第十王子と本の虫
十人並。普通の女の子。可もなく不可もない、愛想の無い次女。
それがモンド侯爵家における、私の評価だった。特長と言えるものが一つも無かった私は、まさに余り物同然の扱いを受けていた。食事も、いつも自室で余り物を食べていた。
でもそれは私にとっても快適だった。嫌味っぽい姉は既に家を出ていたし、親から期待され過ぎて過干渉気味な兄や、問答無用で愛玩される妹と比べて、何も期待されずに済むのは楽だった。
「お母さま、出来ました!」
「あら、もうこの曲を弾けるようになったの!?オーレリアは天才だわ!お姉ちゃんとは大違いね!」
「ほんと!?わたし、おねえちゃんよりすごい!?」
「ええ!」
「やったー!」
私よりも器用な妹は、何をやっても褒められた。そして、何をやっても私は妹と比較され、いつしか比較すらされなくなった。
どれだけ勉学に励もうとも、ダンスや歌に興じても、褒められもしないし叱られもしなくなった。
文字通りの空気。いてもいなくても、家にとっては問題無い存在。それが私だった。妹が愛嬌を振りまくようになってからは、特にそれが顕著になった。
「たまには新しい本を読みたいなー……」
喜怒哀楽の少ない薄味の毎日。やることといえば読書だけという、そんな平穏だけど退屈で幸せな日々は、突如終わりを迎えた。
「ウラリー、ちょっと来なさい」
父の声を聞くのも久しぶりだった。しかし教えられた通りに読書を中断し、椅子から降りてカーテシーを行う。愛想の悪い私だけに課せられた特別ルールなのだが、お陰様で家族扱いされていない実感が拭えない。
実際、父の声色からは感情が感じられなかった。
「これから王子に会ってもらう。すぐに出掛ける準備しろ」
「はい?……わかりました」
……なんで?とは聞かない。聞いたところで、いつも教えてくれないからだ。
王城の客間で会わされたのは、シリル第十王子。特に良い噂を聞かない王子で、癇癪持ちの怒りん坊で有名だった。事実、この時の彼も不機嫌そうだった。
「お前にシリル殿下のお世話を命じる」
「お世話とは?」
「食事の提供のほか、シリル様に必要なこと全てのお世話だ。これは国王命令である。万事、言うことを聞くように」
今日は二人で親睦を深めること。そう言って、父は部屋から出ていってしまった。ここは普通、放置ではなく司会進行役をするのが親ではないのか?
「……ええっと、ウラリー。ウラリー・モンドです。今日から王子のお世話をすることになりました。よろしくお願いします」
返ってきたのは、無言と無視。そっぽを向いたまま、不機嫌な顔をするだけだった。
「王子は何がお好きですか?」
……駄目か。じゃあもういいや、帰るまで好きに過ごそう。
と言ってもやる事も特にないので、本棚から本を一冊取り出して、読書で時間を潰すことにした。客間に置くだけあって、意識の高い内容だ。高貴で、美しく、難しい言葉を選んで書かれていて、実に役に立たなさそう。
しばらく無言のまま読書を続けていると、不貞腐れるのにも飽きたのか、王子が口を開いた。
「お前で五人目だ」
発せられた最初の言葉は、私ではない誰かに向けられているかのようだった。
「何のことですか?」
「僕に充てられたやつの数だよ。4人ともとっくに辞めたけどな。モンド侯爵の目的は金か?それとも人脈か?生憎だったな。いくらがんばっても、僕相手ではそんなものは期待できないぞ」
「何も聞かされてませんので、なんとも」
聞かされていれば、もう少し頑張る気も起きるんだけどね。
「そんなはずあるか!僕は王子だぞ?目的も無しに、ここへやってくるはずがない!」
「私に言われましても……父からはただ、王子のお世話をしろとしか言われてません」
「そんなものは侍女で間に合ってる!」
「その侍女の姿が見当たりませんが」
「……う、うるさいっ!」
なるほど、こんな感じで癇癪起こすから、普段は誰も近寄らないってことね。そりゃ自業自得だわ。
さて一冊目、読了と。続けて二冊目に取り掛かる。同格の貴族へ、如何に上手く立ち回るかについて書かれている。後は派閥争いの生き残り方……この本の作者は、随分と生き辛そうだ。
「……馬鹿にされたものだな」
「本当ですね」
「お前のことだぞ。よくこの状況で、僕を無視できるな」
「別に無視はしてませんよ。王子も一緒に読んでみますか?読んでも役に立たなさそうで、実に面白いですよ」
「読んでも意味のない本は読まない」
「そうですか」
確かに、読んでも意味は無さそうな本ばかりだ。客間だけあって表紙は高貴だが、実際は時間潰しや話のネタのために置かれているのだろう。それでも不機嫌そうにしてる、王子の相手をするよりは楽しいけど。
半分くらい読んでから王子を横目にすると、なんだか少し落ち着かない様子でソワソワしていた。そんなに暇なら、王子も読めばいいのに。
「……なあ。お前、名前は」
「ウラリー・モンドです。さっき言ったじゃないですか」
「そ、そうだったか?じゃあ、歳はいくつだ。僕は12歳だけど」
「私は10歳です」
「見えないな。同い年かと思った」
「私もです」
「こ、こいつ……!」
その日の会話は、ここまでだった。部屋のドアが開けられ、この国で一番偉い人が立っていたからだ。
椅子から降りて、跪いて頭を下げた。相手はこの国で一番偉いので、カーテシーでは軽過ぎる。
「其方がウラリー・モンド嬢か。言われずとも跪くとは、よく教育が行き届いてるようだな、モンド侯爵よ」
「ありがとうございます」
声の位置からして、その父も王の後ろで跪いているようだ。国王とは文字通り、雲の上の存在なのだ。
「シリルとは仲良くできそうかな?発言を許すぞ、ウラリー嬢」
……はて、仲良くとは?お世話しろとしか言われていないが。まあ、答えなんて一つしか許されてないだろうけど。
「はい、陛下」
「うむ。シリル、くれぐれもウラリー嬢と仲良くな」
その陛下相手に不貞腐れた態度を一貫させる王子は、流石と言って良いのだろうか。私が同じ態度を取れば、すぐに首が飛んでもおかしくない。
「シリル、聞こえているのか?これ以上、お前に同年代の友人を用意することは出来ん。ウラリー嬢は少し年下ではあるが、見ての通りのしっかり者だ。彼女を通じて交友の何たるかを学び、いずれ来る学園生活への準備を――」
「は?これでしっかり者!?こいつの態度は、とても王子に対するものではありません!!」
「それが今のお主に対する評価なのだろう」
「う、うおっ……!?」
友人?交友??学園生活への準備???
なにそれ、一個も分かんない。人選ミスじゃありませんか?
