「命の恩人の娘が先だ」と父が言うので一歩下がったら、公爵閣下が「君が先だ」と動いてくれません
「命の恩人の娘が先だ」
グラナーティ侯爵家の大広間の扉の前で、父は、後ろに並んだお客様にまで聞こえる声でそう言った。
取次の白髪の家令は、父の差し出した招待状に目を落としたまま、「ご令嬢方は、どちらのお名前から」と尋ねただけだった。それでも父は、いつもの答えをいつもの声で返した。後ろのほうで、どなたかが「恩を忘れぬ伯爵様ね」とささやいた。
「ランベルティ伯爵、ならびにアルバ・ランベルティ嬢」
取次の声が広間に響く。桃色のドレスの義妹が、父の腕に手を添えて扉をくぐった。高く結った栗色の巻き毛の下で、真珠の首飾りが揺れている。亡くなった母の真珠だ。
アルバは一度も止まらなかった。アルバが扉の前で止まるのを、私は見たことがない。
私はアルバの肩掛けと扇を胸に抱えて、扉の手前に残った。私の名前は、呼ばれない。
十年前の春、領地から王都へ向かう途中で、父の馬車が増水した川に流された。護衛の騎士ブルーノ様が父を岸へ押し上げ、ご自分はそのまま流されて亡くなった。父はブルーノ様の一人娘を養女に迎え、「恩人の娘を、何より先にする」と誓った。
それから、この家ではアルバが先になった。
八つの春、アルバの部屋が私の隣に決まった日に、父は私に言った。
「キアラ、アルバに先を譲りなさい。あの子は父親を亡くしたのだから」
その晩、寝台で泣いていた私の髪を撫でながら、ばあやのテレーザが言ったのだ。
「お嬢様。後ろからは、よく見えるものですよ」
だから私は、後ろに立つことにした。
私の誕生日の菓子の蝋燭は、毎年アルバが先に吹いた。あの子は父親に誕生日を祝ってもらえないのだから、と父は言った。母が私に残すと言っていた真珠は、今年の春、アルバのお披露目の晩にアルバの首にかかった。一つ年下の義妹が先に社交界に出て、私のお披露目は「アルバの縁談が決まってから」になった。
この国では、舞踏会の扉で取次に名を呼ばれて広間に入った晩が、社交界に出た晩になる。名を呼ばれる前の娘も、家族の付き添いとしてなら舞踏会に来ていいけれど、扉で名を呼ばれず、踊らない。私はアルバの付き添いだ。肩掛けを持ち、扇を持ち、髪がほつれたら直す。侍女より上手だからと、アルバが私を望んだ。
うちは、一つの季節に娘一人分の支度しか出さない。今年仕立てた夜会のドレスは、五着ともアルバのものだ。私が着ているのは、母の古いドレスを、テレーザが夜なべして仕立て直してくれた灰がかった薄青の一着で、付き添いにはこれで十分だった。
後ろに立つのは、嫌いではない。
後ろからは、前に立つ人が見ていないものが見える。裾を踏まれそうな令嬢、早く帰りたそうな殿方、お皿の端の焦げた焼き菓子。そういうものを見つけるのが、私はわりと好きだった。
見つけると、ついでに先も譲ってしまう。今夜もついさっき、玄関の広間で、侯爵家の小さな白い犬に道を譲ったところだ。犬は礼も言わずに通っていった。
(犬にまで譲ることは、なかったかもしれない)
そんなことを考えていたら、背中のすぐ後ろに人の気配がした。
振り返ると、背の高い殿方が立っていた。黒い髪を後ろへ撫でつけ、深緑の上着に飾りのない銀の留め具。濃い青の目が、扉の前で立ち止まっている私を見下ろしている。
私は一歩下がって、扉の前を空けた。
「お先にどうぞ」
「いや」
殿方は、動かなかった。
「君のほうが先に来ていた」
「私は付き添いでございます。名を呼ばれる者ではございませんので」
「そうか」
殿方は、やはり動かなかった。
後ろにお客様が詰まり始めた。取次は招待状を持った手を宙に浮かせたまま、私と殿方を見比べている。
「どうぞ、お先に」
「君が先だ」
(どうしよう。動いてくださらない)
殿方は、取次のほうへ顔を向けた。
「その招待状の宛名は」
