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「命の恩人の娘が先だ」と父が言うので一歩下がったら、公爵閣下が「君が先だ」と動いてくれません

作者: みれいぬ
掲載日:2026/10/28

「命の恩人の娘が先だ」


 グラナーティ侯爵家の大広間の扉の前で、父は、後ろに並んだお客様にまで聞こえる声でそう言った。


 取次の白髪の家令は、父の差し出した招待状に目を落としたまま、「ご令嬢方は、どちらのお名前から」と尋ねただけだった。それでも父は、いつもの答えをいつもの声で返した。後ろのほうで、どなたかが「恩を忘れぬ伯爵様ね」とささやいた。


「ランベルティ伯爵、ならびにアルバ・ランベルティ嬢」


 取次の声が広間に響く。桃色のドレスの義妹が、父の腕に手を添えて扉をくぐった。高く結った栗色の巻き毛の下で、真珠の首飾りが揺れている。亡くなった母の真珠だ。


 アルバは一度も止まらなかった。アルバが扉の前で止まるのを、私は見たことがない。


 私はアルバの肩掛けと扇を胸に抱えて、扉の手前に残った。私の名前は、呼ばれない。


 十年前の春、領地から王都へ向かう途中で、父の馬車が増水した川に流された。護衛の騎士ブルーノ様が父を岸へ押し上げ、ご自分はそのまま流されて亡くなった。父はブルーノ様の一人娘を養女に迎え、「恩人の娘を、何より先にする」と誓った。


 それから、この家ではアルバが先になった。


 八つの春、アルバの部屋が私の隣に決まった日に、父は私に言った。


「キアラ、アルバに先を譲りなさい。あの子は父親を亡くしたのだから」


 その晩、寝台で泣いていた私の髪を撫でながら、ばあやのテレーザが言ったのだ。


「お嬢様。後ろからは、よく見えるものですよ」


 だから私は、後ろに立つことにした。


 私の誕生日の菓子の蝋燭は、毎年アルバが先に吹いた。あの子は父親に誕生日を祝ってもらえないのだから、と父は言った。母が私に残すと言っていた真珠は、今年の春、アルバのお披露目の晩にアルバの首にかかった。一つ年下の義妹が先に社交界に出て、私のお披露目は「アルバの縁談が決まってから」になった。


 この国では、舞踏会の扉で取次に名を呼ばれて広間に入った晩が、社交界に出た晩になる。名を呼ばれる前の娘も、家族の付き添いとしてなら舞踏会に来ていいけれど、扉で名を呼ばれず、踊らない。私はアルバの付き添いだ。肩掛けを持ち、扇を持ち、髪がほつれたら直す。侍女より上手だからと、アルバが私を望んだ。


 うちは、一つの季節に娘一人分の支度しか出さない。今年仕立てた夜会のドレスは、五着ともアルバのものだ。私が着ているのは、母の古いドレスを、テレーザが夜なべして仕立て直してくれた灰がかった薄青の一着で、付き添いにはこれで十分だった。


 後ろに立つのは、嫌いではない。


 後ろからは、前に立つ人が見ていないものが見える。裾を踏まれそうな令嬢、早く帰りたそうな殿方、お皿の端の焦げた焼き菓子。そういうものを見つけるのが、私はわりと好きだった。


 見つけると、ついでに先も譲ってしまう。今夜もついさっき、玄関の広間で、侯爵家の小さな白い犬に道を譲ったところだ。犬は礼も言わずに通っていった。


(犬にまで譲ることは、なかったかもしれない)


 そんなことを考えていたら、背中のすぐ後ろに人の気配がした。


 振り返ると、背の高い殿方が立っていた。黒い髪を後ろへ撫でつけ、深緑の上着に飾りのない銀の留め具。濃い青の目が、扉の前で立ち止まっている私を見下ろしている。


 私は一歩下がって、扉の前を空けた。


「お先にどうぞ」


「いや」


 殿方は、動かなかった。


「君のほうが先に来ていた」


「私は付き添いでございます。名を呼ばれる者ではございませんので」


「そうか」


 殿方は、やはり動かなかった。


 後ろにお客様が詰まり始めた。取次は招待状を持った手を宙に浮かせたまま、私と殿方を見比べている。


「どうぞ、お先に」


「君が先だ」


(どうしよう。動いてくださらない)


