第1話 頼通の正室
長和四年(1015年)、神無月――。
朔日の更衣も終わり、都の中はすっかり冬めかしい風情が漂うようになった。
内裏、帝の御座所である清涼殿からは、朝政が終わって束帯姿の殿上人たちがぞろぞろと退出して行く。
帝はゆったりと脇息に寄りかかりながら、その様子を御簾越しにぼんやりと見ていた。
そして、一息つくと立ち上がって、朝餉の間に向かおうとした。
その直後、自分に起こった異変に気付き、「ああ……っ」という叫びを上げながら、その場に座り込んでいた。
「どうされましたか!?」
聞き慣れた蔵人の慌てた声が、帝の耳に届く。
「目が、目が見えない!」
瞼はしっかりと開いているはずなのに、誰かに目隠しされているかのように何も映らない。
「誰か、典薬頭を! それから僧都も呼べ!」
帝は蔵人に抱きかかえられながら、探り足で奥にある夜の御殿に入っていった。
***
隆姫は寝殿の身舎で、乳兄弟の千鶴相手に碁をしていた。
そろそろ昼、夫の帰宅してくる時間に合わせて、出迎えるために北の対屋から移ってきていた。
一日で一番、憂鬱な時間――。
「今日もまた、あの人は帰ってこないのかしらね……」
隆姫は碁石をぱちんと置く。
答えに困っているのか、千鶴は黙ったままだ。
父親の喪が明け、前々からの約束通り、関白左大臣である藤原道長の嫡男、頼通と結婚して早五年。
この邸に一緒に住んでいるというのに、真面目にかいがいしく帰って来たのは、最初の一年だけだった。
その後は仕事だの行き触れだのと、理由をつけては帰ってこない。
他の女のところに通っていることくらい、どんな馬鹿な妻でもわかる。
子でもできれば、もう少し引きとめることもできるというのに、あちらこちらと参詣しているにもかかわらず、神仏は授けてくれない。
頼通は摂関家の流れをくむ藤原氏の直系で、氏を継ぐ立場にある。
このまま自分との間に子が生まれなければ、正室の地位が危うくなるのは必然。
父亡き今、離縁などということになったら、経済的にも困窮、落ちぶれて生きる術さえもなくなる。
そんなことには、決してならない……!
「まだ効き目は現れないの? もう時間がないではないの」
苛立たしさも頂点に達して、隆姫は千鶴に八つ当りするように言った。
「御安心ください。必ずや――」
千鶴は意味ありげに扇で口元を隠して笑った。
「頼むわよ」
その時、車宿の方が騒がしくなって、女房の一人が頼通の帰って来たことを告げに来た。
「姫様、よかったですわね」
千鶴が嬉々とした様子で部屋の中を整える一方で、隆姫は脇息にもたれかかりながら、陰鬱なため息をついた。
いつの頃からだろうか、自分の夫に会うのに、気後れするようになったのは……。
頼通は異例なほど若くして公卿の地位につき、そこからくる堂々とした威厳と貫禄をかけそなえた気品を持っている。
そのせいか、夫の貴やかな美しさにいつも圧倒されるのだ。
結婚前、まめに文が届いていた頃は、誇らしくもあったというのに――。
部屋に入って来た束帯姿の頼通は、十日もこの邸に寄りつかなかったというのに、気まずい様子もなく、やさしい笑顔を向けてきた。
「お帰りなさいませ。お食事なさるでしょう?」
「いや、着替えに来ただけなんだ。すぐに出かけなくてはならない」
そう言いながら頼通は、座る間もなく女房たちに手伝われ、直衣に着替えている。
「……そうでございますか」
「機嫌が悪いみたいだね」
隆姫は眉根を寄せて、ふいっと顔を背けた。
「驚いているのですわ。てっきりわたくしのことなど、忘れてしまったかと思っていましたので。こちらに来るのに、道に迷ったりしませんでしたか?」
少しは怒るなり何なり反応してもよさそうなものなのに、尻目に捕らえた頼通は顔色一つ変えていない。
余裕なのか、何とも思っていないのか。
しかし、それが余計に隆姫の癪に障る。
「そう目くじらを立てるものではないよ。きれいな顔が台無しだ」
「どうせ、あちらこちらで美人は見慣れているのでしょう? 今さら、こちらで見る必要もないのでは?」
「では、行ってくるよ。今夜は宿直で帰れないから」
「今夜も、の間違いでしょう!?」
隆姫が睨みつけると、着替え終わった頼通は小さく笑いながら部屋を出て行った。
「姫様、せっかく頼通様が帰っていらしたというのに、あれでは――」
千鶴の苦言を遮るように、隆姫は言葉を噛みしめた。
「絶対に許さない。後で泣くのは、あの人の方なんだから……!」