「教えておくれ」(3)
「あと一分くらいで四時、四十四分、四十四秒、噂を実行する時間帯…」
先生が来るのを待つ間に、一応生徒が近くまで来ていないかを確認する。
踊り場から見える範囲では生徒の姿は確認できなかった。
下の階段を見終えた時、振り返りざまに要は鏡の方に目が行った。
そろそろ目的の時間である。
時計で秒読みをしながら鏡の前まで行き、鏡に背を持たれかけるにしゃがみ込む。
早くこのいかにも不吉そうな時間が過ぎ去ってくれますようにと願いながら。
凡そ、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一…。
とんとん、背後から要の方が叩かれた。
反射的に振り返ろうとして、要はすぐに動きを止める。
嫌な感覚が背後で、まるで燃え始めたばかりの火が枯葉と酸素を与えられ燃え上がるような。
例えるならば、赤く温かな火などではなく、どろどろとした黒い炎がそれらしい。
振り返らない様に首を正面にゆっくりと戻し、両手を床について這うように鏡から離れようとする要。
しかし、要は後方から腕を掴まれたのだ。
手より鏡の手前にある足ではなく、要の手首をぐいと引っ掴んで鏡の方へ引き戻そうとしている。
思いきり引っ張られた衝撃で、要はべしゃりと仰向けに床に倒れ込んだ。
それをいいことに要の右腕を引くものはずるずると鏡の方へと引きずっていく。
要も要で大声を出せばいいというのに、それすらも言葉が詰まって出てこなかった。
相手の良いように引きずられ、掴まれた右腕はすでに指先から肘までが鏡にとっぷりと飲み込まれている。
鏡は夕日を反射させてキラキラと辺りを照らし、鏡の向こうには要の右の手首が確かに何かにつかまれているように感じられる。
感じられる、というのも腕が鏡の奥に行くにつれて黒い闇の中に溶けて見えなくなっているからだ。
ようやく抵抗しようと思っても、要の非力な腕力では引きずられることを止めることができなかった。
「なんで、何もしてないのに…」
噂の通りならば、四時、四十四分、四十四秒に鏡に自分の涙を一滴入れた水をかけなければいけない。
要はただ鏡の前に座って時間が速く過ぎてくれるよう祈っていただけだ。
ギィィィィィキィィィ、突然鏡を引っ掻くような音が頭の上で聴こえた。
鋭い物で鏡を彫るようにギィ、キィィ、キィギィ、と音が一本続きではない。
今すぐにでもヒステリーを起こして叫び声を上げて人間の所業ではないぐらいもがいて意識などなくなってしまいたい。
なのに要の頭の中は酷くさっぱりしていて、背後を見るか見ないかどうするかを考える余裕ができている。
こんな時にも狂えない、こんなに一人不安に駆られているのに、ボロボロと大粒の涙がこぼれてくるというのに。
“サいシょかラ ナにもイラない”
意を決して右肩口の方から振り返った要だったが、丁度要の目線と同じような位置にその文字はあった。
鏡に、引っ掻いたような文字は歪で、ひらがなとカタカナの混じった気持ちの悪い文章だった。
「な、にも…い、い、らなっ…」
ガツン、息も荒くなりながら、回らない舌を回そうと少しでも時間を稼ごうと躍起になった要だが、突然、右側の額が思い切り鏡にぶつかった。
ガツンッ、ガツンッ、ガツンッ、右腕を引っ張られる度、勢いで額が鏡に当った。
パリッ、要の額が何度も打ちつけられた鏡には、僅かにひびが入り始めていた。
回数が増すほど、勢いは増し、何度も打ちつけられた要の額に血が滲む。
二、三度目辺りから、鏡と額の間に左手を滑り込ませたので少し切る程度で済んだが、左手を挟んでも額を打つのは少し痛みがあった。
不意に、要を引きずり込もうと引っ張る動きが止まる。
額を打ちつけられてくらくらとする頭、額を切ったことであっという間に涙よりも流れ出る血の量が優り始める。
ギィギィキィィィッ、ギキィィィィィィィ、キッキィギィィィィィッ。
頭痛のせいで薄い壁一枚向こうのように聴こえるあの不協和音。
このまま意識を失ってしまえば、引きずり込まれて死か、出血多量で死かのどちらかになってしまう。
嫌なことが起きる時、いつも自分は一人だった。
走馬灯のように頭の中に自分一人しかいない空間ばかりが甦ってくる。
要が一人をより一層怖がるようになったあの日、あの日も要は一人だった。
誰も要の名を呼んでくれなかった。
「嫌なことは…いつも、私…一人の時、ばかり…」
訳の分からない何かの文字に惑わされ、無力な要は誰かが階段を駆け上ってきてくれたような幻覚を見ながら目を閉じた。
“都合ノいイ話シを見つけタといウノに”
要が最後に聞いたのは、変声機で声を変えたような野太い男の声の様なものだった。