「は。ランベルティ伯爵、ならびにご令嬢方、と」
「では、令嬢の名が、まだ一人分残っている」
取次の目が、私の顔に戻ってきた。
扉の向こうに、父の背中が見えた。アルバをどなたかに紹介している。父はこちらを振り返らない。
私は殿方を見上げた。殿方は、扉の前から一歩も動かない。私が入らないかぎり、この方もここから入らないつもりらしい。後ろのお客様たちが、ひそひそと何か言い始めていた。
「……キアラ・ランベルティと申します」
自分でも驚くほど小さな声になった。取次は招待状の宛名にもう一度目を落とし、うなずいて、広間のほうへ向き直った。
「キアラ・ランベルティ嬢」
生まれて初めて、私の名前が扉の向こうへ呼ばれた。
私は扉をくぐった。
前に、誰もいなかった。
いつもそこにある、アルバの桃色の背中がない。父の茶色の上着もない。シャンデリアの光と、磨かれた床と、こちらを向いた大勢の顔があるだけだ。
(どこを見て歩けばいいの)
足が止まりそうになったとき、すぐ後ろで取次の声がした。
「カステルノーヴォ公爵閣下」
広間のあちこちで、話し声がふっと途切れた。
(公爵、閣下)
カステルノーヴォ公爵。王家の遠い親族で、北の湖のほとりに広い領地を持ち、兄君を亡くして若くして爵位を継いだ方。どの家の母君も、娘を前へ押し出して紹介したがる方だ。
広間の真ん中で、アルバの肩越しに振り向いた父の口が、開いたまま止まっていた。
* * *
「ランベルティ家に、お嬢さんがもう一人いらしたの?」
「上のお嬢さんよ。いつもアルバ嬢の肩掛けを持っている方」
「上のお嬢さんが、後からお出になるの?」
ざわめきの中を、父が人をかき分けてやってきた。私の腕をつかんで、壁際まで引いていく。
「なぜ名を告げた」
父の声は低かった。父が人前で声を張るのは、美談を語るときだけだ。
一度扉で呼ばれた名前は、取り消せない。今夜が私のお披露目になってしまったことは、父にも分かっている。だから、声が低いのだ。
「アルバが先だと言っただろう。名を呼ばれたからといって、お前の支度を出すつもりはない。今年はアルバの年だ。お前はこれからも、アルバの付き添いだ」
「はい。ですが、閣下が動いてくださらなかったので」
「閣下が……?」
近くで扇を使っていたヴェントゥーリ伯爵夫人が、隣の夫人に何か耳打ちした。扇の陰の声が、ここまで届いた。
「ふつうは、上のお嬢さんが先でしょうに」
父の耳が赤くなった。けれど父が何か言うより先に、近くのお客様たちが左右に道を空けた。
公爵閣下が、こちらへ歩いてくる。舞踏会では一曲も踊らないことで知られた方だと、前にアルバが言っていた。その方が、踊りの輪にも娘たちの集まりにも寄らずに、壁際まで来る。
父の背が、すっと低くなった。
「これは閣下! ランベルティでございます。こちらが娘の」
父はアルバの背に手を当てて、私の前へ押し出した。
「アルバでございます。私の命の恩人の娘でして」
「アルバ・ランベルティでございます」
アルバが膝を折る。閣下はきちんと礼を返した。それから、アルバの肩越しに私を見た。
「キアラ嬢」
呼ばれて、私は肩掛けを抱え直した。
「扉の前で私に譲ったのは、私の身分を見たからではないな」
「どなたにでも、譲ります。さきほどは、侯爵家の犬にも」
閣下は、ほんの少し目を見開いた。
「では、後ろから何が見えた」
少し迷ってから、私は正直に答えた。
「閣下が扉の前で、一度だけ息を止めてから、肩をお上げになったのが」
閣下は、横を向いた。
口元を手で覆っている。その肩が、小さく揺れていた。
(笑っていらっしゃる)
「……見られていたか」
しばらくして、閣下はそれだけ言った。
「お義姉様、肩掛けを」
アルバが振り返って、手を伸ばした。私は肩掛けをアルバの肩に掛け、いつものように一歩下がった。