「も、もういいです、父上!早くこの者を帰らせてください!!」
「すまないな、ウラリー嬢。今日のところは、ここまでにしよう。シリルのこと、よろしく頼む」
よろしくなくとも、国王命令じゃ断れない。
「はい、陛下」
……仲良く、ねぇ。
「お父様、王子と仲良くなれとは聞いてませんが」
父と共に帰りの馬車に乗った私は、初めて父親に意見した。当然の疑問をぶつけただけに過ぎなかったが、その答えはあまりにも冷ややかだった。
「世話を命じておいて、仲良くなるなと命じる訳があるまい」
この人は……娘を困らせて楽しいのか?度し難い神経だ。
「どうして私なのですか」
「どうもこうもない。あのシリル王子とお前の年齢が近かった。それだけのことだ」
それだったら私ではなく、二歳上の兄さまの方がよほど適任だろう。それをわざわざ避けて、私に任せるとは。
要するに失敗して傷ついても問題ない人選をしただけなのかな。兄さまは今、学園入学に向けた受験勉強にお忙しいから。
憮然として言葉が無かっただけなのに、私を論破したとでも思ったのだろうか。父は私の頭を、無遠慮に撫で始めた。適当に頭を撫でていれば娘が喜ぶとでも思っているのなら、そろそろ認識を改めて頂きたい。
「しっかりやれよ、ウラリー。この件が上手くいかなかった時は、どうなるか分かっているな?」
ああ、この程度のことも出来ない役立たずは、すぐに家から追い出すぞって意味ですか。そうですか。愛されてますね、私は。
「はい」
王子の不機嫌そうな顔と、癇癪が思い出される。明日からは大変だ。一体どうしたものか。
――翌日。
「またお前か」
「また私です」
王城、第十王子の部屋の中。王子は相変わらず不機嫌であらせられる。
『――今日からは第十王子の部屋で働いてもらう。毎日早朝、王子が起床する前に一人でここへ通うように』
そう父から命じられた訳だが……これはまた、凄い数の本と本棚だ。どの本棚も天井近くある。紙とインク特有の匂い感じられるほどで、まるで図書館にベッドだけ置いたかのような様相だ。これだけの本を用意するのに、一体金貨何枚が必要なのだろう。
「二日続けて通えた貴族は、お前で2人目だ。大した神経だな」
「それはどうも」
その一人目の貴族は我慢強かったのだな。家から追い出されるかもしれない状況でなければ、私だって来たいとは思わなかった。
「さて」
そんなことより、まずは本だ。まさに選り取り見取り。
「あ、おい!?」
どれも見事に実用書と教科書ばかりだ。大衆小説や、官能小説の一冊も無いとは、色気の無い図書館である。まあ父の場合は本棚の裏に隠していたし、実は探せばあるのかもしれないが。
私は兵法書と思しき一冊を手に取り、早速ページを捲った。お堅い文面だが、しっかり図解もされたりして、意外と読み易さに配慮されている。これなら時間潰しには事欠かないだろう。
「勝手に読むな!僕の本だぞ!」
「良いじゃないですか、減るもんじゃありませんし。読み終わったらお返ししますよ」
「そういう問題じゃないだろ!?ったく、図々しいやつだな!?」
「でもここ、本以外に何もありませんし。お世話以外の時間は、やることもないですから」
……あれ、なんだその不満そうな顔は。だって、事実じゃないか。
「……ふんっ!どうせ、僕といたって楽しくないもんな!どいつもこいつも!!」
「そりゃそうです」
「なんだとっ!?不敬だぞ!!」
「お会いしてから今まで、罵られるばかりですから。結構怖いんですよ?年上から怒鳴られるのは」
「ハッ……!?」
王子の言う通り、自分でも神経は太い方だと思う。愛想が無いのも自覚している。それでも本能的にだろうが、本を持つ手が震えてしまっていた。
頭は冷静でも、身体が冷静とは限らない。年上の男子に怒鳴られれば、身の恐怖を感じるのは至極当然だ。だからきっと、今やってる読書も、いつもと同じで――
――所詮は、現実逃避に過ぎないのだ。
「お前……震えているのか……?」
しばらく沈黙が流れた。私は言う事を聞かない手で黙々とページを捲りつつも、これまでやって来たという世話人達に思いを馳せた。
きっと皆、将来王子の友人として箔をつけようと、張り切って擦り寄ったことだろう。しかし最初からこの態度では、大半が一日しか保たなかったのも頷ける。
「……僕のせいか」
いくら本に事欠かなくても、このままの関係を何年も続けるのは、かなりしんどい。仲良くなるのは難しいだろうが、それならそれでどんな距離感で接したものか。そう内心で頭を抱えていたところ……。
「悪かった、ウラリー嬢」
なんと癇癪王子の方が、あっさりと折れてきた。
「へ?な、なにがです?」
「大声を出したことにだ。別にお前を怖がらせるつもりじゃなかった。あれは僕が、大人げなかったと認める。謝るよ、ごめん」
……驚いた。この人、素直に謝れる人なのか。
「……別に、いいですよ。こちらこそ、勝手に本を借りて申し訳ありませんでした。すぐにお返しします」
「それは好きにしろ。読まれたって、減るもんじゃない」
さっきとはまるで別人だ。それともこれが本来なのか?感情の落差が激しすぎて、内心がさっぱり読み取れない。
「王子様って、年下の女に謝れたんですね。少し見直しました」
「うるさい!!」
「すみません」
耳キーンした。耳が壊れる前に、話題を変えましょう。
「それにしても、ここは見事に本ばかりですね。ここにあるもの全部、読む意味のあるものってやつなんですか?」
王子はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに両手を広げた。
「お前には僕が読書好きに見えるか?」
「いえ、全く」
「ふんっ、正直だな。でもお察しの通り、僕は本が嫌いだ。だのに数年前からずっと、この本の牢獄に閉じ込められている。人付き合いが大の苦手で、勉強でも剣の稽古でも成果が出せないのなら、もう何も期待しないからずっと本でも読んでいろってさ。その母上からは、王家の恥だとも言われた」
「それはまた、いいとこなしですね」
あ、しまった、これは大失言だ。また怒られるかも。……と思われたが、王子が浮かべたのは怒りではなく、自嘲の笑みだった。
「そうだ。僕はいいとこなしの出来損ないなんだ。お前なんか産むんじゃなかったって言われた時は、さすがに堪えたけどな。食事だって、最近はずっとここで食べさせられてるんだ。一人でな」
王子の目が卑屈に沈む。自分で自分を卑下して、無理やり納得しようとしているかのようだ。
そうした方が、楽だから。
何故かその姿に、ほんの少しだけ胸が痛んだ。有り得ないと思いたいが……少しだけ、この人は私に似ているのかもしれない。それに私も、一人で食事をする時の気持ちは分かる。だからって、同情出来るほど仲良しでもないけど。
「もう母上の顔も、兄弟の顔もずっと見ていない。たまに来るのは、父上くらいだ。その父上でさえ、これ以上僕に出来ることは無いかもって、諦めかけている。きっとお前は、父上が僕に与えられる最後のチャンスなのだろう」
金を持っている家庭は、育児放棄のスケールも大きいのだな。
でも本を買ってもらえるだけ上等だ。私なんて、その本ですら全て父の書斎から借りたものだ。この辺の感覚は、やはり王子様なのだと思う。
「だからせめて、父上の気持ちにだけは応えたい。生意気なお前ともちゃんと向き合って、父上の考えが間違ってなかったと、思わせてあげたいんだ」
「お父様思いなのですね。ご立派だと思います」
「言っておくが、お前の印象自体は最悪だからな。ちょっと優しくされたからって、勘違いするなよ」
「私も同感です」
「お、お前な……」
怒りっぽくて、短慮だけど、素直な人なのだな。性格的に私とは合わなさそうだけど、仕事上のパートナーとしては、やれないこともないかもしれない。
「まだお仕事が無いようでしたら、続きを読みたいのですが、よろしいでしょうか」
「はあ……別に許可なんていい。これから長い付き合いになるんだ、読みたい時は勝手に読め」
曇天の隙間から覗いた光明を頼りに、私は読書の続きに取り掛かった。気持ちが少し晴れたからか、先ほどよりもページを捲る手が軽い。気が付けば、手の震えは完全に止まっていた。
「……なあ、そんなに読書が好きなのか」
「他の趣味を知らないだけです。家では他にやることも無かったので、空いてる時間に本を読むのが当たり前になってまして」
本を読んでいる間だけは、一日が少しだけ早く流れてくれるような気がした。誰とも話せず、遠くから母と妹の笑い声が聞こえる環境で生き残るには、これしかなかったんだ。
「哀れだな。読書なんて、机に向かって椅子に座ったら、後はずっと暗記しながらページを捲る作業じゃないか」
え、なにその拷問。
「それは読書じゃなくて、暗記のお勉強でしょう」
「読書とはそういうものだろ?」
「全然違います」
これだけの本に囲まれながら、読書の楽しみ方も知らないとは。仕方ない、教えて差し上げよう。
「王子、お隣へ」
私は王子のベッドにちょこんと座り、手招きした。王子は何故か少し怯んでいたが、大人しく隣に座ってくれた。すかさず、先ほどまで読んでいた本を手渡す。
「はいこれ」
「ふ、ふんっ、これは去年一度読んだものだ。中身も全て覚えているぞ。ダール将軍が著作した兵法書の第2巻、兵站の重要性と兵站庫設営の基礎を説いた名著で――」
