後話 宴の夜
小野宮大納言と呼ばれる藤原実資の邸の釣殿では、ごく親しい者たちだけを集めて、管弦の宴が繰り広げられていた。
釣殿を繋ぐ渡殿は、酒や肴を運ぶ女房たちがせわしく行き交っている。
一人の若い女房が渡殿に据えられた局から出たその時、高坏を持った年老いた女房、上総とぶつかりそうになった。
「まあ、右近! この忙しい時に、いったいどこに行っていたの? 探していたのよ。今宵は宴だと、言っておいたでしょう?」
「申し訳ありません。急用がありまして。わたくしが運びますわ」
右近は上総から高坏を受け取ると、まだ何か言いたげな彼女を残して、さっさと釣殿に向かった。
丑の刻を過ぎた今、男たちは涼しい夜風に吹かれながら、さらに酒を仰ぐ者、寝転がっていびきを立てている者と、管弦もすでに忘れて酔い乱れていた。
酒の相手をしている若い女房たちもほんのりと顔を赤らめ、交わされる話に笑い声を立てている。
右近は人の間を縫いながら、酒を飲んでいる者たちのところへ肴の乗せられた高坏を運び、辺りを見やりながら、空いた瓶子や土器を片付け始めた。
不意に男の手が伸び、右近の右手を掴んできた。
手にしていた土器が小さな音を立てて転がる。
右近はゆっくりと顔を上げ、その手の主を見た。
東宮の一の皇子、式部卿宮敦明親王――。
元服してまだ三年のこの若い宮は、酒のせいか潤んだ瞳でまっすぐに右近を見据えていた。
その顔は怒っているようにも見える。
「どうされましたか?」
右近は目を細めてゆったりと微笑むと、掴まれている手を滑るように引き抜いた。
「酒の香りで気分が悪い。どこか休めるところはないか?」
「案内致しましょう」
右近はゆっくりと立ち上がり、敦明が立ち上がるのを確認してから、袿を翻して部屋を出た。
渡殿の半ばまで来た時、敦明が突然歩みを止めた。
「私の気持ちは知っているのだろう。なぜ、文の返事をくれない?」
右近は小さく息をつき、敦明を振り返った。
彼はまだ幼さの残る、愛らしいとも取れる顔には不釣合いな男の眼差しで、右近を見つめている。
「毎日毎日、身に余る御好意を頂いて、嬉しく思っております。お返事はただ時期を見ていたので、遅くなっただけのこと」
右近の言葉に、敦明はすねたように唸った。
「それは、私が子供だからか?」
「いいえ」
右近はくすくすと笑いながら、月の入った後の闇が広がる空を見上げた。
「久方の月夜は明かし、恥づる身はただ月隠るるを待ちにけるかな」
(訳:月の夜は明るくて恥ずかしいので、隠れるのを待っていました)
右近の詠んだ歌に、敦明はほっとしたように顔をほころばせると、その手をそっと握ってきた。
「照る月の光にまして輝くは、君にあらむと人は思はむ」
(訳:照る月より輝いているのは、あなたの方だと皆思いますよ)
右近は半眼を閉じて敦明に寄り添い、彼の耳に唇を寄せた。
「そのお歌、気に入りましたわ。わたくしの局でよろしければ案内致しますが、いかがします?」
「行こう」
右近はすぐ近くにある自分の局の遣り戸を開けて、敦明を通した。
火の灯らない暗闇の中で二人は抱き合い、何度も口付けを交わした。
敦明はまるで時間に追われているかのような焦燥の中で、着物を脱ぐのももどかしく、ただ排泄するが如く右近を抱いた。
右近は時折痛みに小さなうめき声を上げたが、静かに彼を受け入れていた。
あっけないほどの短い契りの後、敦明は荒い息を吐いていたが、やがてそれは静かな寝息に変わっていった。
右近は彼の隣で、狭い部屋にたち込めるすえた汗の香りを嗅いでいたが、やがて着物をかき寄せ、身にまとった。
そして、燈台のもとに転がっていた紙燭を取り上げ、敦明を起こさないようにそっと部屋を出る。
右近は簀子縁に下がる釣燈篭に手を伸ばして紙燭に火を移し、再び部屋に戻って燈台に火を入れた。
部屋の中は次第に明るくなり、横になっている敦明の剥き出しの白い肌を浮び上がらせた。
右近はその傍らに膝をつき、彼の肉付きのよい右肩をそっとなぞった――が、直後、その手を固く握り締め、歯噛みした。
「またもや……!」
右近は舌打ちして文机に向かい、その上に乗っていた草紙を開いた。
そこには歴代の親王の名が書き連ねられている。
しかし、相当数の名はすでに墨で消してあった。
右近は筆をとると、『敦明親王』と書かれた上に線を引いた。
「一体いつになったら、めぐり合えることやら……」
右近は深いため息をついて草紙を閉じた。
次話より一章がスタートです。
この六年後がメインの話になります。
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