父がアルバの横に並んで、閣下に話し始めた。恩人の話だ。父は初めて会った方には、必ずこの話をする。
「ブルーノは息を引き取る前に、私の手を握って言ったのです。『伯爵、娘を、何より先にしてやってください』と」
父の声が、少しだけ大きくなる。近くの方々が振り向いて、うなずく。いつもの晩餐と同じだ。
(その「何より先に」は、いつからお話に入ったのだったかしら)
私は二人の後ろに立って、閣下の横顔を見ていた。
閣下は父の話にうなずきながら、一度だけ、こちらを見た。
◇
屋敷に戻ったのは夜更けだった。
父とアルバが寝室へ上がってから、私は台所の脇の小部屋をのぞいた。テレーザは、いつものように繕い物をしながら私を待っていた。
「お帰りなさいまし。今夜も、肩掛け持ちで?」
「ええ。でもね、テレーザ」
私は、テレーザの隣の小さな椅子に座った。
「名前を、呼ばれたの。扉の向こうへ」
テレーザの手から、針が落ちた。
「どなたが、お嬢様のお名前を」
「取次の方が。……公爵閣下が、扉の前から動いてくださらなかったの。私が先に入らないと、閣下も入れなくて」
テレーザはしばらく私の顔を見ていた。それから、繕い物を膝に置いたまま、エプロンの端で目元を押さえた。
「まあまあ。まあまあ、お嬢様」
「泣かないで。踊ってもいないのよ。壁際で、閣下と少しお話ししただけ」
「十分でございますよ」
テレーザは鼻をすすって、笑った。
「後ろから見ていた甲斐が、ございましたねえ」
◇
翌朝、カステルノーヴォ公爵家から花束が届いた。
白と薄紅の薔薇に、名前を知らない青い小花が混ざっている。添えられた札には、癖のない細い字で一行だけ書かれていた。
キアラ・ランベルティ嬢へ。
私の名前が一番上に書かれた物を受け取るのは、初めてだった。
「まあ、きれい!」
朝食の席から、アルバが駆けてきた。
「アルバの部屋に飾りなさい」
父は札にちらりと目をやってから、新聞に目を戻して言った。
「恩人の娘が先だ」
「ありがとう、お義姉様」
アルバは花束を抱えて、階段を上がっていった。私の手には、抜き取った札だけが残った。私はそれを、手提げの内側の小さな物入れにしまった。
廊下の陰で、テレーザが盛大にため息をついた。
その日の午後、父は私を書斎に呼んだ。
「閣下ほどのお方なら、アルバの相手にこそふさわしい。わかるな」
「はい、お父様」
「来週の慈善の市にも、アルバの付き添いで行きなさい。閣下の前に、お前が出ることはない」
閣下がどちらの名前を札に書いたか、父は見ている。見ていて、そう言っている。
(いつもどおりね)
私はいつもどおり膝を折って、書斎を出た。
* * *
慈善の市は、王立施療院の庭で開かれる。捨て子の家のための市で、王都の大きな家の夫人たちが、それぞれ露店を受け持つ。
いちばん人が集まっていたのは、カステルノーヴォの先代公爵夫人の、焼き菓子の露店だった。
理由はすぐに分かった。露店の前に、公爵閣下が大きな盆を持って立っていたからだ。
露店の焼き菓子は、閣下の持つその大きな盆に並べたものが全部だった。閣下は、盆を持つのに向いていなかった。背筋を伸ばしすぎていて、盆が胸の高さから少しも動かない。その前に、娘を連れた母君たちが幾重にも詰めかけていた。
「お先に失礼」
アルバが人垣の前へ出て、盆から一つ取った。父は少し離れた露店の前で、満足そうにそれを見ている。
私はアルバの日傘を持って、人垣の一番後ろに立っていた。後ろからは、よく見える。先代公爵夫人が、盆の端の一つを気にして、ちらちら見ていること。盆を持つ閣下の指先が、少し白くなっていること。
閣下が顔を上げた。人垣越しに、目が合った。
閣下は盆を持ったまま、人垣の間をこちらへ来た。母君たちが、慌てて左右に分かれる。
「選んでくれ」
盆が、私の目の前に差し出された。
「いえ、皆様がお先に」
「君が選ぶまで、この盆は動かない」
(また、動いてくださらない)