「そうなんですね」
どうでもいいです。
「……あ、うん」
「それじゃあ、これを寝転がって読んでみてください。どんな寝方でもいいです」
「はあ!?そ、そんなだらしないこと出来るわけ無いだろ!?」
「大丈夫です。だってここ、私以外に誰も来ないんでしょう?」
「ぐぬっ……!?」
私は別の本を一冊手に取ってから、遠く離れた窓際のロッキングチェアに腰かけた。どんな本かと思えば、別の作者が書いたらしい、兵糧の保管方法に関する本だった。気温や湿度だけでなく、汚染やネズミにも気を付けないといけないのね。なるほど興味深い。日常生活では微妙に役に立たなさそうだけど。
「…………ふ、ふんっ」
おや、仰向けになったか。……と思いきや、すぐに本を置いて、横向きの姿勢を取り始めた。本が重くて腕が疲れたんだな。確かにあの姿勢が一番楽だ。私はうつ伏せも好きだけど。
そうしてしばらく、ただ時間が過ぎた。時計がコチコチと秒針を刻む音と、ページを捲る音だけが、部屋の中を支配する。
「……なあ」
「なんですか?」
「本の内容がまるで頭に入ってこないんだけど。読んだ傍から忘れてしまいそうで、先に進まない」
「忘れたら後で読み直せばいいんです。またすぐ忘れるでしょうけど」
私の発言が気に入らなかったのか、王子は本を枕元に放り投げて、身を投げ出した。
「こんなの読書じゃない!はっきり言って時間の無駄だ!どうせベッドに寝転がるなら、このまま寝た方がマシじゃないか」
「そうですか?私は嫌いじゃないですけどね、この無駄な作業」
「これのどこが楽しいんだよ」
「二冊目で分かります」
「はあ?なんだよそれ?…………ふん」
この人、鼻で笑うのが癖になっているのだろうか。しかしそのまま昼寝することはなく、投げ捨てた本を再びめくりだした。投げ捨てたせいでどこまで読んだのか分からなくなったようで、また最初から読み直している。
再び静寂が支配し、秒針が時間を刻む音と、紙が擦れる音だけが響いた。
「……ふぅ」
――ちょうど私が三冊目を読み終えた頃には、お昼前に差し掛かっていた。だが、侍女がお昼ご飯を持ってくる気配が無い。私がすべての世話をすると聞いて、本当に職務放棄したらしい。まったく呆れた大人達だ。十歳の女の子に何も教えずに丸投げして、恥ずかしくないのだろうか。
私は黙々と字を追っている王子の邪魔をしないよう、こっそりと退室して厨房らしき場所へ向かった。侍女が仕事を教えてくれないなら、何事もぶっつけ本番で覚えていくしかあるまい。
「すみません、第十王子と私の昼食をください」
「あん?ああ、例の世話人のガキか……っておい、カートとトレーはどうした。手じゃ運べないぞ」
「教えてもらえてないので、使って良いのかもわかりません」
「ちっ、あの役立たずどもめ……だったら食堂の隅に有るのを使え。食い終わったら戻せよ」
なんてことだ。そのへんの侍女より、この不愛想な男の方がよほど親切じゃないか。態度はすごく悪いけど。
「色々と、ありがとうございます」
「ほら、持っていけ……って、おいトーマス料理長!本当にこれで良いんだろうな!?」
なんだ?って、うわ……中々の昼食だな、これは。だいぶ形が崩れているが、サンドイッチだろうか。具は……なにこれ、野菜くず?王族の割に、意外と質素な食事なんですね。
「ああ、それでいい」
「正気か!?相手は王子だぞ!」
「栄養価は十分だ。それに王妃からも、第十王子には過度に贅沢させるなと言われている」
「しかし、これはあんまりだろ!」
「さっさと仕事に戻れ、ゲイル副料理長。それといい加減、敬語を覚えるんだな」
あの小太りな男が、ここの料理長か。横柄だな。王子への食事提供だって、立派な仕事だろうに。
「あのくそジジイ……!おい、世話人のガキ」
「ウラリー・モンドです、副料理長」
「ゲイルでいい。それより、これも持ってけ」
追加された大きめのサンドイッチには、ハムが数枚追加で挟まっていた。明らかに物が違う。とても美味しそうだけども、これは……もしかしたら、この人の御昼ご飯だったのではないか?
「よろしいのですか?」
「どうせ余り物で作ったまかないだ。恵んでやるから、乞食のようにありがたく食らうんだな」
これが余り物な訳が無い。自分を悪く見せて、遠慮させないように嘘をついてるだけだ。きっとすごく不器用な人なのだな。どっかの誰かさんに、少しだけ似てるかもしれない。
「では、ありがたく頂戴します、ゲイルさん」
「次も恵んで欲しかったら、食事を運ぶ時は必ず俺を通せ。いいな、ウラリー・モンド」
「はい」
――心強い味方を得た気分になった私は、まだ私には大き過ぎるカートをよちよち押しながら、王子の部屋へ静かに入室した。どうやら半分以上読み進めたらしい。この調子なら、一日二冊くらいは読めそうだ。
「昼食を取ってきました」
「ん。後で食べるから、テーブルに置いといてくれ」
キリの良いところまで読み進めたい訳ね。了解。
「では、お先にいただきます」
「……え、ちょっと待て。お前も食うのか?」
「大丈夫。ちゃんと二人分ありますよ」
「そうじゃなくて、お前は食堂で食えよ。ここはインク臭いだろ。今は侍女も使える時間だぞ」
おや、そうなのか?しかし全部の世話を任されてるらしい私が、ここから離れて一人で食べるのもなー……食堂も捨て難いけど、ここは無難な方を選ぼう。
「平気です。部屋での食事には慣れてますから」
「慣れてるって、お前。……まさかお前も一人で食べていたのか?」
言われてみれば、食事中に誰かが近くにいるのは珍しい。妹が生まれる前は、だれかと一緒に食べていたような気もするけど……もう忘れちゃったな。
「やっぱり、僕も食べる。お前の食事を観ながらじゃ、読書に集中できない」
「そうですか。ではお茶を用意しますね」
「ああ。……なんだこのサンドイッチ、出来の差が酷いな」
「出来の良い方は、ゲイルさんからの頂き物です」
「……誰それ?」
昼の軽食をお互いに無言で済ませ、終わったらまた二人で読書を再開した。王子はベッド、私はロッキングチェア。これが私たちの距離感だった。
「……はあ。読み終えたぞ。こんなに集中できなかった読書は初めてだ」
「おめでとうございます。私はこれから四冊目です」
「そんなんでドヤるなよ。なあ、これのどこが面白いんだ?まるで中身を覚えられないし、どう考えても非生産的なんだが」
「覚えられなくていいんです。大事なのは覚えることではないので。それに忘れちゃうくらいの方が、また同じ本を読み返す楽しみがあるじゃないですか」
読書とは自由に楽しむものだ。誰かに強制されるものでも、中身を覚える必要も無い。ただ読んで、本の世界に浸れたら、それで十分意味がある。
「お前って、ほんと特殊だな」
それはきっと、王子が極めて特殊だからそう見えるだけだろう。私は自他共に認める凡庸な女だ。
そんな内心が聞こえるはずもないが、王子は鼻白んだ顔をしたまま、二冊目を手に取った。って、また私が読んでた本か。確か、兵站保管の指南書だったはず……読書を学べとは言ったけど、何も読む本まで合わせなくてもいいのに。意外と根は真面目だったりするのだろうか。
「……ん?」
「どうしました?」
「この戦術、間違ってるな。いや、間違ってないけど、非効率的というか」
どれどれ……兵站庫の攻略方法についてか。そういえば一冊目も兵站に関する本だったな。こうしてみると、どれも戦争に関する本ばかりだ。頼むからクーデターとか起こさないでおくれよ。
「この事例では、兵站庫が木造だから火矢で焼却しようとしてるけど、ここは兵站庫の横に川が通ってるから簡単に消火されてしまう。それより増水を待ってから水攻めにした方が、お互いの兵も死なずに済んで効果的だ」
「おー」
と言ってもお前には分からないだろうが……と言いつつ、王子は何かを考えこんでいるようだった。
「うんうん、それも良いですね」
特に兵が死なずに済むってところが良い。要は兵站が使えなくなればいいのだから、無駄に死人を出す必要はないのだ。
「ん?他の意見があるのか?」
「私なら兵達のおしっことうんちを混ぜたものを、投石機で投擲します。それも山盛りに、毎日欠かさずです」
「ふぇ……!?う、うんち!?ふざけてるのか!?」
「生きたネズミを大量に投げ込んでもいいでしょう。そうすれば兵站物資が汚染されて、使えなくなります。敵も病気になったりして戦えなくなるかも」
「何っ!?お前……敵の戦力低下まで計算に入れて……!?」
「でもこの場合は、川の水を使ったほうがずっと合理的ですね。流石です、王子」
私が最初に読んでたのは、王子の一冊目と同じく、兵站の重要性を説く本。その次が、兵站保管の指南書。三冊目は……健康を説く本だった。この順番で読んでなかったら、思い浮かばなかったと思う。私は戦いのことなんて分からないし。
うんち作戦は名案に思えたけど、仮に川が近くに無かったとしても、実際には採用されないだろうな。その辺はやっぱり、素人考えなのだ。
「まさかこの短時間に、今まで読んだ内容を全部覚えたのか」
「まさかですね。なんとなく兵站がとても大事で、管理が大変そうで、ついでに便秘解消に有効な薬草があることを知っただけです。詳しいことは分かりません」
この程度の妄想なら、本を読む人間なら誰でも出来る。
