「教えておくれ」(2)
「今日は、初等部に行きます」
佐野崎はそう言って、一枚の紙をテーブルに置いた。
それはいつもの依頼書ではなく、万年筆の様なペンで達筆に書かれた文だ。
「初等部の特別教室棟、一番北側の階段の踊り場に設置してある鏡の様子を見てくるように 理事長」
紙に書かれた文は、代表してベティ―が音読した。
部活動開始前のあの依頼書の束が関係してのことなのだろう。
要がそう思っていると、佐野崎が更に言葉を続ける。
「部活をお休みしていた数日の間に、沢山の調査依頼の紙が箱に投函されていました。その中でもこの初等部の階段の踊り場の依頼がダントツに多かったんだ、夕方まで残ってその噂を実行をしようとする生徒が多数出ているそうなので、早く帰すために見回りをするように、と言うのがここしばらくの部活動の内容です」
てっきりその噂について調べる依頼だとばかり思っていた要は、部活内容のまともさに逆に驚いてしまった。
「聞くところによると、その噂の実行の仕方がちょっとね…変ってわけじゃないんだけど、何かあったら大変だからって…」
「いや、それ僕達はどうなってもいいんですか」
佐野崎の言葉にサッと素早くツッコミを入れる殿井。
「僕たちも確かに素人だけど、流石に踏み入っちゃいけないラインぐらいは弁えているつもり…と思いたい、それに下級生の安全を考えるのも、先輩の務めなのかなって…」
「そう理事長に言いくるめられてたりして…」
今度はベティ―の言葉がザクリと佐野崎に突き刺さる。
どうやらそれは図星のようで、佐野崎の目が右往左往してしきりに瞬きをしているのは、誰が見ても、明らかに焦っている人間がしそうな顔だ。
「危ないことには首突っ込むな、って理事長だったらこんな部活存続させてないわよねぇ」
ベティ―の言っていることも一理ある。
理事長がどんな意図でこの部を存続させているのかは知らないが、依頼されてきたものの中から実際に調査する依頼を選ぶのは理事長の役目だと聞いた。
依頼内容はもちろん確認済み、それでもなお依頼をこなすように指示するのだから、保護者に文句を言われないのかと心配してしまう。
今までも、まったく保護者に文句を言われなかった、と言うわけでは決してないだろう。
そしてこの部に入る人も入る人だ。
「取りあえず、初等部に生徒が残ってないかを初等部の先生達と協力して見回りをします」
そう言って佐野崎は、棚の上のファイルの右隣に置いてある三段の引き出しの中段から四角い板のようなものを取り出した。
A4サイズほどのホワイトボードだった。
そこにペンで何やら書き加えると、それを持って部室を出る。
皆佐野崎に続いて部室を出ると、佐野崎は部室の戸に吸盤でくっついているフックにそれを掛けた。
“ただいま不在中です 怪探部”と黒いペンで書かれたそれは、丁度人の目の高さ辺りで揺れている。
「それじゃあ、初等部まで行こうか」
*
佐野崎を先頭にして移動を始める一行。
三階は思いの外静かで、聴こえてくる声は大方二階や外にいる運動部の声ばかりだ。
一階まで降りて昇降口で靴を履き替えて外に出る。
初等部でも使うから、と上履きを持つようにとだけ言われ、それぞれ上履きを片手にしての移動になった。
外に出て右手には体育館があり、そこでも賑やかに部活動をしている生徒の声が聞こえる。
正面には低めの土手の下にグラウンド、現在は陸上部が校庭の周回をしているところだった。
そのグラウンドを挟んだ向こう側、土手があって、街路樹の並ぶ歩道があり、更に向こうに初等部の校舎の屋上付近が僅かに見える。
土手を下らずに体育館脇の道を通って歩道まで出て、歩道のカタカナのトの字のようになった歩道を直進する。
両脇に街路樹の立つ歩道を二、三分歩いたところで、初等部の校舎がだんだんと大きくなってきた。
高等部と大差ない造りの校舎だが、高等部と違うのが教室棟と特別教室棟とで校舎が別れているということだ。
「今正面に見えてるのが教室棟、教室棟からの移動もできるけど、外から直接特別教室等に入ることもできるんだ」
佐野崎がそう言って教室等の脇を通り抜けていく。
「特別教室棟に直接来るように言われてるから、僕達はそっちに」
佐野崎が付け加えるように言う。