「レナート、盆を落とさないでちょうだい」
露店の奥から、先代公爵夫人の声が飛んできた。
私の後ろに、列ができ始めていた。閣下が盆を持ったまま動かないので、誰も菓子を買えないのだ。私のすぐ後ろで、杖をついた白髪の老夫人が、こつんと杖を鳴らした。
「どちらでもいいから、早くお取りなさいな」
マンフレディ侯爵未亡人だった。社交界でいちばん古くから、遠慮なく物を言ってきた方だ。
「では、マンフレディ様がお先に」
「私は待てますよ。待てないのは、私の後ろの若い人たちのほう」
振り返ると、列はもう、隣の隣の露店の前まで伸びていた。
私は盆に目を落とした。並んだ焼き菓子のうち、端の一つだけ、縁が少し焦げている。さっきから先代公爵夫人が気にしていた一つだ。
私はそれを取った。
「あら」
露店の奥で、先代公爵夫人が笑い出した。
「それは、私が焦がしたのよ。売り物にするか、迷っていたの」
「焦げたところが、いちばんおいしいので」
「まあ」
マンフレディ侯爵未亡人が、杖をついて私のそばまで来た。私の顔を、しげしげと見る。
「あなた、ルチアの娘ね」
「母を、ご存じでしたか」
「ルチアも、焦げたのを取る子だったわ。……ランベルティ伯爵家の、上のお嬢さん。いつも肩掛けを持って、後ろにいる」
老夫人はそれだけ言うと、ようやく動き出した列のほうへ戻っていった。
閣下が、盆を持ち直した。周りには聞こえないくらいの声で言う。
「花は、届いたか」
「はい。義妹の部屋で、よく咲いております」
閣下の目が、すっと細くなった。
「札は」
「札は、私の手提げに」
「……そうか」
閣下は少し黙ってから、言った。
「次は、君の手に、直接渡す」
◇
その晩、アルバは夕食の席で口をとがらせた。
「閣下ったら、私には何も話しかけてくださらないの。盆を持って、お義姉様のほうばかり見ていらして」
「焦ることはない」
父は葡萄酒の杯を置いた。
「閣下も、いずれ分かってくださる。恩人の娘を先にするのが、筋の通ったことだとな」
私は黙ってスープを飲んだ。後ろからは、よく見える。けれど、前ばかり向いている人に、後ろの景色を教える方法を、私は知らなかった。
* * *
王立劇場の音楽会が終わったとき、外は雨になっていた。
車寄せは、馬車を待つお客様でいっぱいだった。案内係が大きな傘を差して、一組ずつ馬車まで送っていく。父とアルバは、先に送られていった。私はアルバが桟敷に置き忘れた肩掛けを取りに戻っていて、出てきたときには、車寄せに残されていた。
(いつものことね)
柱の陰で待っていると、隣に背の高い人が並んだ。深緑の上着の肩に、雨のしずくが光っている。
「閣下」
「また、置いていかれたのか」
「肩掛けを、取りに戻っておりましたので」
案内係が傘を差して戻ってきた。まっすぐ閣下の前へ来て、傘を差しかける。
「閣下、お車が参っております」
「先に、ランベルティ家の令嬢を」
「閣下がお先に」
「いや、君が先だ」
案内係は傘を差したまま、私と閣下の間で立ち往生した。
(この方は、本当に動かない)
雨は、しばらくやみそうになかった。私は、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「閣下は、どの扉の前でも、皆様から先を譲られる方でございましょう。どうして、先にいらっしゃらないのですか」
閣下は、雨の向こうに並ぶ馬車の灯りを見ていた。
「十九まで、兄の後ろを歩いていた」
閣下の声が、少しだけ柔らかくなった。
「扉の前ではいつも兄が先で、私はその背中を見ていればよかった。兄は扉をくぐると、必ず一度振り返った。私がちゃんとついてきているか、確かめるためにな。子どものころから、大人になってもずっとだ」
閣下は、雨の音に耳を澄ませるように、少し黙った。