「お前、何者なんだ?兵法は学んでいないんだろ?僕はお前が読んだ本を全部暗記したけど、そんなことは一度も思いつかなかった。どうやったらそんなことに気付けるんだ」
「王子だって、今さっき戦術の間違いに気付いてますよ?私が読んだ時には気付けなかったことです」
「え?……あっ」
一日に二冊読めば、一冊目との違いを意識するものだ。一冊覚えるのに必死になっていた王子では、体験したことがない感覚だろう。
「これが読書の力です。ドヤあ」
さて、私も四冊目に取り掛かろう。税金の効率的な運用について書かれた、経済学の本だ。うん……うん、専門用語多すぎ。理解不能意味不明。これは流石に、読んだところで時間の無駄になるかも……。
「……変なやつ」
王子は二冊目を再び開くと、今度は私に少し近い位置の椅子に座った。机も近くにあったが、足を組むのに邪魔だったのか、使っていない。
それから毎日、空いてる時間は二人ぽっちで読書を続けた。王子が言うところの、無意味で生産性の無い行為の繰り返し。それがこの部屋で許された、唯一の娯楽だった。
――王子との読書生活が始まってから半年が経った。最初は共にくつろぎ、時に寝そべりながら適当な本を読んでいたが、いつの日からか紅茶やお茶菓子を共にするようになった。私が勝手に始めたことだったが、王子も律義に付き合ってくれていた。
しかし二人きりで過ごす時間は少しずつ減っていき、今や半分以下になっていた。あの王子に家庭教師が付いて、今更になって学園入学に向けた受験勉強を始めたからである。
お世話の仕事が無くなるわけではないので、小休止をする王子にお茶をお出ししたり、アロマを焚いたりしつつ、合間に本を読ませてもらっていた。……決して、私の読書を充実させるためのお茶とアロマではない。私も飲んでるけど。
さて、今日もお仕事だ。王子が起きる前に、お部屋に到着していなくてはならない。はてさて、今日はどんな本を読もうか。王子の部屋の本はどれも実用書とか参考書ばかりで、読み応えだけはあるからなー。
「ウラリー」
そんな妄想をしながら朝の支度をしていると、珍しいことに父の方から話しかけられた。下手したら家から追い出すぞ宣言をされて以来かもしれない。
「うまくやってるらしいな」
「何がです?」
「王子とのことだ。以前よりも顔色が良くなり、サボりがちだった剣の稽古や、受験勉強にも身が入っているとのことだ。陛下も大変驚いていたが、一体何をしたんだ?」
剣の稽古とは初耳だ。私と一緒じゃない時間にしていたのだろうか。ていうか半年以上経ってから、それを聞くんですか?よほど私達に関心が無かったんですね。
「お世話しつつ、王子と一緒に読書しているだけです」
「読書?ああそうか、二人で共に自習していたのだな。誠に結構なことだ。私はお前を色々と誤解していたよ。これからも王子と勉学に励みなさい」
父の方こそ何かを誤解しているようだ。面倒くさいから訂正しないけど――
「――という一幕が有りまして」
そんな今朝の出来事を王子に打ち明けると、ほとほと呆れたような顔をされてしまった。まあ、こればかりは呆れてしまうのも無理は無いだろう。
「なんでそうなるんだよ。お前の家も大概おかしいな」
「そうですね、おかしさだけは王家並です」
「ふん。不敬なやつめ」
自ら晒した家の恥を、出来に差があるサンドイッチと共に飲み込んだ私は、早朝から気になっていた事を確認してみることにした。
「それで、身が入っているのですか。稽古や勉学とやらに」
「ふんっ、別に今まで通りだ。……いや、少し違うかな」
「というと?」
「前と比べると、本で読んだ内容を思い出す事が増えた。剣技における足の運び方とか、勉強中も歴史上の出来事とかが、ふと頭を過る」
集中力が落ちているだけじゃないか、それ。もしかして当てつけだったりする?ここは皮肉の一つでも返してやるのが礼儀だろうか。
「私のお陰ですね」
「癪だけど、その通りだな」
あれ……てっきり皮肉を返してくるかと思ったのに。なんか調子狂うな。もしかして、本格的に嫌われてたりするのだろうか。
「……私との読書が嫌になりましたか?」
「はあ?……いいや、むしろ前は本に囲まれて憂鬱だったのが、最近はよく眠れている。どうしたんだよ、急に。らしくないぞ」
嫌われていないのなら、まあいいか。って、世話人に過ぎない私がそんなことを気にしてどうするんだ。今日は王子に調子を狂わされっぱなしだ。
「んん、それはよかった。今日は何を読みます?」
「兵糧の調理ハウツー」
「……それ、意味のある読書とやらになりそうですか?」
「ほざけ」
皮肉の応酬が終わったら、朝の読書タイムだ。王子の受験勉強が始まってからは、朝食後のわずかな時間に読書を共にするのが日課になっている。場所はロッキングチェア……ではなく、朝食に使っていたテーブルを囲んでいた。その方が本を置いて読めて楽だった。
お互い無言でページを捲っていく。王子も読書に慣れてきたのか、読み進めるのが速くなってきていた。今では私と同じか、むしろ少し速いペースで本を読み終わる。一度読んだ本だからだと言っていたが、それだけだろうか。
「なあ」
「はい。お茶のおかわりですか?」
「いや、お茶は良い。それよりお前も、四年後には入学するんだよな?」
ああ、学園。学園ねぇ……。
「どうなんでしょう。殿下から見て、私は学園に入れると思います?頭の出来は抜きにして」
親が次女に何も期待しておらず、失敗しても痛くないからと、癇癪持ちの第十王子の部屋に単身で放り込む、大概おかしい家でございますよ。
「……微妙だな。頭の出来はともかく」
おい、何故そこを強調した。……まあいいか。
「でも可能性がゼロではないと?」
「仮にお前の家が放置を目論んだとしても、父上が入学を命じたら従うしかないから」
そうか、この関係も国王命令で成り立ってるんだから、その可能性もあるのか。しかし――
「仮に入学しても、やはり王子の二年遅れでは、学園で出来るお世話なんて殆ど残されてない気がしますね」
「確かに、可能性は低いか。でもお前が入学しないとなると……」
「……?」
「お前の世話になる時間が、ますます減ってしまいそうだな」
「そうですね」
世話になってる自覚が生まれたのは良いことです。
「……はあ。もういい。なんか、悩んでるのが馬鹿らしくなってきた」
何故か少し不貞腐れた様子の王子は、勉強開始までの僅かな時間が惜しいのか、再び調理本を読み始めた。何を悩んでいるのか分からないが、私からすれば調理を熱心に学ぶ心境の方が分からない。
「おい。なんか今、失礼な想像をしてなかったか」
「まさか、まさか」
まぁ、私も後で読んでおこうかな、あれ。いつどんな理由で家から追い出されるか、分かったもんじゃないから。
どうか少しでも長く、この時間が続きますように。せめて、あの調理本を読み終えるまでは。
――それからさらに二年後。
王子が学園生活を送るようになっても、私は変わらず王子の部屋に通っていた。居ないなら居ないで、掃除をしたりベッドメイキングをしたりと、世話人としてやることはある。まあそれもすぐに終わり、結局は王子の部屋で本を読みながら、帰りを待つ毎日なのだが。
ところが大きな変化もあった。いや私は殆ど変わらず凡庸なままなのだが、王子が激変している。なんと学園での第十王子は、超模範的生徒であり、イケメン王子様として有名らしいのだ。三年近く前は、勉強も稽古もイマイチだったという、あの王子が。
その色白で整った美貌は星々すらも羨み、あらゆる知識に精通し、剣を持たせても一流。それでいて語彙力と表現力に優れ、女性の扱いにも長けていながら、才に溺れることのない努力家である。
……らしい。私はそれを、王子の同級生として通う兄から聞いた。
「全く、あの第十王子の傍で過ごせるウラリーが羨ましい。なあウラリー、何か俺にも手伝えることは無いかな?あの人と仲良く出来るだけの接点が欲しいんだけど」
なんだか嫉妬半分、期待半分のねちっこい目線だったが……私はただの世話人に過ぎないのだ。例によって、王子の反応は冷ややかだった。
「人違いだろ。溺れるほどの才があるなら、こんな事にはなってないはずだが」
『貴族男子の麗しい振る舞い方』なる謎の本を片手に、王子は嫌そうに顔を顰めていた。
「ええ、きっと人違いでしょう。そんなに羨ましいなら、世話人の役目を代わってやろうかとは、思いましたが」
「ふん。お前の兄上殿じゃ、僕の世話人なんて務まらない」
「この性格ではねぇ」
「なんだこいつ不敬過ぎる。お前じゃなきゃ打ち首にしてるぞ」
はい、ご覧の通り、部屋での王子はいつもの王子です。怒りっぽくて、皮肉っぽくて、何故か私の読書には毎度付き合ってくれる謎の人。
「まあ世話人が務まるかはともかく、兄は優秀ですよ。私と違って地頭も良いですし、剣も中々らしいですし、顔も良いです。もうまさに優等生。我が家の誇りです。王子とは良いお友達になれるかと」
「顔とかどうでもいいんだが」
「ははっ、冗談ですよ。さてと、そろそろお夕食をご用意し――」
「待て。今日は食堂で食べよう」
おや、珍しい。ていうか初めてではないか?毎日インクの匂いを嗅ぎながら食事をしてきたのが、そもそも異常ではあるのだが。
「しかし、ご家族はもう食事を終えられているかと」
「分かってるよ。だからこそだ」
今の時間は、侍女たちが使ってるはずだ。その中に混ざって食べるつもりか?