 殿方は、取次のほうへ顔を向けた。


「その招待状の宛名は」


「は。ランベルティ伯爵、ならびにご令嬢方、と」


「では、令嬢の名が、まだ一人分残っている」


 取次の目が、私の顔に戻ってきた。


 扉の向こうに、父の背中が見えた。アルバをどなたかに紹介している。父はこちらを振り返らない。


 私は殿方を見上げた。殿方は、扉の前から一歩も動かない。私が入らないかぎり、この方もここから入らないつもりらしい。後ろのお客様たちが、ひそひそと何か言い始めていた。


「……キアラ・ランベルティと申します」


 自分でも驚くほど小さな声になった。取次は招待状の宛名にもう一度目を落とし、うなずいて、広間のほうへ向き直った。


「キアラ・ランベルティ嬢」


 生まれて初めて、私の名前が扉の向こうへ呼ばれた。


 私は扉をくぐった。


 前に、誰もいなかった。


 いつもそこにある、アルバの桃色の背中がない。父の茶色の上着もない。シャンデリアの光と、磨かれた床と、こちらを向いた大勢の顔があるだけだ。


(どこを見て歩けばいいの)


 足が止まりそうになったとき、すぐ後ろで取次の声がした。


「カステルノーヴォ公爵閣下」


 広間のあちこちで、話し声がふっと途切れた。


(公爵、閣下)


 カステルノーヴォ公爵。王家の遠い親族で、北の湖のほとりに広い領地を持ち、兄君を亡くして若くして爵位を継いだ方。どの家の母君も、娘を前へ押し出して紹介したがる方だ。


 広間の真ん中で、アルバの肩越しに振り向いた父の口が、開いたまま止まっていた。


* * *


「ランベルティ家に、お嬢さんがもう一人いらしたの?」


「上のお嬢さんよ。いつもアルバ嬢の肩掛けを持っている方」


「上のお嬢さんが、後からお出になるの?」


 ざわめきの中を、父が人をかき分けてやってきた。私の腕をつかんで、壁際まで引いていく。


「なぜ名を告げた」


 父の声は低かった。父が人前で声を張るのは、美談を語るときだけだ。


 一度扉で呼ばれた名前は、取り消せない。今夜が私のお披露目になってしまったことは、父にも分かっている。だから、声が低いのだ。


「アルバが先だと言っただろう。名を呼ばれたからといって、お前の支度を出すつもりはない。今年はアルバの年だ。お前はこれからも、アルバの付き添いだ」


「はい。ですが、閣下が動いてくださらなかったので」


「閣下が……?」


 近くで扇を使っていたヴェントゥーリ伯爵夫人が、隣の夫人に何か耳打ちした。扇の陰の声が、ここまで届いた。


「ふつうは、上のお嬢さんが先でしょうに」


 父の耳が赤くなった。けれど父が何か言うより先に、近くのお客様たちが左右に道を空けた。


 公爵閣下が、こちらへ歩いてくる。舞踏会では一曲も踊らないことで知られた方だと、前にアルバが言っていた。その方が、踊りの輪にも娘たちの集まりにも寄らずに、壁際まで来る。


 父の背が、すっと低くなった。


「これは閣下! ランベルティでございます。こちらが娘の」


 父はアルバの背に手を当てて、私の前へ押し出した。


「アルバでございます。私の命の恩人の娘でして」


「アルバ・ランベルティでございます」


 アルバが膝を折る。閣下はきちんと礼を返した。それから、アルバの肩越しに私を見た。


「キアラ嬢」


 呼ばれて、私は肩掛けを抱え直した。


「扉の前で私に譲ったのは、私の身分を見たからではないな」


「どなたにでも、譲ります。さきほどは、侯爵家の犬にも」


 閣下は、ほんの少し目を見開いた。


「では、後ろから何が見えた」


 少し迷ってから、私は正直に答えた。


「閣下が扉の前で、一度だけ息を止めてから、肩をお上げになったのが」


 閣下は、横を向いた。


 口元を手で覆っている。その肩が、小さく揺れていた。


(笑っていらっしゃる)


「……見られていたか」


 しばらくして、閣下はそれだけ言った。


「お義姉様、肩掛けを」


 アルバが振り返って、手を伸ばした。私は肩掛けをアルバの肩に掛け、いつものように一歩下がった。


 父がアルバの横に並んで、閣下に話し始めた。恩人の話だ。父は初めて会った方には、必ずこの話をする。


「ブルーノは息を引き取る前に、私の手を握って言ったのです。『伯爵、娘を、何より先にしてやってください』と」


 父の声が、少しだけ大きくなる。近くの方々が振り向いて、うなずく。いつもの晩餐と同じだ。


(その「何より先に」は、いつからお話に入ったのだったかしら)


