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死に戻ったけど復讐なんかより株買った方がいいと気づいた俺の人生設計

作者: 花鶏

 法人名、商品名、病名など、全て架空のものです。


 俺は野々村悠真。三十一歳、になる、はずだった。


 高卒で入った医療器具メーカーで、ずっと地道に働いていた。

 二十六歳のとき、会社が大量の不良品を出し、製品の回収のために財務状況が逼迫して、担当だった俺はリストラされた。表向きは業績不振のための人員整理だと言われた。

 会社を辞めてから、ずっと反りの合わなかった後輩の須崎が開発データの数字を改竄していたという噂を聞いた。大卒の須崎は、高卒の俺に指示されることが気に食わなかったらしい。


 職を失ってからの俺の人生は坂道を転がり落ちるようだった。


 面接の苦手な俺の就職活動はうまくいかず、結婚したばかりの妻の収入に頼る日々。

 二年後、妻が難病に倒れた。

 生活を支えていた妻はゆっくりと養生することもできず、二年で病死した。

 俺は嵩んだ医療費を返済するために肉体労働系のバイトを増やした。向いていなかったようで一年で身体にガタがきて、今度は俺が薬なしでは生活できなくなった。


 そして三十一歳になったはずの日、俺は目を覚まさなかった。

 おそらくは過労とストレスで死んだ。


 ***


 古い天井が目に写る。


 小さなひびの入った黄ばんだ壁。


 見覚えがあると思ったら、一人暮らしをしていた頃のアパートだ。

 枕元のスマホには三年前に付けた傷がない。画面に触れるといつもと違うフォントで『2月10日(日)』の文字が浮かびあがった。

 確かに今日は十日だ。だが。


「……今日は土曜だろ」


 慌てて起き上がって洗面所に行き、鏡を見る。二十代半ばと思しき若い俺が映っている。

 もう一度スマホを掴み、カレンダーを開く。


『2019年2月10日』


 六年前の日付。


 手も足も軽い。胸も痛くない。

 だけど頭の中には、これから六年間の悲惨な未来が詰まっている。


「……ぜんぶ、夢か?」


 腑に落ちないまま、翌日は二十五歳の俺として、戸惑いながらも出社した。

 業務内容を全く覚えていない俺に、上司は初めは怒号を飛ばし、段々と心配しだして、昼には帰宅を命ぜられ、翌日は有休消化を勧められた。


 翌日、自宅で朝からスマホのニュースを読み漁っていた俺は、とあるロックバンドの新曲発表の動画を見つけて――笑いがこみ上げた。


 俺は、この曲を知っている!


 やはり俺は死に戻ったのだ!


 一瞬、須崎に復讐を考えた。あいつが他にも色々とやらかしていることを、今の俺は知っている。


 だが、復讐? そんなことが何になるというのか。


 あんなやつにかまけている暇はない。せっかく起きた信じられない奇跡を、そんなことに使っている場合か!


 世界的パンデミックが起こると世間に訴えるか? 戦争を予知したと言ってみるか? 俺が国会議員とかなら何か手立てがあるのかもしれないが、一般人の俺が何を言っても誰にも相手にされないだろう。


 それよりも、これは神がくれたチャンスなのではないか――


 金を稼ぐチャンス!!


 目標は、そう、十億だ!


 投資はしたことはないが、俺だって常識の範囲の知識はある。何の知識もコネもない俺が唯一確実に十億を手にするチャンス、ヴェガ・ブル3倍ETF。

 アメリカのベンチャー企業であるヴェガ社が、AI技術で株価を暴騰させ、2019年からの二年間で株価を50倍にした。

 これを、なんかよく分からないが、利益3倍にする投資らしい。


 50×3=150倍! 未来を知らなければ到底信じられない数字。

 種銭が必要だ。

 一年後に700万円準備できれば、三年後にはそれが十億になる!