*
次に目を覚ました時、要は白い天井を見ることになった。
ベティ―がベッド脇の椅子に座って俯いていて、要が目を覚ましたことに気づくと、青白い顔をバッと勢いよく上げた。
要はあの場で気を失い、額から血も出ていたということで救急車が呼ばれたのだそうだ。
救急処置室のベッドの上、未だふらふらと揺れる頭を右腕で押さえようと腕を上げようとしたが、腕が上げられない。
見てみると、手のひらから凡そ肩の付け根まで、しっかりと包帯で巻かれて、アームホルダーに納められていた。
よくよく周辺を見れば、自身の服も制服から入院着の楽な格好になっている。
要の様子に気づいた看護師の女性が、バインダーを片手に寄って来る。
「鏡さん、具合はどうですか?念のため様子を見ますので、一晩入院していただきます」
看護師の女性は要に優しい声音で話しかけると、軽く一言二言質問をしてから去って行った。
「ベティ―、一体何があったの…?誰も、来なくて…何が起きたのか、よくわからないの…」
要のちぐはぐな言葉にベティ―は要の空いた左手を取って握りしめた。
「アタシだってよくわかんないわよ、踊り場に戻ったら要倒れてるし…鏡に変な文字いっぱい書いてあるし…」
話によれば、ベティ―が踊り場についた時、要は複数の先生と佐野崎と文太郎に囲まれ、何度も声をかけられていたらしい。
鏡は下半分が割れて崩れ、所々に血が付いていたそうだ。
そして壁に残った上半分の鏡には、びっしりと文字が彫り込まれていたらしい。
発見した当初は要が自分でやったのかと思われたそうだが、要の右腕に無数についた痣は、けして本人だけでできるようなものではなく、その場は何者かの侵入があったのではないかということで落ち着け、救急車を呼んだということだそうだ。
その痣というのも、人の手形や歯型で、左手の手形だけではなく右手のものも検査の結果あったということが分かったのだそうだ。
来るはずの先生が来なかったのは、一階の家庭科室で隠れていた生徒を見つけ、話を聞いていたかららしい。
そして結末はあまりにも簡単に訪れてしまったのだという。
「あの噂、その家庭科室で先生に捕まった子が言い出しっぺらしいの、図書室で借りた占いの本についてた小冊子に載ってたんだって…」
直ぐにそれは理事長に伝わり、その小冊子の製作をした人物について調べられたそうだ。
それが案外簡単に見つかり、何十年か前の初等部の卒業生で、しかも学園の教師になっており、すぐに連絡を取ることができたのだという。
「当時、自分達のつくったホラ話を信じ込ませたくてあんな小冊子作ったんだって、たかがホラ話でこんな大ごとになるなんて、その人も思わなかっただろうね」
そう言って笑ってみせるベティ―の表情はどこかぎこちなく、疲れが見える。
「理事長先生が言ってた、ああいう類のホラ話は、信じる人がいたり、実行する人がいたりして、最初が嘘だったとしても…本当になることがあるって」
後日、例の冊子を作った生徒の内の一人だった先生が、要の元に謝罪に来た。
要の一件もあり、あの事は事故として処理されたが、生徒の間では呪いの跳ね返りだとか、色々と噂されたのち、静かに、そしてあっという間に消えていった。
鏡も小冊子も然るべき所へ送られ、あの二階と三階の間の踊り場には、今後鏡は設置しないようにということで決着がついた。
ただ一つ、要が腑に落ちないのは、鏡に飲まれていた右腕がどうやって抜き出せたかということだ。
他の先生達もベティ―も部長も殿井も、要が鏡に埋まっていたという話は一つもしない。
自力で抜け出すのはまず不可能だったはずなのに、ふと要が思い出すのは、気を失う前に階段を駆け上ってくるように見えた陰だった。
それがいったい誰だったのか、どうして要を助けたのか、そして助けてくれたとしてどうやったのか。
煮え切らないまま、部の調査報告書には依頼人の名前のない報告書が提出された。
筆者は佐野崎で、現場にいた人達から見れば大部分の出来事を省く形にはなったが、簡潔にこう書かれていた。
“鏡の老朽化に伴い破損、怪我人も出たことから、噂は検証不能により断念。”
“しかし、噂はかつての卒業生の手で作られた創作であることが調査により判明しました。”
“現在鏡は撤去されていますが、破片などに注意して、ふざけずに階段を使用してください”
あの鏡に潜んでいたものは何だったんだろうか、今となっては知ることはできない。
今後、他の階段に設置してある鏡も徐々に撤去されるということを要はベティ―から聞いた。
同じような噂が流行らないようにするための予防になることだろう。