 私は二人の後ろに立って、閣下の横顔を見ていた。


 閣下は父の話にうなずきながら、一度だけ、こちらを見た。


◇


 屋敷に戻ったのは夜更けだった。


 父とアルバが寝室へ上がってから、私は台所の脇の小部屋をのぞいた。テレーザは、いつものように繕い物をしながら私を待っていた。


「お帰りなさいまし。今夜も、肩掛け持ちで?」


「ええ。でもね、テレーザ」


 私は、テレーザの隣の小さな椅子に座った。


「名前を、呼ばれたの。扉の向こうへ」


 テレーザの手から、針が落ちた。


「どなたが、お嬢様のお名前を」


「取次の方が。……公爵閣下が、扉の前から動いてくださらなかったの。私が先に入らないと、閣下も入れなくて」


 テレーザはしばらく私の顔を見ていた。それから、繕い物を膝に置いたまま、エプロンの端で目元を押さえた。


「まあまあ。まあまあ、お嬢様」


「泣かないで。踊ってもいないのよ。壁際で、閣下と少しお話ししただけ」


「十分でございますよ」


 テレーザは鼻をすすって、笑った。


「後ろから見ていた甲斐が、ございましたねえ」


◇


 翌朝、カステルノーヴォ公爵家から花束が届いた。


 白と薄紅の薔薇に、名前を知らない青い小花が混ざっている。添えられた札には、癖のない細い字で一行だけ書かれていた。


 キアラ・ランベルティ嬢へ。


 私の名前が一番上に書かれた物を受け取るのは、初めてだった。


「まあ、きれい!」


 朝食の席から、アルバが駆けてきた。


「アルバの部屋に飾りなさい」


 父は札にちらりと目をやってから、新聞に目を戻して言った。


「恩人の娘が先だ」


「ありがとう、お義姉様」


 アルバは花束を抱えて、階段を上がっていった。私の手には、抜き取った札だけが残った。私はそれを、手提げの内側の小さな物入れにしまった。


 廊下の陰で、テレーザが盛大にため息をついた。


 その日の午後、父は私を書斎に呼んだ。


「閣下ほどのお方なら、アルバの相手にこそふさわしい。わかるな」


「はい、お父様」


「来週の慈善の市にも、アルバの付き添いで行きなさい。閣下の前に、お前が出ることはない」


 閣下がどちらの名前を札に書いたか、父は見ている。見ていて、そう言っている。


(いつもどおりね)


 私はいつもどおり膝を折って、書斎を出た。


* * *


 慈善の市は、王立施療院の庭で開かれる。捨て子の家のための市で、王都の大きな家の夫人たちが、それぞれ露店を受け持つ。


 いちばん人が集まっていたのは、カステルノーヴォの先代公爵夫人の、焼き菓子の露店だった。


 理由はすぐに分かった。露店の前に、公爵閣下が大きな盆を持って立っていたからだ。


 露店の焼き菓子は、閣下の持つその大きな盆に並べたものが全部だった。閣下は、盆を持つのに向いていなかった。背筋を伸ばしすぎていて、盆が胸の高さから少しも動かない。その前に、娘を連れた母君たちが幾重にも詰めかけていた。


「お先に失礼」


 アルバが人垣の前へ出て、盆から一つ取った。父は少し離れた露店の前で、満足そうにそれを見ている。


 私はアルバの日傘を持って、人垣の一番後ろに立っていた。後ろからは、よく見える。先代公爵夫人が、盆の端の一つを気にして、ちらちら見ていること。盆を持つ閣下の指先が、少し白くなっていること。


 閣下が顔を上げた。人垣越しに、目が合った。


 閣下は盆を持ったまま、人垣の間をこちらへ来た。母君たちが、慌てて左右に分かれる。


「選んでくれ」


 盆が、私の目の前に差し出された。


「いえ、皆様がお先に」


「君が選ぶまで、この盆は動かない」


(また、動いてくださらない)


