1.悪魔の暗闇へ落ちて
むかしむかし。
トイランド王国の王都に、ゼファーという小さな女の子がいました。
ゼファーには両親も家もありません。毎日を治安の悪い路地裏で暮らし、食べ物を探していました。
そんなある日、ゼファーは道端できれいなペンダントを拾いました。
そのペンダントは、別に色鮮やかに輝いているわけではありません。真っ黒な丸い石が銀の鎖で繋がれているだけです。しかし、この路地裏で転がっているのに傷一つ無いという事が、何よりも“きれい”に見えたのです。
そうしてゼファーがペンダントに見とれていると、次の瞬間には辺りが真っ暗に包まれました。
夜になったわけではないようです。真っ暗な世界で、ゼファーとペンダントだけがよく見えました。
そしてそのペンダントから、低く囁くような男性の声が聞こえてきたのです。
『お前の名を教えろ』
「……ゼファー」
ゼファーがよくわからないまま素直に返事をすると、ペンダントが浮かび上がり、紅い血の色をした霧のようなものに変化しました。
「よく聞けゼファー。俺は悪魔ガルーカン。お前の願いを一つだけ叶えてやる」
「ほんと!?」
ゼファーはぱっと顔を輝かせましたが、その視線はあらぬ方向へと向いています。
「……おい、どっち見てんだ。俺はこっちだ。紅いのが見えるだろ」
「ん~? 悪魔さんの顔、どこ?」
ガルーカンは悟りました。ゼファーは顔が見えないと、相手の存在を認識できない、あまり賢くない子供なのだと。
ガルーカンは面倒臭さにため息をつきながら、紅い霧の中に人間の男性の顔を作ってあげました。
ふよふよ浮かぶ生首の姿に、ゼファーは「お~」と感激したようで、パチパチと手を鳴らすと、ふと疑問を抱いて首をかしげました。
「なんでゼファーの願いを叶えてくれるの?」
「成長しきった大人の願いは聞き飽きたからな。幼い子供は何を願うのか興味があって、契約用のペンダントを落としたんだ。まあどうせ食い物が欲しいとか、そういうチンケな願いだろうがよ」
ガルーカンは変に警戒させないよう、なるべく柔らかい言葉で説明してあげました。
「さあ、お前の願いを言ってみな」
「ゼファー、おうちに帰りたい!」
そら来た、やっぱりチンケな願いだったぞ、と悪魔はしたり顔で笑いました。
「はいよ、叶えてやる。で、家はどこだ?」
ガルーカンは問いかける事で、ゼファーが頭に浮かべた場所へ、一瞬で移動する魔法を使おうとしたのです。
しかし、ゼファーが頭に浮かべたのは、絵に描いたような家で、とても現実に存在しているようには感じ取れませんでした。
「ゼファーのおうち、わかんない。ずっと路地裏で暮らしてたの」
ガルーカンはさっと青ざめました。子供の願いなんて簡単に叶えられるものだとタカをくくっていたのに、どうやらとんでもなく厄介な願いをかけられてしまったようなのです。
路地裏で暮らしていたという事は、親に捨てられたのかもしれません。それならゼファーの両親は生きているかもしれません。しかし悪魔は血縁者を探す魔法なんて使えません。悪魔にとって血縁など、とても希薄なものなのです。だからそんな魔法など、使えるはず無いのでした。
ガルーカンは深くうなだれて考え込み、どうすれば契約を果たせるのか、とても考えました。
「……あ。そもそもお前、どうして自分の家が無いのに、家に帰りたいなんて願ったんだ?」
「みんな、誰でもおうちがあるものなんでしょ? だからゼファーにもおうちがあると思った。だからゼファーもおうちに帰りたいって願ったの」
ガルーカンはゼファーの言いたい事を、自分なりに噛み砕いて理解しました。
「……つまり、ここがお前の家だよ、と受け入れる場所さえあればいいわけか」
人間の家だと、路地裏暮らしのゼファーを受け入れてくれる家を見つけるのは難しいでしょう。身元が不明で、しかも今は悪魔と契約している子供なんて、厄介者扱いをされるに決まっています。
孤児院でいいのではとも思いましたが、この街の孤児院はすでに満杯で、しかもゼファーの願いである“おうち”の条件には当てはまらないでしょう。
面倒臭い。ガルーカンはさっさと楽になるために、最も手っ取り早い考えを弾き出しました。
「よし、ゼファー。お前は俺の家に連れて行ってやる。そこがお前の“おうち”だ」
「ほんと!? ありがとガルー!!」
ガルーカンは、自分を愛称で呼ぶほど信頼させたのだな、と思い得意顔になりました。でもゼファーは単に、長い名前は呼び辛いから略しただけでした。
それでは早速冥界に帰ろうと、ガルーカンは移動の魔法を使おうとします。しかしすぐにイラ立って舌打ちしました。
契約した悪魔は契約が終わるまで、自分の魔法では冥界に帰れないルールがあるのです。
ガルーカンはまずその事をゼファーに説明しました。
「だから俺の魔法以外で冥界に行く方法を取らなきゃならねぇ。あちこち歩き回るだろうし、時間もかかるかもしれねぇ。俺はお前が死なないように守るが、覚悟はあるか?」
覚悟と言ってどこまでゼファーに伝わるかわかりませんが、ゼファーは力強く頷きました。
「おうちに帰るためなら、ゼファーがんばる!」
その返事にガルーカンは「上等!」と悪そうな顔で笑い、ゼファーは気付けば元の路地裏で一人たたずんでいました。
「ガルー? ガルー、どこ?」
『お前の中だよ』
言われてゼファーは自分の胸を見下ろしましたが、そこにはあのきれいなペンダントが下がっているだけでした。
『お前に取り憑いて身体を魔力で強化するのが確実安全だからな。危ない目にあったら俺がお前の身体を動かして対処する。だから不安になるな。胸を張れ!』
「うん!」
ゼファーはずっと一人だったけれど、これならずっと一緒です。ゼファーはとても嬉しくなって、にこにこと笑顔が絶えませんでした。
そして、二人の旅が始まったのです。