 今の貯金残高を確認するためにスマホを見たが、銀行のアプリが入っていなかった。


「クソッ」


 慌てて通帳を探し、近所のATMで記帳する。残高は200万。

 遠方の実家とはもはや縁はなく、理由も話さずに金を借りられるような知人もいない。

 あと一年以内に自力で500万円を手に入れなければならない。

 年収よりも多い金額を、一年で。


 この時の俺には付き合っていた女がいた。佐伯乃々――前の人生で、半年後に結婚して、二年後に病気で倒れた女。

 今の俺に、女にかまけている余裕などない。短いメールで別れを告げた。


 プロポーズ用に買っていた80万の婚約指輪を質屋で売った。25万にしかならなかった。

 ちくしょう、なんでこれを買う前に戻れなかったのか! 55万が無駄になった。


 ダブルワークを始めて毎日直帰するようになった俺は、部の違う乃々とはたまにすれ違うくらい。声をかけようとしてくるのを何度か無視したら、そのうち困った顔で見つめてくるだけになった。メールも全部読まずに削除した。


 すまんな。

 俺はやると決めたんだ。

 他の男でも見つけてくれ。


 ていうかこいつ、こんなに太ってたっけ?


 結婚してから、乃々はいつも「悠真さんがうだつのあがらない男だってことくらい、知ってるわ」と失礼なことばかり言ってきた。

 何がうだつのあがらない男だ。自分は卵焼きも満足に作れないくせに。

 見てろ。俺は十億稼ぐ男だ!


 ***


 そうして一年間しゃかりきに働き、安いアパートに越して、生活費を限界まで切り詰めて、年末に俺は会社を辞めた。十年も勤めていない社員に多めに退職金をくれた会社に感謝して、前回の人生でリストラしたことについては水に流した。

 退職前に消費者金融にも行ってみたが、何年か前に法律が改正されたとかで、俺に貸せるのはとりあえず20万だと言われた。向こう数年間は返す目処がたたないので、それはやめた。


 元々の貯金が200万。

 一年間の給料から節約して200万。

 夜のバイト代が80万。

 退職金150万。

 指輪を売った金が25万。


 家にあった細々した物をネムカリで売却して、なんとか目標に届き、俺は700万をヴェガ・ブル3倍ETFに突っ込んだ。


 ……明日からの生活、どうしよう。


 ***


 それから、俺は日雇いのバイトをしながら日々を過ごしていた。

 会社を辞めたりバイトしたりすると、こんなに保険やら税金やらかかることを知らなくて、初めは冷や汗が出た。

 役所の若いお兄ちゃんたちは、バイト生活で苦しい旨を説明して一年以内に全部払うと約束したら、優しく対応してくれた。給与明細は確認されたが、証券口座までは調べなかったようだ。今はこつこつとそれを払っている。


 必死だったあの一年間は、絶対に現金を準備しなくてはと思いこんでいたので退職金欲しさに仕事を辞めてしまった。時間ができて落ち着いてみれば、他に方法があった気がする。考えると落ち込むので、もう考えないことにしている。


 そんな中でヴェガ社が自動運転AIの実証成功を発表して暴騰。チャートを見ることが毎日の楽しみになった。

 それ以外の娯楽は散歩だ。金もかからないし健康にも良い。


 川辺を歩いていて、東の空に黒い雲の広がりを見つける。

 そういえば今日は、夕方から豪雨になって電車が止まる日だ。

 前の人生で乃々は雨に濡れながら二時間歩いて帰宅して風邪で寝込んだ。


 アパートの玄関に以前乃々が忘れていった傘がそのまま置いてあったので、会社に届けることにした。サービスで百均のカッパを付ける。二百円高かったが、女の好きそうな花柄のやつにした。俺は気の利く男だからな。