「レナート、盆を落とさないでちょうだい」


 露店の奥から、先代公爵夫人の声が飛んできた。


 私の後ろに、列ができ始めていた。閣下が盆を持ったまま動かないので、誰も菓子を買えないのだ。私のすぐ後ろで、杖をついた白髪の老夫人が、こつんと杖を鳴らした。


「どちらでもいいから、早くお取りなさいな」


 マンフレディ侯爵未亡人だった。社交界でいちばん古くから、遠慮なく物を言ってきた方だ。


「では、マンフレディ様がお先に」


「私は待てますよ。待てないのは、私の後ろの若い人たちのほう」


 振り返ると、列はもう、隣の隣の露店の前まで伸びていた。


 私は盆に目を落とした。並んだ焼き菓子のうち、端の一つだけ、縁が少し焦げている。さっきから先代公爵夫人が気にしていた一つだ。


 私はそれを取った。


「あら」


 露店の奥で、先代公爵夫人が笑い出した。


「それは、私が焦がしたのよ。売り物にするか、迷っていたの」


「焦げたところが、いちばんおいしいので」


「まあ」


 マンフレディ侯爵未亡人が、杖をついて私のそばまで来た。私の顔を、しげしげと見る。


「あなた、ルチアの娘ね」


「母を、ご存じでしたか」


「ルチアも、焦げたのを取る子だったわ。……ランベルティ伯爵家の、上のお嬢さん。いつも肩掛けを持って、後ろにいる」


 老夫人はそれだけ言うと、ようやく動き出した列のほうへ戻っていった。


 閣下が、盆を持ち直した。周りには聞こえないくらいの声で言う。


「花は、届いたか」


「はい。義妹の部屋で、よく咲いております」


 閣下の目が、すっと細くなった。


「札は」


「札は、私の手提げに」


「……そうか」


 閣下は少し黙ってから、言った。


「次は、君の手に、直接渡す」


◇


 その晩、アルバは夕食の席で口をとがらせた。


「閣下ったら、私には何も話しかけてくださらないの。盆を持って、お義姉様のほうばかり見ていらして」


「焦ることはない」


 父は葡萄酒の杯を置いた。


「閣下も、いずれ分かってくださる。恩人の娘を先にするのが、筋の通ったことだとな」


 私は黙ってスープを飲んだ。後ろからは、よく見える。けれど、前ばかり向いている人に、後ろの景色を教える方法を、私は知らなかった。


* * *


 王立劇場の音楽会が終わったとき、外は雨になっていた。


 車寄せは、馬車を待つお客様でいっぱいだった。案内係が大きな傘を差して、一組ずつ馬車まで送っていく。父とアルバは、先に送られていった。私はアルバが桟敷に置き忘れた肩掛けを取りに戻っていて、出てきたときには、車寄せに残されていた。


(いつものことね)


 柱の陰で待っていると、隣に背の高い人が並んだ。深緑の上着の肩に、雨のしずくが光っている。


「閣下」


「また、置いていかれたのか」


「肩掛けを、取りに戻っておりましたので」


 案内係が傘を差して戻ってきた。まっすぐ閣下の前へ来て、傘を差しかける。


「閣下、お車が参っております」


「先に、ランベルティ家の令嬢を」


「閣下がお先に」


「いや、君が先だ」


 案内係は傘を差したまま、私と閣下の間で立ち往生した。


(この方は、本当に動かない)


 雨は、しばらくやみそうになかった。私は、ずっと気になっていたことを聞いてみた。


「閣下は、どの扉の前でも、皆様から先を譲られる方でございましょう。どうして、先にいらっしゃらないのですか」


 閣下は、雨の向こうに並ぶ馬車の灯りを見ていた。


「十九まで、兄の後ろを歩いていた」


 閣下の声が、少しだけ柔らかくなった。


「扉の前ではいつも兄が先で、私はその背中を見ていればよかった。兄は扉をくぐると、必ず一度振り返った。私がちゃんとついてきているか、確かめるためにな。子どものころから、大人になってもずっとだ」


 閣下は、雨の音に耳を澄ませるように、少し黙った。


「兄が爵位を継いで間もなく亡くなって、私が公爵になった。その日から、どの扉の前でも、皆が道を空けて『閣下、お先に』と言う。空けた道の先で、娘を前へ押し出してくる」


