ」
「もう処分される。切り株ごと」
それもそうか。俺は冷静な頭の隅で思った。伐るだけで済むわけでもない。伐ったなら、その切り株も片付けなければ、伐る必要がない。
せっかく俺に気付いてもらえても、意味がないじゃないか。どうせ処分されるんだ。
それでも。それでも。
この子は俺に手を伸ばした。
本当に意味がないのか。
5
部屋に戻って一息吐いたときには、雨はすっかりあがっていた。
「ハナは何、なんか導かれたの?」
「なに?」
「あの木を見に行ったのは、ハナが気にしてたから。ハナに言われなかったら、あそこに行ってなかった」
「別に、あの姿になってるって知ってたわけじゃない。さっきも言ったけど、良い木だったから、驚きもなかったけど」
ハナはベッドを背もたれにして、床に座った。提灯がころりと床に転がるが、ろうそくは倒れもせず、燃え移りもせず、静かに毒を吐き出していた。こんなハナが傍にいるせいか、蘖が人間の姿で現れたことへの驚きは薄かった。彼女が前例としてあったからこそ、受け入れることができた。植物が人間の姿をしているなど、俺以外なら誰も信じないだろう。
「植物は、動物みたいに言葉でコミュニケーションを取ることはない。でも、意思の疎通というか、そういうのはある。植物から植物を伝って、無意識に、連れて行かれたのかもしれない」
「なるほど。よくわからんことがわかった」
「あたしもわからない」
ハナは困ったような、恥ずかしがるような笑顔で首を振った。深く考えたところで、答えが見つかるわけではない。ハナの存在がすでに異分子なのだ。理解できないような事象など、とっくに体験している。わからないと躍起になるのも、今さらである。しかし、疑問などいくらでも出てくる。
「なんであの子どもが蘖だって言わなかったんだ? 最初からわかってたんだろ」
「双葉が気付かないままだったら黙ってた。わからないなら、わからないままが自然だから」
またよくわからないことを言う。
「あたしもあの子も、双葉に拒絶されても怒らない。こうしていることのほうが不自然なの、わかってるもの」
人間の俺に、その考えが理解できないのと同じように、彼女や子どもにも俺の気持ちは理解できないだろう。そう言われて、寂しくなる俺の気持ちは、人間独特のものなのかもしれない。人間の姿をしていても、彼女たちは植物だ。根本的に違う。
「……俺、別に植物に優しい男でもないんだけど。なぜ植物に好かれるのか」
俺の言葉に、ハナは笑った。彼女の笑顔は綺麗だった。咲いた花を無条件で美しいと感じるのと同じように、彼女はそこにいるだけで俺を魅了した。
「優しいよ」
彼女は言った。
「あたしを傍にいさせてくれるから優しい」
「そりゃまぁ、俺もハナが好きだし」
「それに、挿し木してくれるくらいには、優しい」
俺もつられて笑う。窓越しに仰ぐ空は晴れ渡っていて、視線を下げると子どもが手を振っていた。
「好かれるのも悪くない」