「兄が爵位を継いで間もなく亡くなって、私が公爵になった。その日から、どの扉の前でも、皆が道を空けて『閣下、お先に』と言う。空けた道の先で、娘を前へ押し出してくる」
閣下は、ほんの少し笑った。
「前に、誰もいない。どこを見て歩けばいいのか、分からなかった」
私は、肩掛けを抱える腕に力を入れた。
「……私も、あの晩、そう思いました」
閣下が、こちらを見た。
「侯爵家の扉をくぐったとき、前に誰もいなくて。どこを見て歩けばいいのか、分かりませんでした」
「そうか」
閣下は、しばらく私を見ていた。
「だから、君には先を歩いてほしい。後ろは、私が見ている」
胸の奥で、何かが小さく鳴った気がした。
「では」
私は、少し考えてから言った。
「閣下が先を歩かれるときは、私が後ろから見ております。後ろからは、よく見えますので」
閣下は何も言わなかった。黙って案内係の手から傘を取り、私の上に差しかけた。
「行こう」
閣下は、私の半歩後ろを歩いた。傘は私の上にあって、閣下の肩は雨に濡れていった。
うちの馬車の窓に、父の顔が見えた。父は、私と、私の上の傘と、その傘を持つ人を見て、何も言わなかった。
閣下は馬車の扉を開け、私が乗り込むまで傘を差しかけていた。扉が閉まる前に、窓越しに一度だけ目が合った。
馬車が動き出すと、向かいの席でアルバが口をとがらせた。
「お義姉様ったら、閣下の傘に入るなんて。私が先に出たのに」
「肩掛けを取りに戻っていたのよ。あなたの」
アルバは、膝の上の肩掛けに目を落として黙った。
父は、窓の外の雨を見たまま、屋敷に着くまで一言も話さなかった。
* * *
翌日、父はまた私を書斎に呼んだ。
「閣下は、お前に同情しておられるだけだ」
父は机の上で指を組んだ。
「この家は、いずれジャコモが継ぐ。アルバには良い縁談が要る。閣下にはアルバを、と私は考えている。恩人の娘が先だ」
「はい、お父様」
そこへ、執事が銀の盆を持って入ってきた。
「カステルノーヴォ公爵家より、舞踏会の招待状でございます」
父は封を切り、宛名を読んで、眉を寄せた。
横から覗き込んだアルバが、声を上げた。
「お義父様、私の名前が二番目よ!」
招待状の宛名には、こう書かれていた。
キアラ・ランベルティ嬢、アルバ・ランベルティ嬢、ならびにランベルティ伯爵。
私の名前が一番先で、父の名前が一番後ろだった。
「書き損じだ」
父は言った。けれど、名を書いて招かれたのに断れば、公爵家への無礼になる。それは父にも分かっている。
「……行ってもいい」
父は、招待状を机に伏せた。
「だが、扉ではアルバが先だ」
* * *
カステルノーヴォ公爵家の屋敷は、川沿いの丘の上にあった。
アルバはこの晩のために、いちばん新しい桃色のドレスを着て、母の真珠を着けていた。馬車の中で、父は何度もアルバの髪飾りの向きを直させた。直したのは、私だ。
大広間の扉の前で、父は取次の家令に招待状を差し出し、アルバの背を押した。
「アルバが先だ」
「ええ、私が先よ。お義父様が、そう誓ったんだもの」
アルバは扉の前へ進み出た。私はいつものように、肩掛けを抱えて二人の後ろに立った。
取次の家令は、父の言葉が聞こえなかったような顔で招待状に目を落とし、書かれたとおりの順に読み上げた。
(この家の取次は、閣下に似ているのね)
「キアラ・ランベルティ嬢」
扉をくぐりかけていたアルバの足が、止まった。
アルバが扉の前で止まるのを、私は初めて見た。
取次は、そのまま続けた。
「アルバ・ランベルティ嬢、ならびにランベルティ伯爵」
けれど、その声を聞いている人は、もうあまりいなかった。広間の奥、階段の下でお客様を迎えていた閣下が、こちらへ歩いてきたからだ。
閣下は、扉の内側で止まっているアルバの横を過ぎ、父の横を過ぎて、一番後ろの私の前で止まった。
「ようこそ、キアラ嬢」
広間が、しんとした。