 閣下は、ほんの少し笑った。


「前に、誰もいない。どこを見て歩けばいいのか、分からなかった」


 私は、肩掛けを抱える腕に力を入れた。


「……私も、あの晩、そう思いました」


 閣下が、こちらを見た。


「侯爵家の扉をくぐったとき、前に誰もいなくて。どこを見て歩けばいいのか、分かりませんでした」


「そうか」


 閣下は、しばらく私を見ていた。


「だから、君には先を歩いてほしい。後ろは、私が見ている」


 胸の奥で、何かが小さく鳴った気がした。


「では」


 私は、少し考えてから言った。


「閣下が先を歩かれるときは、私が後ろから見ております。後ろからは、よく見えますので」


 閣下は何も言わなかった。黙って案内係の手から傘を取り、私の上に差しかけた。


「行こう」


 閣下は、私の半歩後ろを歩いた。傘は私の上にあって、閣下の肩は雨に濡れていった。


 うちの馬車の窓に、父の顔が見えた。父は、私と、私の上の傘と、その傘を持つ人を見て、何も言わなかった。


 閣下は馬車の扉を開け、私が乗り込むまで傘を差しかけていた。扉が閉まる前に、窓越しに一度だけ目が合った。


 馬車が動き出すと、向かいの席でアルバが口をとがらせた。


「お義姉様ったら、閣下の傘に入るなんて。私が先に出たのに」


「肩掛けを取りに戻っていたのよ。あなたの」


 アルバは、膝の上の肩掛けに目を落として黙った。


 父は、窓の外の雨を見たまま、屋敷に着くまで一言も話さなかった。


* * *


 翌日、父はまた私を書斎に呼んだ。


「閣下は、お前に同情しておられるだけだ」


 父は机の上で指を組んだ。


「この家は、いずれジャコモが継ぐ。アルバには良い縁談が要る。閣下にはアルバを、と私は考えている。恩人の娘が先だ」


「はい、お父様」


 そこへ、執事が銀の盆を持って入ってきた。


「カステルノーヴォ公爵家より、舞踏会の招待状でございます」


 父は封を切り、宛名を読んで、眉を寄せた。


 横から覗き込んだアルバが、声を上げた。


「お義父様、私の名前が二番目よ!」


 招待状の宛名には、こう書かれていた。


 キアラ・ランベルティ嬢、アルバ・ランベルティ嬢、ならびにランベルティ伯爵。


 私の名前が一番先で、父の名前が一番後ろだった。


「書き損じだ」


 父は言った。けれど、名を書いて招かれたのに断れば、公爵家への無礼になる。それは父にも分かっている。


「……行ってもいい」


 父は、招待状を机に伏せた。


「だが、扉ではアルバが先だ」


* * *


 カステルノーヴォ公爵家の屋敷は、川沿いの丘の上にあった。


 アルバはこの晩のために、いちばん新しい桃色のドレスを着て、母の真珠を着けていた。馬車の中で、父は何度もアルバの髪飾りの向きを直させた。直したのは、私だ。


 大広間の扉の前で、父は取次の家令に招待状を差し出し、アルバの背を押した。


「アルバが先だ」


「ええ、私が先よ。お義父様が、そう誓ったんだもの」


 アルバは扉の前へ進み出た。私はいつものように、肩掛けを抱えて二人の後ろに立った。


 取次の家令は、父の言葉が聞こえなかったような顔で招待状に目を落とし、書かれたとおりの順に読み上げた。


(この家の取次は、閣下に似ているのね)


「キアラ・ランベルティ嬢」


 扉をくぐりかけていたアルバの足が、止まった。


 アルバが扉の前で止まるのを、私は初めて見た。


 取次は、そのまま続けた。


「アルバ・ランベルティ嬢、ならびにランベルティ伯爵」


 けれど、その声を聞いている人は、もうあまりいなかった。広間の奥、階段の下でお客様を迎えていた閣下が、こちらへ歩いてきたからだ。


 閣下は、扉の内側で止まっているアルバの横を過ぎ、父の横を過ぎて、一番後ろの私の前で止まった。


「ようこそ、キアラ嬢」


 広間が、しんとした。


 主人は、身分の高い客から順に迎える。公爵閣下が、伯爵より先に、伯爵の娘を迎えた。それが何を意味するか、ここにいる誰もが知っている。


 父の顔が赤くなり、それから一度、白くなった。


 そして父は、胸を張った。


「閣下。皆様も、どうかお聞きください」


 よく通る声だった。晩餐の席で、何度も聞いてきた声だ。


「十年前の春、私は川で死ぬところでした。護衛の騎士ブルーノが私を岸へ押し上げて、自分は流されたのです。ブルーノは息を引き取る前に、私の手を握って言いました。『伯爵、娘を、何より先にしてやってください』と。私は誓いました。あの男の娘を、何より先にすると」