外から入るための入り口は、教室棟と連絡通路で繋がっている側面とは反対側にあった。
白い枠にガラスのはめ込まれたドアで、取っ手を奥に押し込んで中へと入る。
グレーと白の市松模様にはめ込まれたタイルの床に足を踏み入れると、すぐ右手に下駄箱があった。
下駄箱には生徒のものと思われる靴は入っていない。
そこへ自分達の靴を入れ、上履きを履いて廊下に上がった。
下駄箱の陰にはすぐ階段があり、階段の踊り場、外に面している方は明り取りの為にはめ殺しの窓にされているのが階段の下から見えた。
佐野崎はその階段の方へは行かず、前方にまっすぐ伸びた廊下を進んで行った。
「廊下の突き当りにも階段があってね、そこの三階へ続く階段の踊り場が目的の場所でね、あ、着いてからまたちゃんと話すね」
要達の右手側に教室の入り口があり、扉の上あたりにプレートが付けてあった。
多少見上げて文字を読むと、手前から奥にかけてふた教室、「図工室」「家庭科室」があった。
それぞれの教室の手前側には準備室もある。
教室の横を通り過ぎていくと、教室終わりの壁があり、右手に階段があった。
階段の向って左側、昇りの階段下のスペースには掃除用具などが収められているロッカーが二つ置いてある。
先に佐野崎達が階段を上がっていくので、要はそんな階段下を眺めながら階段を登って後を追った。
二階を通り過ぎてまた階段を十数段登るとすぐ、その踊り場はあった。
窓の外から差し込む光があるせいか、そこが何らかの呪いをするような場所には思えなかった。
他の四人の間から上へ上がる階段側の壁に取り付けられた大きな姿見の鏡を要は見やる。
鏡に映るのは自分達の今の姿だけで、この間のような嫌な雰囲気などどこにも感じられない。
「ここからは三組に分かれて行動するよ、一組はここに残ること、他の二組はそれぞれこの棟の教室を回って生徒が隠れていないか確認すること…です」
組み分けはグーチョキパーで分けることにした。
一度では決まらず、何度目かでようやくペアが決まった。
佐野崎と文太郎、そしてベティ―と殿井、見事に要だけが一人となってしまった。
元々が奇数だった為、誰か一人が必ずペアを組むことができないのはわかっていたが、よりにもよってそれが要だったのだ。
「鏡さんはここで待機で、すぐに初等部の先生が来るからね」
僅かな時間でも一人その場に残される。
なんとか佐野崎に「はい」と返事を返したものの、要の顔は雨を降らせそうな鈍色の重い雲がかかったような表情だ。
見かねたベティ―が要に言う。
「やっぱあたしと組まない?」
要の暗い表情を見たベティ―が心配そうに提案する。
しかし、要は首を横に振った。
「決まったこと、だから…。すぐに先生も来るっていうし、立って見てるだけだから…」
歯切れの悪いもごもごとした話し方をしながらも、要は何とか言い切った。
ベティ―も、要自身がそう言うならばと、殿井とともに三階の方へと階段を登っていく。
佐野崎と文太郎も通り過ぎた二階の方へと降りて行った。
さっきまで聴こえてきていたと思っていた高等部のグラウンドでの賑やかな声も、今は全くしないように思える。
しん、と雪の降る山の中のような静けさが、要の不安感をかき立てる。
一人になると、要はいつもこの不安感に襲われた。
夕暮れ時の寒い雪山、そこで一人置いてけぼりを喰らい、本当に一人になったあの日から。
一人という空間が、まるでこの世から自分以外の“生き物”が消えてしまったかのように感じるからだ。
例え誰とも話せずとも、他に誰か人のいる教室の方が、またその場に一人という状況よりはましな空間だった。
本当ならばベティ―に頼んで行動を共にしたい気持ちはやまやまだったが、今この段階ではここに“なにか”がいるような雰囲気はない。
どこにでもいられたら困るわけだが、要の分かる範囲ではいないという結論が出た。
だからこそ一人という空間を堪えようと決意できたのだ。
上りの階段と下りの階段を交互に見ながら、初等部の先生はいつ来るのかと落ち着けないでいる要。
要の感覚では既に五分は時間が経過しているように思える。
腕に着けていた茶色の女性用の腕時計を何度も確認しながら、要は踊り場の端から端を行ったり来たりして落ち着けない時間を過ごした。