主人は、身分の高い客から順に迎える。公爵閣下が、伯爵より先に、伯爵の娘を迎えた。それが何を意味するか、ここにいる誰もが知っている。
父の顔が赤くなり、それから一度、白くなった。
そして父は、胸を張った。
「閣下。皆様も、どうかお聞きください」
よく通る声だった。晩餐の席で、何度も聞いてきた声だ。
「十年前の春、私は川で死ぬところでした。護衛の騎士ブルーノが私を岸へ押し上げて、自分は流されたのです。ブルーノは息を引き取る前に、私の手を握って言いました。『伯爵、娘を、何より先にしてやってください』と。私は誓いました。あの男の娘を、何より先にすると」
父はアルバの肩に手を置いた。
「恩人の娘が先でございます、閣下」
いつもなら、ここで誰かが「ご立派な」と言う。拍手が起きることもある。
今夜は、誰も何も言わなかった。
「まあ……」
扇の陰から声がした。ヴェントゥーリ伯爵夫人だった。
「それで、上のお嬢様は、十年、後ろに立っていらしたのね」
伯爵夫人は扇を少し下ろして、私を見た。
「グラナーティ家の晩、アルバ嬢だけが呼ばれて、扉の手前に肩掛けを抱えて残っていらしたのは、こちらのお嬢様でしたわ。私、すぐ後ろに並んでおりましたの。閣下があそこで動かずにいてくださらなければ、あのままでしたでしょう」
こつん、と杖の音がした。人垣の間から、マンフレディ侯爵未亡人が出てきた。老夫人は杖の先で、アルバの首元を指した。
「その真珠、ルチアの真珠ね。娘に残すのだと、ルチアは言っていたけれど」
アルバが、思わず首飾りに手をやった。
ささやきが、さざ波のように広がっていった。
「上のお嬢さんを差し置いて、下のお嬢さんを先にお出しになったのですって」
「恩人の娘さんを大事になさるのは、ご立派だけれど……」
「ご自分のお嬢さんの物で、返していらしたのね」
アルバの肩から、父の手が落ちた。
「キアラ」
父は私を見ずに言った。
「下がりなさい」
十年、言われてきた言葉だった。
足が勝手に、半歩下がりかけた。
けれど、隣の閣下が動かなかった。閣下は私の横に立ったまま、一歩も下がらない。閣下が下がらないのに私だけが下がったら、閣下を一人で前に置いていくことになる。
前に誰もいない扉の怖さを、私はもう知っている。
私は、足を戻した。
「今日は、下がりません」
父が、初めて私を見た。
「閣下が、動いてくださらないので」
広間のどこかで、誰かが小さく噴き出した。
私は父に向き直った。
「お父様。ブルーノ様がおっしゃったのは、『伯爵、娘を……頼みます』でした。初めのころ、お父様がこのお話をなさっていたときは、そうでした。『何より先に』は、いつのころからか、お話の中に増えたのです。十年、後ろでずっと伺ってまいりましたので、間違いございません」
父の口が動いた。言葉は出てこなかった。
「頼まれたのは、お父様です。私ではありません」
広間は、静かだった。
閣下が、口を開いた。
「伯爵が受けた恩は、伯爵が返せばいい。娘に返させるものではない」
閣下は父のほうを向いた。
「伯爵。キアラ嬢に、結婚を申し込みたい」
父の顔から、表情が抜け落ちた。
「し、しかし閣下、アルバの……アルバの縁談が先で」
「それは、伯爵家の順番だろう」
閣下の声は、雨の車寄せのときと同じ調子だった。
「この家の扉では、彼女が先だ」
それから閣下は、私に向き直った。
「返事を」
「閣下から、お先に……」
言いかけて、私は閣下の顔を見た。閣下は、動く気配がまるでなかった。扉の前でも、盆の前でも、雨の車寄せでも、この方はこんな顔をしていた。
私は、笑ってしまった。
「はい。お受けいたします」
長い息を吐いたのは、閣下のほうだった。扉の前で息を止めたあの晩とは、逆の息だった。閣下は私の手を取って指の背に唇を寄せ、それから上着の胸元から、白い薔薇を一輪抜き出した。
「直接、と言っただろう」