「それに、陛下のご許可は――」
「昼は学園の食堂を使ってるんだし、今更許可も何も無いだろ」
まあ、それもそうか。なんか上手に言いくるめられる気もするけど。
「承知しました。お気をつけて、いってらっしゃいませ」
「なんでだよ。お前も来るんだよ」
はい?なんで私まで??
「それだと絵面が凄いことになりませんか。侍女たちに混ざって、王子が一人同じメニューを食べながら、その隣に謎の世話人がいるって、カオス過ぎますよ」
ちなみに私も食堂は初利用なので、異物感アリアリである。
「僕一人で行く方が、よほど地獄絵図だろ。良いから付き合え。僕にそんな針の筵で、独り夕食を食べろというのか」
「食堂で食べると言い出したのは王子なんですが。……まあ、王子が良いと言うのでしたら」
「よし、行こう」
そんな訳で、私達は堂々と食堂へ推参したわけでございますが、これが中々大変だった。
……主に王子のせいで。
星々までもが羨む超絶完璧イケメン――とはあくまで兄上談――へと変貌した第十王子は、なんと世話人に過ぎない私を食堂でエスコートしたのだ。当然、侍女達の目は私達に全集中した。
「お、王子、あの、悪目立ちしてませんか」
「さあ、ついておいで」
「なんですか、その口調……」
もう超恥ずかしいったら無い。夜会でもなく、侍女しかいない食堂で、普段着のままエスコートなんてどうかしてる。ていうか本の影響受け過ぎだよ。これが本当に麗しい貴族男子なのか?
「君の分は私が持とう、ウラリー嬢」
「はい?キミ?」
だから誰なんだよ、この人。いつもと別人過ぎていっそ怖いよ。半軟禁状態が長過ぎて、ついに精神が限界を迎えたと、周りから思われてないと良いが。
「とりあえず黙って頷いとけ」
ええいわざわざ耳元で囁くな、くすぐったい。
とりあえず言われるがままゆっくり頷くと、侍女達から黄色い悲鳴や、嘆息が漏れ聞こえた。はいはい騙されてますよ、皆さん。この第十王子、皆さんが職務放棄した頃から、中身は何も変わってませんからね。
しかも実に優雅な仕草でお食事を運んでいるが、乗ってるのはいつものクズ野菜料理だし。なんなのもう、ギャップで頭おかしくなりそうなんだけど。
「あ、あの、もしかして第十王子ですか!?」
激しい頭痛に悩まされる中、食堂の奥からシェフが飛び出してきた。出来の悪い方の食事を提供している方の、小太りな男だ。
「ああ。こうして会うのは何年ぶりかな、トーマス料理長。いかにも第十王子だよ」
「い、いらっしゃるのでしたら、言ってくださればもっと良い物をご用意しましたのに!今すぐ作りますので、少々お待ち下さい!」
いや、普段は侍女レベルの物をよこしておいて、今更慌ててもな。報復されるとでも思ってるのだろうか?
「このままで構わないよ。トーマスの料理は、いつも美味しいからね」
「えっ……!?」
「是非とも、いつもの料理を食べたいな。侍女たちと同じ物をね」
「ひっ……!?」
マジか、この人。昔からこっちは味が薄いとかパンが硬いとか、割とバチクソにこき下ろしてたのに、よく同じ舌でそんな事言えるな。
「そうだ。プロに渡すのは失礼に当たるかもしれないが、私なりに料理の改善点や、新メニューになりそうな物をまとめてみた。同じ食材でも、これで味も調理効率も良くなるはずだよ」
「あ、ありがとう、ございます……!?」
「よろしく頼む。ではウラリー嬢、夕食を共にしようか」
とりあえず言われた通り、黙って頷いておく。まさかここにいる間、ずっとこの調子ですか?食欲が湧かないんですが……。
王子は夜会のマナーも完璧らしい。音も無く私の席の椅子を引いた王子は、これまた一切の音を立てずに着席した。その所作は優雅の一言で、ベッドに寝転がりながらマナー教本を読んでいた時とは、雲泥の差である。
が、周りに声が届かない位置に座り、料理を口にした瞬間、口調だけが一変した。
「不味いな。いつも通りだ」
なお表情と所作と声色は優雅なままである。不気味だ。頭と体で脳みそが分離して動いているのかも知れない。
「基本メニューは同じですしね。で、どういうつもりでここに?」
「食堂なら温かい飯が出るのかと思ったんだ」
なるほど、届けてたものは全部冷めてたからなぁ。いつも受け取ってる料理も、明らかに端材が使われていたし、食堂ならばと僅かな期待を抱いたのか。
「少しはマシかと思ったが、これでは温まってるだけの家畜の餌だな。侍女とダメ王子しか食わないからって、これは酷すぎる」
「それで調理のハウツーやらをたまに読んでたんですか。食事の改善をさせるために」
「結局、本より学園の学食の方が参考になったけどな。所詮は素人目線の改善案だが、メニューを考え直すきっかけにはなるだろ」
「そうですね」
確かに侍女達全員があの茶番劇を見た以上、責任者として何もしないわけにはいかないだろう。普段の食事も、多少はマシになるかもしれない。……でも。
「……それだけですか?」
「なにがだ?」
「侍女達を思っての慈善活動……という可能性もあるのかなと」
「……わからないか、やっぱり」
「はい、さっぱり」
「まあ、昔からそういうやつだもんな、お前は」
「それ、どういう意味ですか」
「お前はそのままでいいって意味だよ。ほら、さっさと食って、部屋に戻ろう。寝る前に一冊付き合え」
……カッコつけて、らしくない事をするものだ。あるいは大人になるにつれて味覚も変化して、より不味く感じるようになったのか?どっちかと言えば、後者の方が有り得そうだけど。
「いつか美味い飯を囲みたいものだな」
「囲みたいかはともかく、味の方は同感ですね」
「ふん」
この一件から、少しずつ料理の味は改善されていった。薄すぎる味が少しずつ濃くなり、渡される食事の形も多少は整ったものになった。王子も気分転換という名目で時々食堂を利用し、その度に私はエスコートごっこに付合わされた。たまにゲイル副料理長が笑いを堪えているのが見えて、それがまた恥ずかしかった。
それでも食材の質だけは何故か改善されないままだったのだが、たまたま国王が私と殿下の食事を目にしてから事態は急変。侍女達と第十王子が、粗末な料理を何年も食べ続けていた事を知って、あの温和な国王が激怒した。
徹底調査の結果、トーマス料理長が食材費を横領していたことが発覚。食材の仕入れ値を限界まで抑え、浮いた金を自分の懐に入れていたというのだ。
トーマス料理長がその後どうなったかは、誰も知らない。だが、少なくともゲイルさんが料理長になってからは、食堂で使われる食材は劇的に改善……というより、本来あるべき水準へと戻っていった。態度の悪さが災いして、せっかくの評価も若干帳消しになっている節があるけども。
――後日、国王陛下が第十王子の部屋へ訪ねて来た。私はすぐに跪いてしまったので、二人のやり取りをただ黙って聴くことしかできなかった。
「すまなかったな、シリル。お主と侍女たちが辛い思いをしていたのに、今日まで気付かなかったのは私の不徳の致すところだ。許してくれ」
国王である父からの、まさかの謝罪。しかし王子は、これを受け取ろうとしなかった。
「王が下々の隅々まで目を配っていては、政など出来ますまい。こんな細々(こまごま)とした雑事は、通学と読書の他にやることが無い第十王子あたりに、任せておけば良いのです。民が求めているのは、父上の政なのですから」
「変わったな、シリル。数年前よりも、ずっと大人になった」
「だと良いのですが」
「ああ、流石は私の息子だ。明日からは、また家族で食事を共にしよう。今のお主なら、妻も認めてくれるはずだ」
「申し出はとても有り難いのですが、辞退いたします。部屋での食事も、そう悪くないものです」
「……そうか。なら、無理強いはすまい」
跪いたままだった私は、二人がどんな顔をして話していたかは分からない。ただ、何故かお二人の視線が一瞬だけ、私に向いたような気がした。
家族との時間よりも、私との時間を優先してくれたように思えて、嬉しさと申し訳なさで胸が詰まった。それはきっと、思い上がりから来る誤解ではないのかと、冷静な部分が告げていたが。
――それからさらに二年後。やはりと言って良いのかは分からないが、14歳になった私が入学することは無かった。これまで通り部屋へ通い、王子の世話を続けろという事らしい。
王子と私の過ごし方は、出会った頃から変わらない。無限にも思える数の本を開き、ページを捲り、文字を目で追うだけの作業。たまに感想を述べ合うが、それだけだ。
しかし、変わった部分もある。かつてはロッキングチェアとベッドが私たちの定位置だったが、今では食事に使うテーブルを二人で囲うのが当たり前になっていた。その方がお茶とお茶菓子を囲めて、ちょうど良かった。
殿下の身長は、もう私が背伸びをしても届かないほど高くなっていた。一方で私は相変わらず、私のままだった。ずっと王子の近くにいるはずなのに、その王子に置いていかれているような気がして、少しだけ焦りのようなものも感じていた。
そしてこの頃、王子には卒業へ向けた、一つの大きな試練が与えられていた。
「模擬戦争?模擬戦闘とは、違うのですか」
「ああ、一種の集団演習だな。10分を一日に換算しての戦争再現だ。一定時間ごとに攻撃、行軍、後退などを判断し、指揮官が討ち取られるか、教師陣から全滅判定された時点で敗北と見做される。勝った組は卒業が内定。負けた方は追試確定だ」
「学生のうちから、結構本格的な戦争訓練をするんですね」
それも卒業を賭して行うとは、参加する方もさぞ必死だろう。
「平民を守るのは、貴族の義務だからな」
「ちなみに指揮官は誰と誰が?」
「成績最優秀者二名が選ばれる。一人は僕だが、もう一人はお前の兄上殿だ」
なんと、お二人はそんなに優秀だったのか。流石は完璧イケメン王子と、我が家の誇り。
しかし上級貴族ともなれば、騎士に混じって前線で戦うような人々ではないはずだ。当然、女子もいることだろう。それらを指揮して戦うというのは、言葉以上に難しいのではないだろうか。
「なんだか危なっかしい試験ですね。集団戦闘もあるのですか?」
「いや、模擬とはいえ乱戦では怪我人が出かねないから、一方が交戦を宣言した時点で、随伴する教師陣が勝敗を決める。地形や天候、宣言時の状況諸々での判定だな。不意打ちも許されている」
「なるほど。へえ……」
なんだかボードゲームみたいで、ちょっと面白そうだと感じてしまったのは、流石に不謹慎だろうか。でもここ数年、やってることと言えば王子の世話とお茶くらいで、娯楽らしい娯楽が無かったしなー。
「……お前もやってみたいのか?」
「一緒に参加できるんですか!?」
「えっ!?あ、いや、連れて行くのは無理だ。でもここで一緒に作戦を考えて、試験に取り入れることなら出来る。ほら、これが地図と戦力表だ」
「なーんだ、そういう意味でしたか」
残念。面白そうだったのに……。
「……そんなに、一緒に参加したかったのか?」
「したかったですね。体を動かすゲームも悪くないなと思いましたし」
まあ、作戦を一緒に考えるだけでも良いか。結果だけは必ず教えてもらおう。……ん?
