3.気狂いたちの食事会
その男は悪魔でしたが、自分の正体を巧妙に隠し、人間の世界でごく平穏に暮らしていました。
男が町はずれの小屋で木こりを始めた頃、町人たちは余所者である彼を警戒しました。しかし男が森で伐採した木材を売りに町へ来るたび、その生真面目で温厚な人柄を知るにつれて、町人たちの警戒はほぐれ、優しく接するようになったのです。
一人暮らしで不便だろう、困った事があればいつでも言ってくれよ。まあまあ、いつも精が出るわね。わ、私、あなたの事が……!
男は自分が生まれた冥界では決して向けられない気持ちを覚えて、心が震えました。
その気持ちに報いようと、木こり仕事を一所懸命に頑張りました。
いつしかお金も溜まり、家具や道具も増え、随分と人間らしい生活ができるようになりました。
これなら以前から夢見ていたパーティーも開けそうです。友人である悪魔のジキも呼んで、ちょっぴり豪華なパーティーを開く事にしました。
得意の連絡の魔法でジキと約束を取り付けると、早速パーティーの準備に取りかかります。家の掃除で一日、飾りつけに一日、食材を狩って料理するのに一日かかりました。
さあ、準備は万端です。男はジキの到着を待ち遠しく思いました。
ジキも人間の世界にいるのですが、彼は嘘をつけない悪魔なので、普通に生活するのも大変なはずです。だから自分が精一杯ねぎらってあげよう、と決めていました。
最近は悪魔の力で魔王を倒そうとする勇者がいるらしいですが、心配は無用でしょう。
だって自分のような、連絡の魔法に特化した悪魔など、わざわざ相手にしないでしょう。嘘をつけない悪魔であるジキも、障害になんてなり得ません。
だから扉がコンコンと軽い音でノックされても、何の疑いもなくジキが来たんだ、と信じて家の外へ出るのでした。
「いらっしゃい、ジキ!」
そしてちょこんと立っていた少女を見つけると、背後の家が空から降ってきた氷山に潰される音を聴きました。
『お前がトハだな。親分と会話する準備をしろ』
悪魔は自分より強い者には絶対服従。さっきの氷山を防げなかったトハは、「わかりました」と返事をする以外の行動なんて、取れるはず無いのでした。
ごちそう、やっと食べれると思ったのにな。
トハは空中に浮かぶ鏡を作り、そこに映し出された相手と会話する魔法を使いました。
生首のガルーカンが鏡の向こうの魔王に誤解を解いている間、ゼファーは氷山に潰された家の残骸を、じっと見つめていました。
する事がなくて暇なトハは、彼女の隣に腰を下ろし、独り言のように愚痴を零します。
「酷いですよねぇ。ずっと頑張って人間らしい生活をしてきたのに、一瞬で無意味にされちゃいましたよ」
「まさに悪魔の所業」とトハはいっそ尊敬の念すら抱いたようです。
「……ひどいね」
だからゼファーの呟きは、トハの意見に対してのものではありませんでした。
それにトハも気付き、「何がです?」と聞いてみました。
「あなたそのものが」
トハは被害者なのに、どうしてそう思われるのか理解できず、怪訝そうに顔を歪めました。
「どうしてです? 私、かわいそうじゃないですか。私に好意を持っている人間を食べなきゃ消えるんですよ。だから信頼してくれた町の人たちを料理したのに、欠片も食べられなかった」
「ああ、なんてかわいそうだ!」と潤む両目を片手で覆うトハは、心から落ち込んでいました。何の罪も無い人間を食べなければいけない事に、ではありません。養豚場で手塩にかけて飼育していた豚を食べられなくて、でした。
それを見たゼファーは、二人の、いえ、人間と悪魔の間に、明確な溝が見えました。
お互いに譲り合って一緒に生きていく風景など、有り得ないのです。
だから今更トハが軽い思いつきで何を口にしても、ゼファーは何のショックも受けませんでした。
「この際、あなたでもいいかもしれませんね。悪魔をそんなには嫌悪していないようですし、それだけで充分好意と言えるでしょう」
ただ、何故、悪魔を誰より本当の意味で怖がっているゼファーに、気づかない振りをしてそう言ったのかは、わかりませんでした。
でも、ゼファーに手を伸ばしかけたトハの首を、ガルーカンが右手に持った氷の鎌で斬り落とした事で、わかりました。
「俺に枷を破らせようなんざ、大した悪魔だ」
ゼファーの足下に転がってきたトハの生首は、全ての苦しみから解放されたような晴れやかな顔で、穏やかな声をかけました。
「悪魔は自分より強い者には勝てないけれど、歯向かう場合はあるんですよ」
残された身体が灰になって消えていきます。
「欲望に支配された時です」
灰となったトハの首は風にさらわれ、消えていきました。
だからもう、彼が支配された欲望は、食欲なのか、逃避なのか、解放なのか、わかりませんでした。
ガルーカンと二人きりになったゼファーは、はっきりした声を響かせます。
「ガルー」
次は、とても不安に怯えた声で。
「消えて」
ガルーカンは悪魔が怖くなったのだろうと思い、ゼファーの中へ入る事で消えてあげました。
ガルーカンの顔が見えなくなると、ゼファーは心から安心して、泣きそうになるのでした。