 父はアルバの肩に手を置いた。


「恩人の娘が先でございます、閣下」


 いつもなら、ここで誰かが「ご立派な」と言う。拍手が起きることもある。


 今夜は、誰も何も言わなかった。


「まあ……」


 扇の陰から声がした。ヴェントゥーリ伯爵夫人だった。


「それで、上のお嬢様は、十年、後ろに立っていらしたのね」


 伯爵夫人は扇を少し下ろして、私を見た。


「グラナーティ家の晩、アルバ嬢だけが呼ばれて、扉の手前に肩掛けを抱えて残っていらしたのは、こちらのお嬢様でしたわ。私、すぐ後ろに並んでおりましたの。閣下があそこで動かずにいてくださらなければ、あのままでしたでしょう」


 こつん、と杖の音がした。人垣の間から、マンフレディ侯爵未亡人が出てきた。老夫人は杖の先で、アルバの首元を指した。


「その真珠、ルチアの真珠ね。娘に残すのだと、ルチアは言っていたけれど」


 アルバが、思わず首飾りに手をやった。


 ささやきが、さざ波のように広がっていった。


「上のお嬢さんを差し置いて、下のお嬢さんを先にお出しになったのですって」


「恩人の娘さんを大事になさるのは、ご立派だけれど……」


「ご自分のお嬢さんの物で、返していらしたのね」


 アルバの肩から、父の手が落ちた。


「キアラ」


 父は私を見ずに言った。


「下がりなさい」


 十年、言われてきた言葉だった。


 足が勝手に、半歩下がりかけた。


 けれど、隣の閣下が動かなかった。閣下は私の横に立ったまま、一歩も下がらない。閣下が下がらないのに私だけが下がったら、閣下を一人で前に置いていくことになる。


 前に誰もいない扉の怖さを、私はもう知っている。


 私は、足を戻した。


「今日は、下がりません」


 父が、初めて私を見た。


「閣下が、動いてくださらないので」


 広間のどこかで、誰かが小さく噴き出した。


 私は父に向き直った。


「お父様。ブルーノ様がおっしゃったのは、『伯爵、娘を……頼みます』でした。初めのころ、お父様がこのお話をなさっていたときは、そうでした。『何より先に』は、いつのころからか、お話の中に増えたのです。十年、後ろでずっと伺ってまいりましたので、間違いございません」


 父の口が動いた。言葉は出てこなかった。


「頼まれたのは、お父様です。私ではありません」


 広間は、静かだった。


 閣下が、口を開いた。


「伯爵が受けた恩は、伯爵が返せばいい。娘に返させるものではない」


 閣下は父のほうを向いた。


「伯爵。キアラ嬢に、結婚を申し込みたい」


 父の顔から、表情が抜け落ちた。


「し、しかし閣下、アルバの……アルバの縁談が先で」


「それは、伯爵家の順番だろう」


 閣下の声は、雨の車寄せのときと同じ調子だった。


「この家の扉では、彼女が先だ」


 それから閣下は、私に向き直った。


「返事を」


「閣下から、お先に……」


 言いかけて、私は閣下の顔を見た。閣下は、動く気配がまるでなかった。扉の前でも、盆の前でも、雨の車寄せでも、この方はこんな顔をしていた。


 私は、笑ってしまった。


「はい。お受けいたします」


 長い息を吐いたのは、閣下のほうだった。扉の前で息を止めたあの晩とは、逆の息だった。閣下は私の手を取って指の背に唇を寄せ、それから上着の胸元から、白い薔薇を一輪抜き出した。


