中話 邂逅
昼の暑さにあてられ、疲れていた藤原頼通はいつもより早く床に就いていた。
暑苦しい夏の夜だった。
時折吹く風に、簀子縁の釣燈篭の炎が揺れ、格子の影が几帳の帳に揺らめく。
その度に寝返りを打つくらい、浅い眠りの中にいた。
頼通が何度目かの唸り声をもらした時、身体の上に大きな岩を乗せられたような感覚に陥った。
はっと目を開くと、身体は全く動かなくなっていた。
金縛り……!?
かろうじて動く瞳だけを動かして、辺りを見回した。
そして、自分の枕もとに座る婚約者の父、具平親王の姿が目に入った瞬間、さらに身体は凍りついていた。
なぜこのようなところに、という疑問は全くない。
なぜなら、その姿は暗闇にぼんやりと光を放って浮かび上がり、その向こうにある几帳を透かして見せているからだ。
死霊なのか生霊なのかということを除いても、一目で物の怪だということはわかる。
「頼通殿……」
その震えるような声が、頼通の全身に悪寒を走らせ、思わずごくりと息を呑ませる。
「どうか隆姫のことを……。決して、ないがしろにはしますまいな。約束してくだされ」
のっぺりとした表情のない顔と声に恐れをなして、頼通は何度も頷いた。
「や、やや、約束する」
実際、自分の首が動いているのか、声がきちんと出ているのかもわからないが、とにかく言った。
「必ずですぞ。約束を破った時は――」
かたん、という妻戸の開く音が聞こえたと同時に、身体の金縛りは解け、具平親王の姿も瞬時に消え去っていた。
ほっと息をつく間もなく、誰かが部屋の中にいる気配に冷や汗が噴き出てくる。
他にも物の怪がいるというのか……!?
頼通は真っ青になると、枕もとの太刀を掴み取りながら起き上がった。
かすかに衣擦れの音がし、几帳の帳に人影が映った。
「誰だ!?」
頼通が勇気を振り絞って叫んだ時、几帳が音もなく押しのけられ、それは姿を現した。
「女……?」
闇の中でも際立つほど色白く、美しい少女だった。
切れ長の目、妖しいほどに艶やかな唇。
年の頃は頼通と同じ十七、八といったところだろうか。
真っ白な単衣に緋の切袴という、異様な姿でそこに立っていた。
女房ならば、このような姿でここに来るはずがない。
袿に唐衣、裳を付けてくるはずだ。
思わず見惚れていたのも束の間、少女の手にしている長い剣が目に入って、頼通は慌てて鞘から太刀を抜いた。
「私を殺しに来たのか?」
そう言ってみたものの、少女から殺気は感じられなかった。
それに対する返事もない。
身じろぎ一つせず互いに見つめ合い、長い沈黙が流れた。
そして、先に声をかけたのは、少女の方だった。
「死霊は具平だったか?」
少女はどこか疲れたように、そんなことを聞いた。
「なぜ、それを?」
「ならばよい。邪魔をしたな」
それだけ言って、少女は踵を返した。
頼通はその次に取った行動が、自分でもよくわからなかった。
とっさに彼女の袴の裾を掴んで、引き止めていたのだ。
「何ぞ用か?」
そう言って頼通を見下ろす少女の目は、凍りつかせそうなほど冷ややかだった。
「ええと、その、待て。人の寝所に勝手に入るような曲者を野放しにできるか」
「ならば、太刀は手放すものではないぞ」
「あれ……?」
先程まで持っていたはずの太刀は、振り返れば床の上に転がっていた。
頼通が恐る恐る振り返ると、彼女の剣の切っ先が、額のところでぴたりと止まっていた。
「裾を離されよ」
頼通が言われた通りに手を離すと、少女は初めて目元を緩めて、剣を下ろした。
「あ、あの、名は……?」
「契りを結んだ相手でもないのに、名乗ると思うか」
「……ならば、なぜここへ?」
月明かりにきらきらしくはじく漆黒の瞳に魅入られ、頼通は視線をそらすことができなかった。
彼女もまた何かを考え込んだように、頼通を見つめ返している。
「汝に逢いに来た、と言ってほしいか?」
「え、本当か……?」
少女の言葉に、頼通は胸が高鳴るのを感じた――が、少女の方は小さく鼻で笑った。
「汝は実に面白い男だな」
なんだ、からかわれているのか……。
頼通は落胆した顔を見せるのが悔しく、俯いていると、くくくっと笑う声が頭上に降ってくる。
「せいぜい死霊を怒らせぬよう、気を付けよ」
ひんやりとした細い指先が頼通の顎に絡みついたかと思うと、ぐいっと押し上げられ、かすめるように唇が軽く重ねられた。
頼通は突然のことに驚くばかりで、少女が離れても身動き一つできなかった。
彼女は濡れた唇に笑みを浮かべたかと思うと、さっと身を翻して御簾の向こうに姿を消した。
「また逢えるか!?」
慌てて頼通は叫んだが、その声は虚しく闇の中に溶けていっただけだった。
いまだ揺れている御簾を茫然と見つめ、冷たくやわらかな感触の残る唇に手をあてた。
彼女もまた物の怪だったのか。
すべてのことは夢か現つかわからないまま、夜はさらに更けていった。