 知っている顔がいないことを確認し、社ビルの受付に傘を預けていると、耳障りな声がした。


「野々村先輩じゃないですかぁ」


 振り向くと、にやにやと楽しそうな須崎が立っている。


「昼間からジーンズでぶらぶらできるご身分、羨ましいなぁ。誰とも連絡とってないみたいですけど、今、何してるんです?」

「……うるせぇ」


 足早に去ろうとした俺に、須崎がついてくる。


「警備のバイトしてるのを見かけたって人がいるんですけど本当ですか? もうすぐ定時だし、一杯どうです? 奢ってあげてもいいですよ?」


 うぜえ。

 お前がまだここに勤められてるのは、俺が辞めたから、データ改竄しなかったおかげなんだぞ。感謝してひれ伏せ。


「須崎さん。申し訳ないけど、野々村は俺と先約があるので」


 割って入ってきたイケメンがちらりと俺を見て少し安心した顔をした。イケメンは須崎に紙袋を渡し、


「ついでがあったので、資料をお持ちしました。課長さんにお渡しください」


 そう言って俺の背中を押しながらビルを出る。


 高校が一緒で、取引先として五年ぶりに再会した真田先輩だ。

 昔からみんなにいい人と言われているが、俺にとっては顔が良くて仕事もできて女にモテる、いけすかない男だった。


「野々村。急に連絡取れなくなって、どうしたかと思ったぞ。元気にしてるのか」

「……すみません。色々、やることがあって」


 惨めになるからアンタと話したくなかったとは、流石に言えない。


「……俺の抜けたあと、関節ユニットの取引、どうなってますか」

「あいつが引き継いでるよ。可もなく不可もなくかなぁ」

「……基礎データの数字、よく見ておいてください。あいつ、そういうの、まだ慣れてないんで……」


 須崎のやらかしたことは俺の会社を傾けかけたが、納入先である先輩の会社にも随分迷惑をかけた。

 証拠もない状況で「改竄している」とは言えないし、今回はしていないかもしれない。須崎が実験値の数字に慣れていないのも本当だし、これくらいが精々だろう。


 ふと、前回の人生で、就職活動に苦戦している俺に、先輩が飯を奢ってくれた時のことを思い出す。


 海外の関連会社から社員の女性率の低さについて指摘されたが、性別を限定した募集が難しくて人事が困っている、お前が女だったら推薦してやれたのに、と申し訳なさそうにぼやいていた。


「真田先輩」

「ん?」

「あの……先輩の会社、今、社員を増やす話がありますよね」


 俺の質問に、真田先輩は切れ長の目をぱちぱちと瞬いた。


「おお? なんで知ってんだ? 悪いけど女の子が欲しいから、お前を推薦はできないよ」

「そうじゃなくて、」


 真田先輩の勤める北洋メディカルは、海外展開もしているデカい会社だ。

 前の人生で乃々と三人でメシに行った時に乃々が、自分も北洋メディカルを受けたかったがその年には技術者の募集しかなくて諦めた、と言っていた。


「俺の元……元カノを面接してもらうことはできませんか」

「なんだそれ?」


 俺のいた鈴原精機は技術力はあるものの昭和男児の会長のワンマン会社で、女性には事務仕事ばかりを回しがちだし、福利厚生よりも成果報酬が充実している。いろんな仕事がしたい女性や、育児と両立させたい女性には厳しい。


「……その元カノとやらは、紹介するに足る人材か?」

「普通っす。与えられた仕事を無難にこなして、無駄な作業に腹を立てて、せこせこ節約するくせに大胆な提案で上司を困らせて、元気に仕事する女」


 なんだそれ、と笑った先輩は、とりあえず人事に話してみると請け負ってくれた。

 俺は先輩に乃々の連絡先を勝手に教えた。乃々にとって悪くない話のはずだ。怒られないと信じたい。


 ***


 毎日チャートに張り付くのも半年ほどで疲れてきて、順調な数字に気の抜けていたある日。

 三日ぶりに証券口座を開いた俺は、心臓が凍った。


 取引アプリのチャートが、真っ赤に染まっていた。

 一晩で三割。ヴェガ社の株価が奈落に落ちている。


「——嘘だろ」


 呼吸が浅くなる。

 どういうことだ。

 俺は別に投資に詳しい訳じゃないんだぞ。


 慌ててスマホで検索したが、読んでもよく分からない。

 分かったのは、あと数%下がれば俺の買ったETFが強制決済になるということ。強制決済ってなに!?


 画面の数字を見つめる指が震える。

 汗がマウスを滑らせ、カーソルが暴れた。


 落ち着け。まだ戻る。ヴェガ株は絶対に戻る。俺はそれを知っている。

 戻ることは分かっているが、細かなチャートまで覚えていなかった。この波を乗り切れなければ、全てが無駄になる。


 吐く息が震える。


 乱高下するチャートが、前の人生で見た乃々の心電図を思い起こさせ、吐き気がする。


「お願いだ……」


 誰に祈っているのかも分からない。

 神か、マーケットか、未来で死んだ自分自身か。


 地獄のような一晩を過ごした。


 翌朝、市場が始まる。

 再読み込み。再読み込み。再読み込み。

 株価は、さらに下へ降りていく。


「終わった……」


 頭を抱えた。

 全部無駄だった。

 全てを賭けたのに、俺はまた全てを失うのか。


 だが次の瞬間、下落が止まり、赤い線が上を向く。そのまま信じられない勢いで上昇を始めた。


 いつの間にか息切れしていた俺は、酸欠で布団に倒れ込んだ。



 反省して、レバレッジ型ETFについて、ちゃんとネットで調べてみた。

 どうやら50倍になる株の3倍ETFを買っても、単純に150倍という訳にはいかないらしい。よく分からない。120倍くらいなんだろうか。いや、100倍くらいなのか?