薔薇は、少しだけ潰れていた。今夜はずっと、上着の中で待っていたらしい。
ヴェントゥーリ伯爵夫人の扇が、ぱたんと閉じる音がした。
「ずるいわ」
アルバの声がした。扉の内側に立ったまま、アルバは真珠を握りしめていた。
「お義姉様が先なんて、ずるい。私が先だって、お義父様が」
「あら、アルバ嬢」
階段の下から、先代公爵夫人が歩いてきた。慈善の市のときと同じ、さっぱりした声だった。
「うちの息子はね、盆一つ、相手が選ぶまで動かさないのよ。扉なら、なおさらよ」
先代公爵夫人は私の前で足を止め、にっこり笑った。
「焦げたのを選んでくれたお嬢さんね。いらっしゃい。息子が招待状の宛名を、何枚書き損じたか教えてあげる」
「母上」
閣下が、低い声で言った。耳の先が、少し赤くなっていた。
* * *
その季節、王都で父の美談を聞きたがる人はいなくなった。
父は「娘に恩を返させた伯爵」と呼ばれるようになり、晩餐に招かれることも、晩餐で話をすることも減った。婚約の書面には、父は急いで署名した。閣下の求めで、書面の終わりには、アルバの持参金は伯爵が自分の取り分から用意する、と書き添えられた。
「アルバ嬢を困らせるつもりはない。困らせてきたのは、伯爵だ」
閣下は、そう言った。
署名の翌朝、父が私の部屋の戸を叩いた。手に、細長い箱を持っていた。
「……ルチアの真珠だ」
父は箱を私に渡すと、目を合わせないまま、廊下を戻っていった。
蓋を開けると、真珠は小さな灯りを一つずつ抱えたように光っていた。母が夜会へ出かける前に、私の部屋に寄って、首に掛けたところを見せてくれたのを覚えている。五つの私は、寝台の上から母の背中を見送った。あれが、私の覚えている母の後ろ姿の、最後だった。
テレーザが、黙って私の後ろに回り、首飾りの留め金を留めてくれた。
「よくお似合いですよ、お嬢様。後ろから見ても」
アルバの縁談は、その季節のあいだ止まった。夜会の扉の前で、若い殿方たちに「アルバ嬢、お先にどうぞ」とからかわれるようになったと、テレーザが教えてくれた。アルバはこのごろ、扉の前で止まるのだそうだ。止まって、前に誰もいないのを見てから、入るのだという。
(あの子も、前に誰もいない扉は、初めてなのかもしれない)
いつか、アルバが扉の前で困っていたら、一度くらいは私が先に入って、振り返ってあげてもいい。そう思えるくらいには、私の後ろは、もう寂しくなかった。
秋に、私は閣下と結婚した。
◇
結婚式から戻った日、カステルノーヴォ家の玄関で、家令が大きな扉を開けた。
「旦那様、お先に」
閣下は、動かなかった。
「妻が先だ」
家令が私を見た。後ろに並んだ使用人たちも、私を見た。その一番後ろに、ついてきてくれたテレーザの顔もあった。
隣の閣下を見上げる。閣下は、やはり動く気配がない。
「では、お先に」
自分から言ったのは、初めてだった。
私は扉をくぐった。
前に、誰もいなかった。磨かれた床と、高い窓と、これから私の家になる広間があるだけだ。
でも、もう、どこを見て歩けばいいか分かっていた。
私は振り返った。
すぐ後ろに、閣下がいた。そのまた後ろに、家令と、使用人たちと、テレーザがいた。みんなの顔が、こちらを向いていた。
「どうした」
「いいえ。ちゃんとついてきていらっしゃるか、確かめただけです」
閣下は一瞬、言葉をなくしたような顔をした。それから横を向いて、口元を手で覆った。肩が、小さく揺れている。
「……兄と、同じことをする」
私は、閣下に手を差し出した。閣下がその手を取って、私の隣に並ぶ。
「前からの眺めも、悪くありませんね」
お読みいただきありがとうございます。十年「お先にどうぞ」と言ってきたキアラが、自分から「お先に」と言えるまでのお話でした。扉の前の閣下の側のことも、いつか書けたら嬉しいです。ブックマークと★★★★★で応援していただけると励みになります。




