第2話 藤壺にて
清涼殿からは、昼前からひっきりなしに厳かな読経の声が響いてくる。
四年あまり前に即位した今上帝は、元来身体が弱かった。
それに加えて最近は、度々目が見えなくなるという奇病にまで侵されているらしい。
ここ数年の間に父である冷泉院の崩御、従弟にあたる先帝の崩御が相次いだ心痛のせいか。
それとも、持病の神経痛の薬として飲んでいる金液丹が原因か。
はたまた物の怪の仕業か。
後宮にいる女房たちの間に飛び交う噂は、尽きることを知らない。
殿舎の一つ、藤壺でも女房たちが先程からそんな噂話に花を咲かせていた。
ここの主である中宮は、先刻から数人の女房を連れて、帝の見舞いに清涼殿へ参上している。
そのため、残っている女房たちに夕刻までさしあたった用事はない。
主のいない間、女房たちは堅苦しい唐衣も邪魔な裳も脱ぎ捨て、袿姿でくつろいでいた。
美濃もまた同じ東廂の隅に控え、御簾越しに庭を眺めていた。
季節はずれの藤棚はみすぼらしさを与えるが、枯葉一つ落ちていない手入れの行き届いた庭はわびしい趣があった。
「一樹様がいらしたわ!」
「左近中将様ぁー!」
誰かが叫んだと同時に、そこにいた女房たちが悲鳴のような歓喜の声を上げ、御簾の際に一斉に群がった。
いつものことながら、今を時めく若い公達が簀子縁を渡ってくる時は、浅ましいほどにかしましい。
美濃が他人事のように冷やかしの目を向けた瞬間、驚愕のあまり目を見開いていた。
確かに女房たちが騒ぐだけのことはあって、その男はすらりと背が高く、目鼻立ちは人の造作とも思えないほどよく整っていた。
しかし、美濃が驚いたのはそんな美しさではなかった。
ただ、この男の醸し出す淀んだ気配が、あまりにもよく知っているものだったからだ。
左近中将は美濃の前でぴたりと歩みを止め、片膝をつくと御簾越しに見つめてきた。
「懐かしい香りがしますね」
そう言って、彼は作り物のような美しい笑みを浮かべた。
美濃はすっと扇を口元にかざすと、左近中将を見据えた。
「お人違いをなさっているのでは? このような場所で会うはずがないでしょう」
「さあ。人の世には縁という言葉があるのを御存知でしょう?」
「人の世、ならば」
「いずれゆっくりお話でも」
左近中将は喉を鳴らして嫌な笑い声を上げると、さっと優雅に立ち上がった。
そして、女房たちに艶な視線を送り、ゆったりと腰を屈めて会釈してから、衣擦れの音も密やかに梅壺の方へ渡って行った。
その後の同僚たちの反応は、美濃の予想に反しないものだった。
「美濃、これはどういうことなの!?」
「あの方にお声をかけられるなんて……!」
「いえ、わたくしにも何がなんだかさっぱり……」
そう返してみても、美濃の言葉など誰も聞いていない。
「とぼけても無駄よ!」
「新参者のくせに早過ぎるわ。悔しいー!」
羨望と恨みのこもった女たちの眼差しに囲まれて、美濃は目眩を起こしそうになる。
「……左近中将様の勘違いですわ。きっとこちらに似ている香を使っている方が他にいるのでしょうね」
美濃はつくろうように目を細めて微笑んだ。
「だっ、誰かしら!?」
話題の矛先が別の方に向いて、美濃はほっと息をつくと、再び庭の方を見やった。
騒々しく女房たちが話し込んでいる中、美濃の頭の中は左近中将、一樹と呼ばれた男のことでいっぱいだった。
いつからここにいるのかは知らないが、左近中将というからには、すでに何年かここに出入りしているのは確かだ。
美濃は彼が何者かを確信していた。
あれほどの汚い、穢れた空気を放つ者は、この世に一人しかいない。
オオマガツヒ(大禍津日)の神――この世の穢れをその霊力の糧とし、あらゆる禍を起こす男神。
それにしても、『一樹』とは笑わせてくれる名だ。
オオマガツヒともあろう神が、神聖をも意味する『斎』を名乗るとは。
それ以上に気になったのは、異常なほどに感じられたオオマガツヒの霊力だった。
いつの間に、あれほどの霊力をつけたというのか。
自分の知らない何かが起こっている。
関わり合いにならない方が得策だとわかっているが、人並みの好奇心も持っていた。
調べてみるか。
美濃――ナオクスヒメは、ぱちんと扇を閉じた。