「どうしました?肩を落として」
「いや、なんでも……それじゃ読書の先生から、戦術の何たるかをご教授頂こうか。今回の試験は、何としてでも勝たねばならんからな」
「腕が鳴りますね」
「言っておくが、うんち作戦は無しだぞ」
「それは残念です」
――実際に話し合ってみると、学園で習っている王子と、本を読んでいるだけの私では、戦術に対する理解度も解像度も比較にならなかった。結局、私の素人考えに対し、王子が現実的なツッコミを入れるばかりになってしまった。
でも、それはそれで楽しかった。
「――で、高台まで引き付けた上で一斉射撃!どうです?高所有利ってやつです!」
「高台には違いないが、周囲が森になっている。矢を射かけるには木が邪魔だな。逆に木々の隙間から射掛けられるかもしれない。それに急いで丘の上まで上がれば、先に兵が疲れてしまうだろう」
「あ、そうか体力の問題がありましたね……じゃあ周りの木を全部切り倒して、丸太にしてぶつけましょう!物量で押し切るのです!」
「いやいやお前、そんな原始的な……ん、待てよ?」
王子のお世話を続けて長いが、食事と読書以外でテーブルを囲んだのは、初めてだった。
……いや、そもそも誰かと一緒に知恵と知識を出し合うこと自体、初体験だったかもしれない。だってこんなに楽しい時間は、今まで一度だって味わった記憶がなかったから。
「切った丸太の山を坂上に設置して、登板する敵を目視し次第交戦を宣言すれば、勝ち判定は固いんじゃないか?……やっぱりお前は普通じゃないな。発想が自由過ぎるのに、どこか理にかなっている」
王子のお世話をしているようで、私も王子から色々貰ってきていたのかもしれない。読書もそうだけど、一緒に過ごす時間の中でも。
もしかしたら、家族と過ごした時間よりも、長く、深く……?
「丸太をぶつけるのは良いとして、どのように使えばいいと思う?」
「……え、ええと。丸太トラップでその坂道が使えないと分かれば、敵は中央の川を渡って逃げるはずです。そうしたら、二つある橋の一つを落としましょう。敵の進入路を一箇所に絞れますし、残った橋を制圧すれば敵の補給線を断てます」
「いい手だな。でもそれだと、橋を占拠する兵にも少なくない犠牲者が出るし、消耗戦に陥ってしまうな。いっそ全軍を引き付けてから、橋を両方落としてしまえば、各個撃破しやすくなる。そうだ、橋を渡ってる最中に落とした方が効率も――」
……こうしてよく見ると、確かに顔立ちは良いんだよな。端正で隙が無いのに、しゃべると残念な所もチャーミングと言えなくもない。
出会った頃はきつい印象しかなかったのに、今はむしろ柔らかで、温かな目をしてる。地図を指差しながら真面目に戦術を考える姿からは、以前のような卑屈さは全然感じられない。誰が見ても思慮と自信に溢れた、立派な王子様だ。
「丸太が余ったとしても、塹壕の代わりに出来るし、時間があれば櫓を組めるな。……以前読んだ本に書いてあった、環境利用というやつか。おい、ウラリー。お前の思い付きは値千金の働きをするぞ」
この人のお世話を、これから一生続けるのかな。お互いに家庭を持って、お互いの子供を見せ合ったりしながら、お仕事を手伝ったりするのだろうか。
それも悪くないかもしれない。そう思えるくらい、今の生活は快適で楽しかった。
……そうだよ。今までで一番、楽しいはずなのに。
「模擬戦争に、お前を連れていけたらなぁ……」
――何故、在るべき未来を想像すると、こうも胸が痛くなるのだろう。
「…………ラリー、おい、ウラリー。聞こえてるのか?」
「へ!?す、すみません、考え事をしてました」
「じゃあもう一度言うけど、模擬戦争期間中は、戦闘領域内で野営することになる。その間、お前はどうする?」
「どうする……とは?」
「世話する相手がいないんじゃ、ここに通う理由も無いだろ。たまには休暇を取ってもいいんだぞ」
「いえ。可能なら、不在の間もここに通わせてほしいです」
即答した自分自身に驚いた。休みを蹴ってまでここに通う価値があるのかと、即答した後で頭の中で確認したほどだった。
「えっと……家に居ても、やることがありませんから」
これも半分、嘘だった。やることが無いのは、王子がいない部屋でもそう変わらない。
ただ私が、この部屋に来たかったのだ。本以外には何も無い、誰も居ないはずの、この部屋に。
「……分かった、父上には僕から言っておく。留守を頼むぞ、ウラリー」
「はい、王子」
王子の卒業まで、あと少し。せめてその間だけでも、王子と二人だけで過ごせますように。そしてそれまでに、胸の痛みが取れてますように。
――その後。
「ただいま。勝ったから帰ってきた」
「え、早すぎません?」
結果から言えば、王子は模擬戦争で大勝した。否、結果だけを見れば、一方的な圧勝と言ってよかった。一週間を想定した演習をわずか一日で終わらせ、自軍の兵を殆ど死なせること無く、敵全軍を敗走に陥らせたのである。
一日足らずでの勝利は歴代最短記録であり、この点は第十王子が卒業後も研究の対象になるほどだった。
しかしその勝ち方が、生徒間で議論の対象となった。王子が極端なまでに実利を追求し、「勝つためなら何をやっても良いのか」と、非難されるような戦術を選んだからだ。
まず開戦の数日前から、王子は高台の近くにある森の一部を伐採させ、大量の丸太を量産していた。これが反則行為ではないかとの声が上がったが、敵軍が同様の申請をしてきた場合は許可することを条件に、事前に教師陣へ許可を取っていた。
敵の指揮官――もちろん、兄――もそれは把握していたが、丸太の意図が分からず静観していた。この時点で、既に反則との主張は力を失っていた。
そして開戦直後、王子は自分の首を囮にしながら、指揮官を除いた敵軍の七割を自陣に引き付けた。敵の指揮官さえ討てば勝てるとあって、未熟な貴族たちは皆こぞって深追いしてしまったのだ。残りの三割は兄が直接指揮を執っている部隊であり、逸る貴族たちを抑えた手腕と統率力は見事だったが、この時点で既に打てる手は残されていなかった。
何故ならば、功を焦る七割の軍が橋を渡りきる寸前を狙って、中央の川に架かる二つの橋が落とされたからである。王子の目的は士気の低下と命令系統の混乱、敵指揮官による救援の阻止、そして補給線の寸断。
本来なら敵将を討ち取るために守るべき橋は、主戦場となるはずだった。それを二つとも破壊するという発想が、敵軍には無かったのだ。
孤立した部隊に残された道は、兵糧が尽きる前に敵将を討ち取るか、敵軍の兵站庫を占領する以外に無い。王子はその後、迷わず自陣の兵站庫にて籠城し、対等な条件下での戦闘を可能な限り避けた。その上で、用意した丸太トラップと伏兵による奇襲で、勝利判定を稼ぎつつ敵の数を減らした。