 ――足りるだろうか。


 ***


 そうして迎えた2021年末。


 俺は二年間死ぬ気でホールドしていたETFを全部売却した。手数料・税引後で5億1,200万円が残った。

 スマホの画面に映る資産総額に、心臓がばくばくと鳴る。


「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……」


 部屋に響く呪文のような声が震える。


 五億の現金。

 真面目に貯金しているだけでは、絶対に手に入らない金額。

 俺はジャンパーを引っ掴んで、足早に駅前に向かった。


 ***


「手続きはこれで終了でございます」

「……はい……」


 銀行の外為窓口で、手渡された通帳をぼんやりと見る。


 印字された口座残高は150万円。


 署名をした時は、この瞬間に目が覚めて、やっぱり全部夢だったことになるんじゃないかと、ボールペンを持つ手が震えた。整然と印字された文字の中で俺の名前だけが踊っている。


「もう一度、書類の説明をいたしますね」


 何枚もの書類を捲りながら、さっきと同じ長い説明が始まる。

 送金先コード、送金金額、送金手数料、為替手数料、受取人名『アーデンバイオテック社』――送金理由『難病研究への寄付』。

 送金手続きだけで一週間かかった。


 アメリカ・マサチューセッツ州の小さなバイオ企業、アーデンバイオテック社。希少疾患リュミナ病――乃々がかかる病気の、特効薬の研究をしている会社だ。前回の人生では、乃々が死んだ少し後にアメリカでの認可が降りていた。


 世界的パンデミックの煽りで損失が膨らみ、治験フェーズⅡまで進んでいた研究が三年間も凍結されていたことを、ネットの記事で知った。それさえ乗り切れば、フェーズⅢ以降は提携している製薬会社が引き継いでくれるはずだった。


『あと800万ドルあれば、もっと早く、つらい思いをしている人々を救えたはずでした。』


 ――だから、十億必要だと思ったけれど。

 十億が無理だと分かった時に下手な英語で問い合わせてみたら、あちらはあちらで金策中であり、あと五億で足りると言われた。


 今年の年末、乃々の病が発症する。

 日本にはまだ治療法は存在しない。


 寄付の条件として、乃々を治験に入れてほしいと頼んでみたが、そういうことは難しいらしい。アメリカと同時に最短で日本の厚労省にも承認申請を提出するということで話がついた。


 ***


 乃々が通院を始めてから二年が経った。

 俺は仕事のない日は病院の近くをうろついている。たまに乃々を見つけて元気そうな姿に安心する。警備員のいる時は近くの公園のベンチで時間を潰す。


 そして、六年越しでやっと迎えた、三十一歳の誕生日。


 病院の自動ドアから見慣れたカーディガンを着た乃々が出てくる。健康的な丸みを帯びた身体で、自分の足で、病院のアプローチを軽やかに降りる。


 俺はそれを見届けて、コンビニで缶ビールを買って、いつもの公園のベンチに座った。


 雲ひとつない青空の下。

 吐いた白い息が冷たい空気に溶ける。


 缶が手に冷たい。熱燗にすればよかった。


「……はー……、終わった……」


 身体を壊してから医者に控えるよう指導されていたビールを、三年ぶりに呷る。美味いけど冷たい。寒い。熱燗にすればよかった。

 風が頬を撫で、どこか遠くで子どもの笑い声がした。


「……これから、どうすっかな……」


 五年前にやり直す機会を得て、前の人生で後悔したことを、全部やり直せると思った。

 須崎に復讐できる。

 会社をクビにならずに済む。

 ちゃんと乃々を療養させ、労わって、感謝を伝えて、介護を終えて、暫くしたら前を向いて、壊さなかった身体で、増やした資産で、ゆっくりと自分の人生を全うすることができる。