「直接、と言っただろう」


 薔薇は、少しだけ潰れていた。今夜はずっと、上着の中で待っていたらしい。


 ヴェントゥーリ伯爵夫人の扇が、ぱたんと閉じる音がした。


「ずるいわ」


 アルバの声がした。扉の内側に立ったまま、アルバは真珠を握りしめていた。


「お義姉様が先なんて、ずるい。私が先だって、お義父様が」


「あら、アルバ嬢」


 階段の下から、先代公爵夫人が歩いてきた。慈善の市のときと同じ、さっぱりした声だった。


「うちの息子はね、盆一つ、相手が選ぶまで動かさないのよ。扉なら、なおさらよ」


 先代公爵夫人は私の前で足を止め、にっこり笑った。


「焦げたのを選んでくれたお嬢さんね。いらっしゃい。息子が招待状の宛名を、何枚書き損じたか教えてあげる」


「母上」


 閣下が、低い声で言った。耳の先が、少し赤くなっていた。


* * *


 その季節、王都で父の美談を聞きたがる人はいなくなった。


 父は「娘に恩を返させた伯爵」と呼ばれるようになり、晩餐に招かれることも、晩餐で話をすることも減った。婚約の書面には、父は急いで署名した。閣下の求めで、書面の終わりには、アルバの持参金は伯爵が自分の取り分から用意する、と書き添えられた。


「アルバ嬢を困らせるつもりはない。困らせてきたのは、伯爵だ」


 閣下は、そう言った。


 署名の翌朝、父が私の部屋の戸を叩いた。手に、細長い箱を持っていた。


「……ルチアの真珠だ」


 父は箱を私に渡すと、目を合わせないまま、廊下を戻っていった。


 蓋を開けると、真珠は小さな灯りを一つずつ抱えたように光っていた。母が夜会へ出かける前に、私の部屋に寄って、首に掛けたところを見せてくれたのを覚えている。五つの私は、寝台の上から母の背中を見送った。あれが、私の覚えている母の後ろ姿の、最後だった。


 テレーザが、黙って私の後ろに回り、首飾りの留め金を留めてくれた。


「よくお似合いですよ、お嬢様。後ろから見ても」


 アルバの縁談は、その季節のあいだ止まった。夜会の扉の前で、若い殿方たちに「アルバ嬢、お先にどうぞ」とからかわれるようになったと、テレーザが教えてくれた。アルバはこのごろ、扉の前で止まるのだそうだ。止まって、前に誰もいないのを見てから、入るのだという。


(あの子も、前に誰もいない扉は、初めてなのかもしれない)


 いつか、アルバが扉の前で困っていたら、一度くらいは私が先に入って、振り返ってあげてもいい。そう思えるくらいには、私の後ろは、もう寂しくなかった。


 秋に、私は閣下と結婚した。


◇


 結婚式から戻った日、カステルノーヴォ家の玄関で、家令が大きな扉を開けた。


「旦那様、お先に」


 閣下は、動かなかった。


「妻が先だ」


 家令が私を見た。後ろに並んだ使用人たちも、私を見た。その一番後ろに、ついてきてくれたテレーザの顔もあった。


 隣の閣下を見上げる。閣下は、やはり動く気配がない。


「では、お先に」


 自分から言ったのは、初めてだった。


 私は扉をくぐった。


 前に、誰もいなかった。磨かれた床と、高い窓と、これから私の家になる広間があるだけだ。


 でも、もう、どこを見て歩けばいいか分かっていた。


 私は振り返った。


 すぐ後ろに、閣下がいた。そのまた後ろに、家令と、使用人たちと、テレーザがいた。みんなの顔が、こちらを向いていた。


「どうした」


「いいえ。ちゃんとついてきていらっしゃるか、確かめただけです」


 閣下は一瞬、言葉をなくしたような顔をした。それから横を向いて、口元を手で覆った。肩が、小さく揺れている。


「……兄と、同じことをする」


 私は、閣下に手を差し出した。閣下がその手を取って、私の隣に並ぶ。


「前からの眺めも、悪くありませんね」

お読みいただきありがとうございます。十年「お先にどうぞ」と言ってきたキアラが、自分から「お先に」と言えるまでのお話でした。扉の前の閣下の側のことも、いつか書けたら嬉しいです。ブックマークと★★★★★で応援していただけると励みになります。

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― 新着の感想 ―
>「この家は、いずれジャコモが継ぐ。アルバには良い縁談が要る。閣下にはアルバを、と私は考えている。恩人の娘が先だ」 誰だジャコモ。 文脈的にグラナーティ侯爵の令息だと思うけど、十年前既に結婚してたんだ…
後継問題は「この家は、いずれジャコモが継ぐ。」とあるので、2人とも嫁いだら親族のジャコモ氏が継ぐのでしょう。 ジャコモ氏が誰か表記が一切ないので誰か判りませんが。
このお父さんは病気なの?
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