そして橋の破壊判定から三十分――つまり実質三日――が経過した時点で、補給線を断たれた敵部隊は、全員戦闘不能と判定された。兵の三割を失った時点で全滅と見做されることを考えると、開戦直後に七割を失ったことは、歴史的惨敗と言ってよかった。
生徒間の議論において、敵軍だった生徒の一人が王子に向かって、こう叫んだという。
「第十王子は卑怯者の腰抜けだ!負けない戦いに徹する余り、敵の攻撃を恐れて逃げ回り、挙句に安全な城の中に引き籠ったのだ!これは武人として恥ずべき行為であり、王家が率いる軍としてあるまじき醜態ではないか!それでも貴方は王子なのか!!」
これに対し、不敬だと騒ぐ他の生徒達を抑えた王子の目は、極めて冷酷だった。
「君の言う通り、私は卑怯者の腰抜けなのだろう。しかしながら私には、絶対に死なずに必勝を掴む義務がある。何故ならば王族に敗北は許されないし、指揮官は戦争に勝った後であっても、亡くなった兵達の遺族に対して、全責任を負う立場にあるからだ。武人としての名誉ある死を選ぶ自由など、最初から私には存在しない。例え敵兵から、勝利後の醜態を嘲笑されようともだ」
反論の余地は無かった。そもそも教師陣が王子軍の完勝を認めていた以上、不満を漏らした所で意味は無かったのだ。
糾弾した生徒は王子の計らいにより不敬罪には問われなかったが、それが却って彼のプライドを傷付けたのか、追試験でも良い成績を残せなかったらしい。
一方で王子の演説は学園中で話題となり、そのまま王城へと伝播した。模擬戦争の成績はそのまま第十王子の評価を一変させ、料理人や侍女達の尊敬を集めただけに留まらず、卒業後も軍略面で活躍させるべきだと声が大臣からも上がり始めていた。
――そんな王子は今、いつ入手したのかは分からないが、『異性の気持ちの測り方』なる本を真剣に読んでいる。将来の結婚を考え始めているのかもしれない。
その変化に、ほんの少しだけ心がざわめいた。
「なんだかいきなり大人気になっちゃいましたねぇ。未来の軍神とまで言い出す侍女もいましたよ」
「学園の模擬戦争くらいで大袈裟なんだよ。しかも大臣まで騒いだせいで、卒業後は軍の上層部に身を置くことになりそうだし。僕にはこの部屋と、この時間さえあれば十分なんだがな」
「ふふっ、すっかり本の虫ですね」
「誰かさんのせいでな」
「おかげ、ではなく?」
「ふんっ」
王子のティーカップに、紅茶を注ぐ。まだ十歳だった頃は、沸かし過ぎて怒られた事もあったが、今となってはもう慣れたものだ。
「ウラリー。これは、僕の独り言なんだが……」
卒業後は、きっとこの部屋で一緒に過ごす時間は殆ど無くなるのだろう。私のお役目も、そろそろ終わりなのかもしれない。喪失の予感からか、それとも肩の荷が下りつつあるからか、紅茶を注ぐ手に力が入らなかった。
「婚約を申し込みたい相手がいるんだ」
その手元が狂い、ティーカップが音を立てて震えた。
「……ずっと片想いを続けていた。模擬戦争で過去最高点を取ることが、婚約者を選ばせてもらう条件だったんだ」
胸が痛い。息が苦しい。お祝いをせねばならない。しかし、まだ声が出ない。
「おかげで僕も、覚悟が決まった。今夜、勇気を出して告白しようと思っている。お前のおかげだ、ウラリー」
「私の……おかげ……?」
顔を、上げられない。力が、入らない。
「ああ。模擬戦争の助言だけじゃない。これまでお前が世話をしてくれたお陰で、僕は小さな卑屈者で終わらずに済んだ。今の僕があるのも、お前が一緒にいてくれたからだ」
ティーカップから、紅茶が溢れ始めていた。
「勝手に盛り上がってしまっているようで、申し訳ないとは思ったんだが、どうしても我慢が出来なかった。ウラリー、すまないが今夜は……え、どうした!?」
溢れ出ていたのは、紅茶だけではなかった。
「……おめでとうございます。王子のお世話を続けてきて、これほど喜ばしいことは、ありません」
「おい、火傷してないか!?手を見せてみろ!」
「……平気です」
初めて王子から逃げてしまった。この人はただ、私を心配してくれただけなのに。
直後、想像もしなかったような、深い後悔と喪失感に苛まれた。
彼と過ごせる時間も、彼を慕う権利も、もう今夜から存在しないのだ。
………慕う?
ああ……そうか。
「……申し訳ありません。今、やっと気付きました。私は、王子の事をお慕いしていたのですね。分不相応な願いを、ただの世話人に過ぎない身で……」
「ウラリー、まさかお前……?」
なんてことだ。
いつからだ。
「こんな……こんな思いを、するなら」
私はいつから、この人のことを――
「貴方の事を、好きにならなければ良かった……!」
――異性として、意識していたのだ。
「……今日はもう帰ります。婚約の成立を、心よりお祈りいたします」
「待て、誤解だ!話を聞いてくれ!ウラリー!」
「…………っ!」
仕事を途中で放棄した私は、迎えの馬車を待たずに、モンド侯爵邸に向けて走った。どこまでも続く道を、王子との別れから目を逸らすようにして、ただ走った。途中でヒールが折れてからは、靴を脱ぎ捨てて走り続けた。
でも馬車で通うような道を、そんな簡単に走破できる訳もない。折り返しにも届かない所で、疲れて走れなくなった。
季節は、春に差し掛かろうという時期だ。夕暮れ時の地面は冷たくて、砂利道で傷ついた裸足には辛かった。
「……馬鹿みたい。何を夢見てたんだろ」
息切れをしたまま、帰り道を歩く。ここは小高い丘になっていて、夕焼けで燃える花畑を眺める度に、明日はどう過ごそうかと考えていたものだ。だけど今日の夕焼けは、その明日さえも燃やし尽くしているようにしか、見えなかった。
きっと皆、失望することだろう。最後の最後であんな大失態を犯した私を、父が許すとは思えない。このまま屋敷に行っても、中に入れてくれないかもしれない。
ううん、王命に背いて王子の世話を放棄したんだ。もしかしたら、その場で首を切られるかも。どっちにしても、二度とこの美しい丘を見ることは叶わないだろう。
…………王子、きっと怒っているだろうな。それとも、悲しませちゃったかな。
「……私はいつから、あの人に恋焦がれていたんだろう。いつから……あの人無しでいられなくなっていたのだろう」
王子は私のおかげだとか言ってたけど、私がやったことなんて、読書の趣味に巻き込んだことくらいだ。それだって、少しだけ私に似ていると思い込んで、孤独を紛らわすための道具として、彼を利用しただけかもしれないじゃないか。
……都合よく便利に使っておいて、勝手に彼を慕って……恋慕が叶わないと知れば、逃げ出すなんて。最低だ、私は。
「……ごめんなさい、王子。こんなことになる前に……貴方にちゃんと、謝っておけばよかった」
「そう思うなら、僕から逃げるな」
頭上から、呆れ返った王子の声がした。もしかして、私を追うためにわざわざ馬を借りてきたの!?