 だけど、それよりも凄い可能性に気づいた。

 それに向かって、五年間、できることは全部やった。


 そして今、乃々は生きている。


 俺は間に合ったのだ。


 この先のことは考えていなかった。

 俺の人生設計は、いったんここまでだ。


 だが俺には現在、心強いスキルがある。年間120万の生活費で、健康な食生活を維持して暮らすという素晴らしいスキルが。なんとかなる。

 大丈夫だ。

 少し届かなかったけど、以前の俺なら考えもしなかった途方もないことをやると決めて、やって、やり遂げた。


 これからの人生で誰が何と言おうと、俺は生涯、俺を誇れる。


「……乃々」


 須崎に嵌められてからの五年間、何の価値もない俺に寄り添ってくれた。

 面接に落ち続けて死にたくなった日も、気晴らしに行った公園でママ軍団に不審者扱いされて死にたくなった日も、乃々の誕生日にも結婚記念日にも何もしてやれなくて死にたくなった日も。

 病気に罹って、自分だって辛かっただろうに、「悠真さんがうだつのあがらない男だってことくらい、知ってるわ」と能天気に笑って、不味い卵焼きを焼いて待っていてくれた。晩御飯は俺の担当だというのに、貴重な食材を無駄にしやがって。


 最期の日に、ごめんなさいね、と弱い息の合間に聞こえた微かな声。

 身軽にしてあげるべきかもと思ったけど、一緒にいたかったの。小枝のように細く固くなった手で俺の手を握って、そう言った。


 ありがとう。

 すまない。

 俺なんかと結婚してくれて嬉しかった。


 乃々が病気になってから、やっと、そういうことを伝えないといけないと思い至って。いつか、いつかと思っているうちにとうとう最期まで言いだせなかった言葉たち。


「乃々……」


 乃々はモテた。

 それほど美人ではなかったけど、なんかモテた。

 本当ならあのいけすかねぇ真田先輩みたいなのとくっつくのが穏当だ。

 顔が良くて、性格も良くて、仕事もできる、ほんといけすかねぇ男。俺が不良品を回収して回っていた時には、ただの取引先なのに、一緒に走り回ってフォローしてくれた。

 聖人かよ。ふざけんな。神は不公平だ。


 先輩だって、同じ会社に乃々がいれば、きっと好きになる。


 乃々が俺なんかと結婚したのは、あれだ、しずかちゃんがのび太と結婚しちゃったようなアレだ。


 会社をクビになってから、自分がどんなに無価値な人間か思い知らされる毎日だった。バイト生活の、くたびれた、手に職もない三十路の男。

 自分をもう一度選んでほしいなんて、とても言えない。


「……幸せに、……」


 言葉に詰まる。


 なってほしい、と続けたかったのか。

 してやりたかった、と続けたかったのか。

 俺自身にも、よく分からなかった。


「……バーカ」


 青い空に向かって呟く。


「ブース。デーブ」


 やり切って清々しいはずなのに、だんだんと、なぜか胸の痛みが増す。


「だいたい、なんで初めての料理を目分量で作ろうとするんだ、おかしいだろ。メシマズなんだから開いてるレシピ本に従えよ」


 頑張った。

 頑張ったんだ。

 こんなに頑張ったのに。


「乃々と結婚なんかしなくて、ほんと良かったわ。あんなやつ、小太りだし、その割に胸もねぇし、大雑把にもほどがあるし、飯もマズいし」

「ひどい。私の料理なんか、食べたこともないくせに」

「うわ!?」


 急に後ろから声をかけられ、体感五メートルほど飛びあがった。喉から心臓が飛び出したんじゃないかと、胸元を摩る。


「の、のの、乃々……どうしてここに?」

「あら、なあに? 一方的に振った女に、随分馴れ馴れしい呼び方ね?」

「いや、これは、その」


 そうだ。

 結婚前は、佐伯さんと呼んでいたんだった。


 乃々は俺の回答を待たず、少し距離を空けてベンチに座った。


「久しぶりね。病院でときどき、野々村さんみたいな人を見かけるなって思ってたの。……少し、お話してってもいい?」


 俺があわあわと返答に窮している間に、乃々は喋り始めてしまう。


「あのね、違ったら笑ってくれればいいんだけど……もしかして野々村さん、何か悪い病気なの? だから私と別れようとしたの?」

「……違う……」

