溢れんばかりの愛が欲しい
「溢れんばかりの愛が欲しい」
その言葉と泣き顔を、私は生涯忘れないだろう。
だって、こんな状況でも思い出せるんだから。
自嘲の笑みを溢しながら、眼前に降りかかる刃を自らの剣で受け止める。泥と血に汚れた顔で私を睨みつけてくる相手は、私の自嘲を己への嘲りと誤認したのか、その形相は更に険しいものとなる。
鍔迫り合いを続ける気は毛頭ない。
素早く身を返すと、体勢を崩した相手の背に剣を突き立てる。声を上げることもなく、その体が泥に倒れる。
気付けば雨が降っていた。
全身を濡らすのは、雨だったのか、血だったのか、それすら分からないほどの時間をこの場で過ごしていた。
雨で曇る視界の中、更に一人、また一人と私に斬りかかる。歩みを止めることなく、腕の振りだけで斬りかえす。傷が浅かったか、悲痛な叫び声をあげてのた打ち回る姿に、一瞬動揺してしまう。
ダメだ。
最小限の力でこの場を切り抜けなければ、あいつを殺せない。
彼女は、いつも笑っていた。
私はその笑顔が大好きだった。無邪気で、無垢な、愛らしい笑顔。一切の穢れを纏うことなく、清らかに生きていてほしい。そのためなら、私は彼女に振りかかる汚いものを全て負う覚悟だった。
「聞いて、私ね、国王陛下に見初められたの」
その日も、大好きな彼女が大好きな笑顔を私に向けた。私は純粋に喜んだ。これで彼女は幸せになれると疑いもしなかった。今となっては、あのころの自分を大莫迦者だと叱ってやりたい。
彼女と一緒にいるために、近衛騎士となった私は、変わらぬあの笑顔を見続けるつもりだった。しかし、国王の興味が他の女性に移るようになり、次第に彼女はおかしくなった。情緒が不安定になり、ヒステリックに喚き散らすようになった。国王はそんな彼女を見捨て、別の寵姫の元へ入り浸った。
私が宥めても、誰が何を言ってもダメだった。国王を呼び続け、憔悴し、その瞳に何も映らなくなってしまった後、息を引き取った。最後まで、彼女は国王を求めた。私ではなく。
彼女が私を選ばなくても構わない。
私の一番は彼女なのだから。
「元はと言えば、全てがお前のせいだ」
呪詛の言葉は、雨音にかき消される。
途端に駆けだした。雨粒が頬を容赦なく嬲りつける。目に入る滴を煩わしいと思う暇もなく、かつての同僚たちが斬りかかる。あと少し。あと少しで、あいつを殺せるんだ。
「隊長! もうやめてください!」
騎士の叫びに、剣戟で返す。それを受け止める騎士の表情は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「私は、もうお前の隊長ではない」
吐き捨てた言葉は震えていた。やめてくれ。私の一番は彼女なんだから。
私は剣を返し、柄で思い切り騎士の鳩尾を殴った。崩れ落ちるその姿を見届けることなく、また駆けだす。決して情けでも容赦でもない。
降りかかる剣戟を躱しながら、あいつの元へ駆け抜ける。
あいつは、豪奢な馬車の前で、わざわざ私を待ち構えていた。馬車に乗っていればそのまま逃げられただろうに、酔狂な奴だ。
口元が歪む。やっと殺せる。
一瞬、足が止まりそうになった。振りかぶった私の目の前には、私と同じ、微笑みを湛えたあいつの顔。
何故、お前まで笑う?
唐突な衝撃。下肢を伝って地に滴り落ちるのは、生暖かいもの。
目の前には指先一つ動かしていないあいつの姿。
間髪を入れずに、また数度の衝撃が体を襲う。
口からも、せり上がるものがあり、ボタボタと雨に混じり流れ落ちる。
あいつの微笑みは変わらない。私はその微笑みを知っている。純粋無垢な彼女の微笑みではない。汚れた業を背負う、自嘲の笑み。
私と同じだ。
あいつは私の目を真っ直ぐ見つめてくる。
「これまでの忠義……、大儀であった」
その言葉と共に、私を貫く幾振りの剣が抜かれ、私は無様に泥の中に倒れこんだ。
思い出すのは、幼い彼女の姿。孤児院の厳しい環境の中でも常に笑顔を湛えた彼女。一度だけ、夜中に孤児院を抜けだして、二人で母親を探しに行ったことがあった。幼い子供が遠くまで行けることもなく、直ぐに連れ戻され、酷い折檻を受けた。
「溢れんばかりの愛が欲しい」
そう言って、彼女は泣いた。後にも先にも、彼女が泣いたのはそのときだけだった。
愛に飢え、愛を求め、人を愛することでしか自分の存在価値を感じられなかった愚かな彼女。私は彼女を守ると決めた。私への愛が無くても良い。気付かれなくてもいい。溢れんばかりの愛を、私が与えようと思った。
きっと私の行為は理解されない。国王の気まぐれで寵愛された孤児のことなど、誰も同情しない。ましてやその孤児を愛した一介の騎士のことなど、知ることもないだろう。
最期の力を振り絞り、未だその場に立ち尽くしている人物を見上げる。
「…………あなたが……笑えるように、願っています」
自嘲を湛える国王の表情が揺らぐ。
そんな笑顔ではなく、彼女のように、優しい微笑みを湛えてほしい。どうかお願い。彼女が愛した人。
「お前には、近衛隊という居場所があっただろうに。あの愚かな娘に執着し、私を殺すことで愛を証明しようとでも思ったか?」
国王は、いつの間にか地に膝を落とし、私を見下ろしていた。
「………………分かりますまい、誰にも」
もう、喋ることが苦しい。
「…………」
国王は答えない。
皆が口々に言う。愚かな娘だと。それだけの理由で国王を憎むのは、只の逆恨みだと。それでもいい。一緒に死んでやれなかったから。私の心の隙間を埋めるのは、国王への憎悪と復讐心だけだった。
分かっている。
私が間違っていることも、私の愚かさも。
「お前は、私と似ている」
段々と鈍くなる体の感覚と対照的に、雨音と国王の声だけが五月蠅いほどに響いていた。
濁った視界に映るのは、泣きそうな国王の顔。
「…………あなたは、………………彼女に似ている」
嗚呼、あなたが求めたものも愛情だったのですね。私のように。彼女のように。
そうか、彼女に似ているあなたなら。
「………………私が、あなたを愛しましょう」
私の後悔。せめて、最期にきちんと伝えたかったから。
国王の、彼女の、微笑みを見た気がした。
愛し方を知らなかった愚かな私。気づけなかった愚かな彼女。
私の溢れんばかりの愛を、どうか今受け取ってほしい。