「ほら、一緒に帰ろう。父上が心配している。もちろん……僕もな」
「……っ!」
「あ、おい!?」
独り言を聞かれたことも、顔を見られることさえも恥ずかしくなって、逃げちゃ駄目だって頭で分かってたのに、また走り出してしまった。あろうことか王子まで馬から降りて、走って追いかけてきた。
「僕の話を聞けって!ていうかなんで裸足なんだよ!?止まれ、転ぶぞ!」
「嫌です!婚約相手の惚気なんて、聞きたくありません!……あっ!?」
「くそ、言わんこっちゃない!」
疲労でつまずいた私は、王子に抱きかかえられたまま、花畑の上をゴロゴロと転がり落ちてしまった。私たちの勢いが止まった頃には、もう全身が草と土にまみれてしまっていた。
「この馬鹿!顔に傷でも付いたらどうするんだ!」
その顔が触れそうなほど、近くにあった。さっきまでずっと見たかった顔だったのに、見ているだけで息が出来なくなりそうで、まともに直視することが出来ない。
「は、離してください!こんな気持ちを抱えたまま、王子のお世話なんて出来ません!ご婚約おめでとうございます!どうぞ末永くお幸せに!」
「だから誤解だって言ってるだろ!?くそ、今夜ロマンチックに決めるつもりが……!おい、逃げるな!落ち着いて僕の目を見ろ!そして、しかと聞け!」
顔を掴まれた私は、ついに真正面から王子と対峙することになった。彼は余程怒っているのか、頬どころか耳まで真っ赤になっている。私は恐怖と情けなさで、泣きそうになってしまったが――
「僕がずっと片思いしてたのは、お前だ!この鈍感女!!」
――別の意味で、動けなくなった。
「……ふぇ?」
「だから!目の前の!ウラリー・モンド侯爵令嬢に!今夜告白するつもりだったんだよ!こんな草と土に汚れながらじゃなくて!夜景の見える城の一等席で!ちゃんと婚約と交際を申し込むつもりだったんだ!!」
……告白?……私と、婚約???
「僕の希望は、ウラリーを婚約者にすることだけだ!お前にそれを拒否されたら、そこで終わりなんだよ!」
今度は私の方が真っ赤になる番だった。王子が、私に片想いしてた?そうとも知らずに、私はずっと……?
「え……い……いつから、ですか?その……す、好きになったのって……?」
「はああ……そんなの知るかよ。いつの間にか、好きになってたんだから。でも、はっきり意識したのは二年前だ」
呆れた顔の王子は、顔を赤くしたまま地面に座りなおした。さりげなく、ハンカチを私に差し出してくれている。そんな優しさが意外に思えないくらい、彼は既に立派な王子様だった。
「僕が成績優秀と知るや、何年かぶりに母上が顔を見せた。そして公爵令嬢との政略結婚を一方的に告げられて、勝手に外堀を埋め始めたんだ。その時にお前との時間が頭を過ぎって、勝手に話を進めるなら亡命も辞さないと、啖呵を切った」
ぼ、亡命!?下手をすれば廃嫡ものの大暴言なのでは!?
「そんなことして大丈夫だったんですか!?」
「大丈夫なものか。当然母上は激怒して、それは父上の耳にも入った。だが僕の気持ちを悟った父上が、機会を設けてくれたんだ――」
『――シリル。この政略結婚が、我が国にとって有益であることは間違いない。それは同時にお主が、この国にとって有益な存在となったことを意味する。妻のやり方は強引ではあったが、私も国益に適うと理解できる以上、王として反対は出来ない。故に妻と周囲の反発を鎮めるには、お主自身が相応の実力と覚悟を示さねばならないだろう』
『では卒業試験である模擬戦争で、結果を出しましょう。第一王子である兄上がかつて残した、開戦から三日後の勝利判定。これを打ち破ってご覧に見せます。それが叶いましたら……』
『ふっ……その時は、好きにしなさい。父親として言わせてもらうなら、私もあの娘は良い子だと思うよ。ちょっと変わった娘だとは思うがね』
「――だがまさか、その模擬戦争にお前自身の力を借りることになるとはな。実際とても助けられたが、今思えば情けない話だ」
そんな前から、私のことを意識してくれていたなんて……。二年前と言ったら、私はまだ自分の気持ちを整理できていなかった頃だ。度々食堂へエスコートするようになったのも、周囲に関係性をアピールしたかったのだろうか……?
「それで、お前はどうなんだ」
「は、はいっ!?」
「お前は、いつから僕のことが好きだったんだよ。僕はちゃんと明かしたんだから、お前も明かせ」
「…………いつの間にか……です」
「お、お前……よくそれで、いつから好きだったとか、僕に聞けたな?」
「あ、あはは……ほんと、そうですね……」
夕焼けで焼き尽くされた花畑が、夕闇へと沈んでいく。もう間もなく夜になり、星々が空を覆い始めるだろう。
「ウラリー、君が好きだ」
その星々が羨むような王子の美貌は、夕暮の残滓によって、さらに赤く染まっていた。
「君は僕の欠点を知ってても、ずっと寄り添ってくれていたな。君が読書の楽しさを教えてくれたおかげで、僕は本の牢獄の中で、自分の価値を見出せたんだ。今の僕があるのは、誰からも見放されていた頃の僕を支えてくれた、君がいてくれたからだ」
「王子……」
「僕にはもう、君無しの人生は考えられない。ずっと君の隣に居たい。だから、どうかお願いします」
私の手を握る王子の手は、最初に会った頃よりもずっと大きくて。
「僕と……結婚を前提に、お付き合いしてくれませんか」
とても、温かかった。
「……はい。私も、王子のことが大好きです。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
夜の花畑から見えた王城は、今までに見たことが無いくらい、明るく輝いていた。
ーー王子と私の婚約が発表された後、これまで私のことを冷遇していた家族の態度は一変した。モンド侯爵令嬢として、急に持ち上げ始めたのだ。
父と兄は節度を守っていた分、まだ良かった。少なくとも私達の婚約を喜び、今後の幸せを願ってくれていた。空気を読んで、むやみやたらに訪問することも無かった。ただ、問題は母と妹だった。
「シリル殿下。ウラリーなんかより、オーレリアの方がずっと殿下の伴侶に相応しいですわ。この子はウラリーと違って才能に溢れ、美貌も備わっておりますの」
「まあ、お母様ったら。そんな風に本当のことを言われては、お姉様が哀れになってしまいます」
「ふん……」
母は露骨に妹を王子に売り込み始め、その妹も母の期待に応えようと、王子に対し媚びへつらった。その度に、私が如何に妹よりも劣っているかを宣伝し、鼻で笑うばかりの王子を見て、何故か気を良くしていった。
王子が鼻で笑っているのは、機嫌が良い時か、すこぶる機嫌が悪い時だ。それを理解しているだけに、横で見ていた私の方がハラハラさせられていた。
だが、それをいつまでも許すほど、ウチの王子は甘くなかった。
「シリル様ぁ」
「離れろ」
調子に乗った妹が猫なで声で擦り寄った際に、模擬戦争の戦歴を思わせるほどの冷酷さで、母と妹に最後通牒を突きつけたのだ。
「僕はウラリー以外を妻とする予定は無いし、第二夫人を置く予定も無い。妻となる女性を嘲笑するような義妹や義母を持つのは、この婚約で唯一憂慮すべき事実となるだろうが、これ以上は許さん。モンド侯爵家が王家から敵視される覚悟が、貴様らにあるのか?」
その日から、母と妹の姿をぱったりと見なくなった。どうやら城を出入禁止になったらしく、これは貴族にとって最大の恥辱となる処分だった。
……まあ母の方はともかく、妹はあれで中々逞しい少女だ。王子が駄目ならと、別の道をすぐに模索し始めることだろう。どうか強く生きて欲しいものである。
父も社会的打撃を受けることだろうが、妻と娘の暴走を止められなかった責任もあるだろうから、これは受け入れるしかない。せめて爵位没収とならぬよう、陛下には私の軽い頭を下げさせて頂こう。
「すまなかったな。ウラリーの家族だから、出来れば穏便に済ませたかったんだが……」
「いえ、十分に穏便だと思います。不敬罪を適用されても、文句の言えない所でした。家族を護ってくださったこと、感謝いたします」
「おいおい、あんなので不敬罪を適用してたら、昔のお前は首が三つか四つあっても足りなかったぞ」
「あははっ、それはそうかもしれませんね」
こうして二人で笑って過ごせるのが、今でも信じられない。
きっかけは、ただの読書に過ぎなかった。
だけどそんな些細なきっかけ一つで、人と人が結び付いて、成長して、そして幸せを手にすることが出来るのだ。
こんな文字が書かれた紙の束に過ぎない物が、私達を救ってくれたのだ。
きっと、この部屋に漂うインクの香りを忘れることは、生涯訪れないだろう。
「……なあ」
「はい。お茶のおかわりですか?」
「いや、お茶はいい。それより……僕は、お前と婚約して良かったと思ってるけど、お前はどうだ?その……後悔してないか?」
「私も幸せですよ、王子。いずれは将来の子供たちにも、読書の楽しさを教えてあげたいですね」
「ふん。僕ら以上の本の虫にならないと良いけどな」
「あら、親子で読書するのも素敵だと思いませんか?」
「外で遊ぶ楽しさも、教えてやりたいだろ」
「ああ……確かにそうですね。流石です、王子」
「流石も何も、これって普通……いや、なんでもない」
今日も私たちは、新婚生活のハウツー本を読んでは、感想を述べあうのだった。
「本当に変わってるよな、お前。まあ、そこが良いんだけどさ」
いずれやってくるであろう、子供のために絵本を読む夜を、夢見ながら。