「じゃあ何か、借金とかで、私を巻き込まないように別れたの?」

「違う! 何? お前のその妄想、何なの!? 馬鹿じゃねえの!」


「だって野々村さん、ちょっと引くくらい、私のこと大好きだったから」


 さらりと言われた言葉に頭が白くなる。


「は……はぁ!? はああー? なんっ……そんなことないですぅー! 六年間、お前のことなんか、ミリも思い出しもしませんでしたぁ!」

「はぁー? 別れた女を乃々呼ばわりして黄昏れてる男がなんか言ってますぅー」

「おま……っ」

「ほんとはヨリを戻したくて泣いてたんじゃないんですかぁー?」

「そっ、おまっ、ばっ、」


 言葉に詰まって顔が熱くなる。

 これだから俺は面接に受からないんだ。


 悔しい。かっこわるい。


 何かこいつをギャフンと言わせる言葉はないのか。

 必死になる俺をじっと見つめてから、乃々が静かに言う。


「私は、ヨリを戻したくて泣いてたわよ。今は……流石にもう泣かないけど、理由が知りたい。問題は解決したの?」

「……したら、なんだってんだ」

「もう、私と、やり直したいとは思わない?」

「……真田先輩は、どうしたんだ」


 乃々が心底心当たりのない顔で首を傾げる。


「真田さんがどうしたの?」

「先輩と……付き合ったり、してないのか」

「私が? そりゃ、真田さんはかっこいいけど……そういえば野々村さん、真田さんに勝手に私の連絡先教えたでしょ! 最低! これは謝って!」

「……ごめんなさい」

「はい。結果として北洋メディカルに転職できたので、今回に限り恩赦を与えます」

「……なんで……」


 なんでだ。運命的に出会ったんじゃないのか。

 あんなカッコいい男と、こんな可愛い女が出会ったら、なんかの歯車が回るだろ。


「……言っとくが俺は、ずっと正社員の仕事が決まらなくて」

「でも、働いてるのよね?」

「当たり前だろ」

「まだ借金とかがあるの?」

「もう、ない」


 税金も保険も、全部払い終わった。

 今はほんとに少しずつだけど、貯金もできてる。


「じゃあ問題ないんじゃないの?」

「……俺は……この歳でバイトで、身体も壊してるし、……」


 もごもごと言い淀んでいると、こちらをじっと見ていた乃々がふと笑った。


「やあね、野々村さんがうだつのあがらない男だってことくらい、知ってるわ」


 結婚生活で何度も言われた言葉。

 聞くたびに、乃々の笑顔が細くなっていく気がして、大嫌いだった言葉。


 同じ言葉を紡ぐ乃々が元気で、可愛くて、これを守れたのだと思うと、俺にも少しは、ほんのちょっとくらいは、資格があるような気がしてくる。


「…………俺は、なんも持ってないけど……いっかいだけ、言う……」


 今回の人生では、六年前に、指輪と一緒に手放してしまった望み。


 もう、指輪も人生設計もないけれど。


「……俺と、結婚、してほしい」


 俺の唐突なプロポーズに乃々がぱちぱちと目を瞬く。


 それから、前回よりも少し歳を重ねた乃々は、前回と同じように「えー、どうしよ。野々村乃々になっちゃうなんて、最悪」と能天気に笑った。


 俺も泣きそうになるのを必死で我慢して、「じゃあ今度は俺が佐伯悠真になるか」と、笑ってみせた。


 青い空の下、冷たい空気の中。温かい乃々の手が冷え切った俺の手を握る。

 そして俺たちは同じ方向へ歩きだした。


 俺が体験した信じられないような話を、いつか乃々には話すことがあるかもしれない。






 最後までお読みいただきありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
すっごく良かった 泣いちゃった!!! 中盤、死に戻りしても失敗して何もかも無くすお話しかと思いましたが 予想外の展開に涙ポロポロ いいお話を読ませて頂きました
やられた〜 ラストこうくるとは とても面白かったです。 次作も期待しております。 野々村悠真 幸せになれ〜
何ももっていないのではなく全てをもってる 専業主夫という道もありますね。 読後感が素晴らしい
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